夜の足音

1/2
18人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ
【夜の足音】  この年、明治という大変革時代が終わり大正という新しい時代に入った。日露戦争での景気低迷が尾を引いてはいたものの、新しい時代への期待感は国民全体の気運を高めていた。 海外からは多くの物資と共に目新しい生活様式や言葉が流入し、一部の金持ちたちの間ではそれを取り入れることが時代の最先端だと思われていた大正の時代。  清澄財閥は、政商としてその地位を確立させていた。 金融、貿易、造船。この三本柱を軸に、清澄財閥はあらゆる事業に手を伸ばしていた。 長野と新潟には広大な土地を持ち、小作人から毎年莫大な小作料が納められている。 その金を元手に、清澄コンツェルンは事業を拡大し続けていた。  清澄家には、四男一女がいる。 コンツェルン総帥清澄剛健(きよすみごうけん)は、すでに金融事業を長男、景一朗に譲り渡していた。 景一朗は、物事が合理的に運ぶことを由とする人間だった。物事を冷静に判断し、何が利得となるかを良く心得ていた。 次男の貴之は、東京帝国大学の三年に在学していた。英国に留学していたために一年遅れて入学した。少々短気な面もあるにはあるが、それが物事への取り組みの早さにも繋がっていた。また緻密な策略家でもあった。相手の裏をかくのは、貴之のもっとも得意とするところだ。剛健は、政府との密接なやり取りのある海運造船の分野を貴之に委ねるつもりでいた。兄弟の中でも特に見目のよかった貴之は、女にもてた。 三男の慶彦は、幼い頃に病気で亡くなった。 四男の冬彦も東京帝国大学の一年に在籍していた。行く行くは、清澄コンツェルンの貿易事業を継ぐこととなる。冬彦は優しく穏やかで気配りができ、何事に対しても急くことはなかった。妹・冴子の遊び相手になってやるのも彼だった。 ひとり娘の冴子は、まもなく十二歳になる。  夕食が終わった後の短い時間、この屋敷の三兄弟は図書室で過ごすことを常としていた。 和書・洋書を問わず、政治・経済・法律と手に入る本は何でもこの部屋に収められていた。特に図鑑や美術書の類いは、公の図書館をはるかにしのぐ冊数を誇っている。 すでに仕事に就いている長男・景一朗は、定時で帰れることが少なく、夕食後の図書室での団らんに参加することは珍しくなっていた。 それでも早く帰ってきた夜は、必ずこの部屋に顔を出していた。幼い頃から習っていたヴァイオリンの練習をするのもこの部屋だった。 油絵が趣味の四男・冬彦は、毎晩ここでヨーロッパの有名な画家による絵画を美術書で眺めるのを楽しみにしていた。 新聞は刊行されている物がすべてそろっていたし、英字新聞を読むのもこの屋敷では習慣化している。 いつものように真っ先に英字新聞を広げていた次男・貴之は鬱陶しそうな顔で、ヴァイオリンの手入れをしている景一朗を見た。 「冴子の誕生日に客が?」 「必ず出席するようにとのお父さまからの伝言だ」 「伝言じゃなくて、命令でしょう?ただが子供の誕生日。内輪でやればいいことだ。面倒だな」 「貴之、黙って欠席するようなことはするな」 貴之は顔をしかめた。清澄家では、父である剛健の言葉は絶対だった。 「客って誰なんです?」 冬彦は、眺めていた美術書から目を離すことなく口を開いた。 「婚約者ですよ、冴子の」 貴之は目を見開くと口笛を吹いた。 「親父さまもよくやるな。事業拡大のための政略結婚とはいえ、冴子はまだ子供だ」 「貴之、口が過ぎるぞ」 景一朗は貴之をたしなめたが、貴之の口の悪さはいつものことだった。 「はん、うちと縁組みできる幸運な輩は、いったいどこのどいつだ?」 冬彦は本を閉じると眼鏡を押し上げた。 「北岡財閥の一人息子、征長(ゆきなが)です」 「北岡か。まぁ、妥当なところだろうな」 「悪い奴じゃありませんよ。男ひとりということもあって、多少甘やかされて育ってはいるようですが、許容範囲でしょう」 「冬彦、おまえやけに詳しいな」 「北岡とは同窓生なんです」 「なんだ、まだ小僧っ子か」 末っ子の冴子は、ベッドの上で本を読んでいた。ダブルサイズのベッドは、子供がひとりで寝るには大き過ぎた。が、幼い頃からこのベッドを使っている冴子は、そんなことを考えたことはなかった。 サイドテーブルに置かれている釣り型のランプには、冴子の好きな薔薇がエッチングされている。清澄財閥が経営する貿易商がヨーロッパから輸入したものを、父・剛健が冴子のためにこの部屋へ置いた。 冴子は小さなあくびをすると、本を閉じた。そしてベッドから滑るように降りると、これもまた剛健が手に入れてきた蓄音機を回した。 剛健は子供たちに、特に冴子には出来うる限りの贅沢をさせていた。 「冴子」 入ってきたのは貴之だった。 冴子は、ぱっと表情を明るくした。 「貴之お兄さま。どうなさったの?」 「レコードの音が聞こえたんでね」 「お兄さまのお部屋にもありますでしょう?」 「あるけど、おれには音楽の趣味はないから」 貴之はソファにどかっと腰をかけると、髪をかき上げた。 「明日、冴子の婚約者が来るんだって?おれたちも勢揃いでご挨拶だそうだ」 「お兄さま方も?」 「そうだよ。先々、親戚付き合いをすることになる連中だからね」 冴子はつんとすますと、貴之の向かい側のソファに座った。 「冴子は存じませんわ。お父さまがお決めになったことですもの」 「冬彦の同窓生らしいよ。冬彦は悪い奴じゃないと言ってた」 「たとえ悪い方でも、お父さまがお決めになったお相手なら関係ないことなのでしょう?」 貴之はにっこり笑った。 「なんてお利口なんだ。冴子は本当に頭が良いね」 「結婚のお相手なんて、どなたでも同じですわ。冴子は冴子ですもの」 とても十二歳になる少女の言葉とは思えなかった。冴子は、誰よりも誇り高く誰よりも利発で誰よりも凛としていた。 北岡財閥は、関東圏の鉄道経営を一手に引き受けていた。清澄にとって、輸出も輸入も港からの出入りになる。日本中に荷を運ぶにも国産品を集約するにも、足が必要だ。鉄道は咽喉から手が出るほど欲しい産業だった。 北岡にしても、清澄の財を使って鉄道網を広げることを第一義に考えていた。 冴子と征長の結婚は、両家の利害に一致した。  冴子はこの日、朝から着せ替え人形のように仏蘭西から取り寄せたドレスを着せられていた。くるりと巻いた長い髪、桜色の薄い唇に大きな黒い瞳。 濃い紫色の別珍のドレスにお揃いのヘッドドレスは、はっきりとした顔立ちで可愛いというよりは美形の冴子に良く似合っていた。 「お綺麗でございますよ」 「本当にお似合いです」 女中たちの褒め言葉に、冴子は鏡の前でにこりともしなかった。 「松田、お客さまは何時にいらっしゃるの?」 女中頭の松田は、時計に目を向けた。 「十一時半でございますよ」 「では、お食事がご一緒なのね。ヘッドドレスを付けたまま、お食事をするの?」 「それは…、いかが致しましょう」 「顎のリボンが邪魔だわ」 冴子は鏡に映った松田を睨みつけた。 「ではお食事の間、松田がヘッドドレスをお預かり致します」 「そうしてちょうだい」 十一時半を少し回った頃、北岡家が到着した。北岡定明、妻の八重、長男の征長に長女の康子。 玄関まで出迎えた冴子を見て、北岡夫人は声を上げた。 「まぁ、なんと可愛らしいの。まるでフランス人形のようだわ」 冴子はドレスの端を少し持ち上げ、軽く会釈した。 「ごきげんよう。冴子でございます」 征長は冴子の前で少しかがむと、笑みを浮かべた。 「こんにちは、冴子ちゃん。僕のこと憶えているかな?」 冴子は首を振った。 「そうだよね。もう四年も前だから」 ふたりは四年前に千鳥ケ淵にある英国大使館の花見で会ってはいたのだが、征長自身も正直なところ冴子のことは顔立ちのはっきりした目の大きな子、くらいにしか覚えてはいなかった。 清澄冴子が婚約者であることを、北岡征長は3ヶ月ほど前に知らされていた。自分で妻を選べないことはわかっていたのだが、相手がまだ幼少であることに少々落胆していた。子供のお守りをしなければならないような気がしてならなかった。 けれど四年ぶりに冴子に会って、征長は考えを改めた。まさか冴子がここまで美少女に育っているとは夢にも思っていなかった。気の強そうな目、すっきり通った鼻筋、薄く桜色に輝く唇。どれをとっても征長の好みに合っていた。 実際に結婚するのは、冴子が高等女学校を卒業してからになる。その頃には、この美しさに品と教養が増し加わっているに違いない。 いや婚約者なのだから、自分が冴子に好みの色をつけて行くことだってできる。 先程までの憂うつはどこかに消えて、征長は心躍る気分だった。 征長は冬彦と同じ十九歳。康子は高等女学校、名門昇華女学院に通い十七歳になっていた。 「北岡家の姫は見目麗しいとお聞きしていましたが、噂は本当でしたね」 貴之は世辞の言葉と共に康子の手を取ると、その甲に接吻をした。突然接吻され、康子は目を丸くして貴之を見た。微笑む貴之を見て、康子は胸が高鳴るのを覚えた。 薄い空色の三つ揃いに小模様の入ったアスコットタイ。肩に掛かる長い髪。こんな殿方に会ったのは初めてだった。見目麗しいのは自分ではなく、貴之の方だと。 耳たぶまで真っ赤にしている康子のようすを、冴子は見下すように鼻先で笑った。貴之がこの屋敷に来る女性客に必ず言う世辞の言葉を、まともに受けている康子が馬鹿に見えた。 応接室で食後のお茶が出された頃、北岡夫人は冴子に目を向けた。 「冴子さんは、ピアノがお上手とか。ぜひお聞かせ願いたいですわ。ねぇ、征長さん」 「えぇ、ぜひ」 剛健は自慢気に冴子を見た。 「どうだ、冴子」 冴子は落ち着き払って言った。 「景一朗お兄さまとご一緒なら」 景一朗は笑みを浮かべると席を立った。 「ヴァイオリンを取ってきましょう」 景一朗がヴァイオリンの用意をすると、冴子はピアノの前に座った。 「冴子、音をくれるかい?」 冴子がポーンと一音出すと、景一朗はそれに合わせて調弦した。 「では、シューベルトを」 景一朗は冴子と視線を合わせると、演奏を始めた。冴子は先程までの無表情から、口許にほんの少し笑みをたたえていた。背筋を伸ばし自信に満ちて凛としていた。景一朗も冴子のピアノの音を確かめるように優しいまなざしを送り、自分自身も演奏を楽しんでいた。 演奏が終わると、冴子は椅子から降りすましてお辞儀をした。 「兄妹でなければ妬けるところでしたね」 征長は、まだ少女でありながら冴子の物怖じしない性格に、北岡家に嫁いで来てもうまくやって行けるだろう事を確信していた。長子である自分の妻は、気位が高く、誇り高くなくてはいけない。社交界でも目立つ存在でなければならなかった。 政略結婚であることを征長は重々承知していた。ならばその素養を十二分に持ち合わせている冴子は、結婚相手にふさわしかった。  現在の貴之の趣味は、眼鏡に適った女子を落とすことに終始していた。時には、眼鏡に適わなくとも友人に見せつけるために女をたぶらかしてみせることもしばしばある。 貴之は今日、退屈しのぎに北岡の娘・康子をそのおもちゃに選んでいた。北岡家がこの屋敷に滞在している短い時間に、極力言葉を交わさず、康子の気持ちを自分に向けさせようというのだ。 やり方は簡単だった。一緒にいる間、常に相手の目を見て視線をそらさないこと。そして、相手と目が合ったら、少し笑って見せる。たったそれだけで、十割の確率で女は落ちた。 康子は視線を感じて目を向けた。貴之は目が合うと、微笑んで見せた。すると、康子はあわてて視線をそらし頬を赤らめた。玄関で手にされた接吻とあの褒め言葉は、夢心地の瞬間だった。康子は何故貴之が自分ばかり見ているのだろうと考え始めた。最初は顔に何かついているのかと思ったが、そうではなさそうだった。食事の時も、冴子と景一朗が演奏している時も、康子はずっとその視線が気になっていた。そして、それはやがて動悸に変わった。 上気している康子に、北岡夫人が声を掛けた。 「康子さん、どうしました?具合でも悪いかしら?」 「い、いえ、お母さま。何でもありませんわ」 そのようすに貴之はほくそ笑んだ。 征長は立ち上がると、剛健を振り返った。 「清澄さん、冴子ちゃんと庭を散歩してもかまわないでしょうか?」 「もちろん、かまわんよ。冴子、征長君をご案内しなさい」 「はい、お父さま」 征長は冴子と手を繋ごうと手を出したが、冴子は手に視線を落とし、そのまま征長と目を合わせた。そして、口の端でほんの少し微笑んで見せたが手は繋がなかった。 清澄家は広大な敷地に母屋と離れ、北の端に使用人たちの住む別棟が建てられていた。 景一朗を始めとする三人の息子たちが独立すれば、この敷地内にそれぞれの屋敷が建てられることになっている。 広い池には錦鯉が悠々と泳いでいた。 庭のあちこちに植えられた木々は、季節ごとにその鮮やかな花を咲かせた。 花壇にも見たこともないような花々が、可憐にそよ風に揺られている。 「冴子ちゃんは、どんな花が好き?」 「冴子は、薔薇が好きですわ。真っ赤な薔薇が」 「では、今度来る時は深紅の薔薇を贈り物にしようかな」 冴子は口許だけで微笑むと、小首をかしげるようにして頷いた。 庭は、散歩をするには広過ぎた。門近くまで来た時、冴子は葉の散った大木を見上げた。 「この桜は、曾おじいさまの代からここにありますの。春になると見事な花を付けますわ」 「それは見てみたいな。では春になったら、この木の下でお茶を楽しみましょう。僕は冴子ちゃんの好きな洋菓子を用意します。どんな洋菓子が好きかな?」 「征長さまとご一緒でしたら、何でも結構ですわ」 こんな少女が、さらりと婚約者を喜ばせる言葉まで用意してあるのかと、征長は冴子の性格に頼もしささえ感じていた。 「清澄さまのご令息さまとお嬢さまでいらっしゃいますか?」 征長と冴子は、突然門の外の中年女から声を掛けられ立ち止まった。 五十代くらいであろうその女は、少女を連れていた。みすぼらしい身なりに薄汚れた顔。 冴子は眉を寄せた。こんな田舎者を見たのは初めてだった。 「この子はサトと申します。十歳になりました。お願いでございます、この子をこのお屋敷で働かせて下さいまし!」 土下座して頭を土にこすりつけた女とサトを、冴子は汚いものでも見るように顔を背けた。 「行きましょう、冴子ちゃん」 征長に促されて、冴子は門に背を向けた。 それに気づいた女は、門にすがりついて大声を出した。 「お願いでございます!この子をお雇い下さいまし!」 女の声を聞きつけた門番は、ふたりを遠くへ追い払った。 北岡家が帰った後、冴子はさっきの中年女と少女のことを思い出し、ひとりで門まで行った。それを見た松田は、冴子の後を追った。 「お嬢さま、どうなさいました?」 冴子は松田の言葉を無視すると、門の外へ出た。 「お嬢さま、おひとりで外へ出られてはいけません」 冴子は辺りを見回したが、それらしき人影はなかった。 冴子が門に向かった頃、景一朗は貴之の部屋へ来ていた。 「これは兄上。何かご用ですか?」 景一朗は腕組みをすると、カウチに寝ころんでいる貴之を見下ろした。 「北岡の娘をどうにかする気か?」 「何の話でしょう?」 「とぼけるな。今日のあれは、いったいなんだ」 貴之は起き上がると、にやっと笑った。 「そんなにお怒りなることはない。単なる退屈しのぎですよ。冴子の婚約者との顔合わせに、長い時間付き合わされたのですから、少しくらいのお楽しみがあっても構わないでしょう?」 景一朗は、ため息をついた。 「おまえの頭の中は、どうなっているのだ。まったく、あきれて物も言えん」 「退屈しのぎに理由などありませんよ。あんな小娘、興味の対象外です」 「頼むから揉め事だけは起こさんでくれ」 「了解です、お兄さま」  真夜中、清澄家の番犬が激しく吠えるのが聞こえた。鳴き声を聞きつけた門番がようすを見に行ったが、特に何事もなかったようだった。 清澄家ではドイツシェパードを三頭、番犬用に飼っていた。昼間は檻に入れられていたが、夜になると広大な敷地を見回るために庭に放された。 翌朝、冴子は何を思ったのかベッドから起き上がるとそのまま窓を開けた。冴子の部屋は屋敷の三階。寝室の窓からは、小さく門が見えた。冴子は双眼鏡を取ると、門前の人影を捜した。 「!」 冴子は昨日の少女サトが、門の脇にうずくまるように座っているのを見つけた。 冴子は松田を呼ぶと、着替えをした。身支度を整えると、部屋を出た。 「お嬢さま、どちらへいらっしゃいます?」 松田の声を無視し、冴子は玄関を出ると門のところまで来た。サトは冴子に気づくと慌てて立ち上がり、小さな風呂敷包みをぎゅっと握りしめて、これ以上ないほど深くお辞儀をした。 後を追ってきた松田はそのようすを見ると、ほうきを持って来て門の外のサトに向かって振り上げた。 「あっちへおいき!ここはおまえのような貧乏人が来るとこじゃないよ!」 サトはその場にひれ伏した。 「お、お許し下せえ!」 「あっちへおいきって、言ってるだろう!」 その様子を冷ややかに見ていた冴子は、静かにけれど強い口調で言った。 「おやめ、松田」 「でも、お嬢さま」 振り返った松田を、冴子は睨みつけた。 「わたくしの言うことが聞けないの?」 「……」 松田は持っていたほうきを下ろすと黙って後ろに下がった。 冴子はそっと門に近づいて、サトに声を掛けた。 「おまえ、昨日からずっとここにいたの?」 「…へえ、お嬢さま」 サトはひれ伏したまま、蚊の鳴くような声で答えた。無造作に結った髪、継ぎ当てだらけの着物。 「おまえを連れてきた女は?」 サトは激しく首を振った。 「置いていかれたの?」 「……」 冴子はうんざりしたように息をついた。 「松田、この子を入れておやり」 「いけません、お嬢さま。こんなどこの馬の骨とも知れない娘をお屋敷に入れたりしたら、松田が旦那さまに叱られます」 「お父さまには、わたくしがお話しするわ」 「でも、お嬢さま」 冴子は先程同様に、きつい視線を松田に送った。 「…旦那さまには、ちゃんとお話し下さいましよ」 松田はしぶしぶ木戸を開けると、サトを中へ入れた。 「サトといったわね」 「へ、へえ」 サトはうつむいたまま返事をした。 「返事をする時は、はいと言いなさい」 「は、はい」 「おまえを下働きとして雇ってあげてよ」 「お嬢さま、そんなことを勝手にお決めになってはいけません」 「今、お父さまにお願いしてくるわ。松田、この子に着替えを。こんな不潔な子、初めて見たわ」 冴子はそう言い捨てると、玄関へ向かって歩き出した。 居間では父・剛健が新聞を広げていた。入ってきた冴子を剛健は笑顔で迎えた。 剛健にとって冴子は特別だった。目の中に入れても痛くないほど、冴子を可愛がっていた。 「おはようございます、お父さま」 「あぁ、おはよう。うちの姫君のご機嫌はいかがかな?」 冴子は返事の代わりに、にっこり笑った。 「北岡征長は気に入ったか?」 冴子はつんとすましたまま、父の顔を見た。 「気に入らんのか?」 「わたくしがあの方を気に入れば、お父さまのお仕事のためになりますの?」 「そうだ」 冴子は黙って頷いた。 「おいで」 剛健は冴子に来るようにと両手を差し出した。冴子はうっすら笑みを浮かべると、剛健の腕の中に滑り込んだ。 「良い子だ。冴子は本当に良い子だな」 「お父さまにお願いがありますの」 「なんだ?」 「下働きをひとりお雇い下さい」 「冴子にも小間使いが必要か?」 「はい。松田はいちいちうるさくて」 剛健は嬉しそうに頷いた。 「そうかそうか。では、さっそく誰か頼もう」 剛健の胸に顔をうずめていた冴子は、ゆっくり顔を上げた。 「もう決めてありますの。松田のところにおりますわ」 冴子は決してサトに同情したわけではなかった。ただ哀れな田舎者にこれ以上ないであろう施しをしてやることは、気分が良かった。 あの娘は冴子に恩義を感じ、必ずや忠義を誓うだろう。 冴子から話を聞いた剛健は、執事の葛城を呼んだ。 「旦那さま、お呼びでございますか?」 「うむ、冴子が気に入ったという娘が松田のところにおるそうだ。身元を調べよ。問題がなければ、冴子の小間使いにする」 葛城は、すぐさまサトの身元を調べ上げた。 新潟県の片田舎、浦川原村の貧しい農家の生まれ。十一人兄弟の八番目。食いぶちを少しでも減らすために家を出された。けれどわずか九歳のサトを受け入れてくれる場所はなく、仲買の女は何ヶ月も雇い主を探したが見つからず、持て余した揚げ句屋敷の前に置き去りにしたことが分かった。 浦川原村の地主は、清澄家だ。サトは土地を貸している小作人の娘だった。 「よかろう、冴子の望み通りにしてやってくれ」 剛健は、一人娘の冴子にはことのほか甘かった。 「よろしいのでございますか?まだ何もわきまえない幼少の娘でございますが」 剛健は眼鏡の奥から、その鋭い眼光で執事の葛城を見た。 「わきまえるようにさせるのが、おまえの勤めではないのか?」 葛城は深々と頭を下げた。 「仰せのままに」 葛城は松田に、サトを教育するように告げた。冴子の身の回りの世話をするには、サトはあまりにもものを知らなさ過ぎた。 「運の良い子だよ、まったく」 サトはまず風呂に入れられた。ごしごしとタワシで身体中をこすられた。風呂など、いつ入ったのかわからないくらい前だった。子供用の着物などはなかった。松田からサトの面倒を見るように言いつけられていたチヨは、大人物の着物の裾と袖を切って短くした。それでも身幅は大きかったが、取りあえずそれを何とか着せた。 「格好はあんまり良くないけど、これで我慢おし。あんた、着物は縫えるのかい?」 サトは小さく頷いた。 「母ちゃんに、少し教えてもらった」 「じゃ、古着を貰ってやるから自分で縫いな。わからないところは、教えてやるから」 食事も与えられた。麦飯に目刺しと煮物、そして漬け物と大根の味噌汁。たったそれだけだったが、サトにはごちそうだった。 「お腹いっぱい食べていいんだからね」 チヨにそう言われ、サトは目を丸くして麦飯をかき込んだ。 腹が満たされたことのないサトにとって、充分な食べ物を与えてくれる清澄家は、極楽のように思えた。                                                                     *    冴子の誕生日に清澄家を訪ねて以来、北岡康子は貴之を忘れられたいでいた。貴之のことを考えるだけで胸が高鳴り、動悸がする。手に接吻をされたことを思い出すだけで、胸の奥がきゅっと痛くなった。 康子は寝ても覚めても、貴之に想いを寄せる自分から離れられないでいた。 康子は、どうにかしてもう一度貴之に会いたかった。けれど、誰にもその想いを打ち明けることは出来なかった。貴之は兄の婚約者の兄。五つも歳が違う。いや考えて見れば、征長と冴子は七つ違いだ。この年齢差は、たいしたことではない。北岡家と清澄家の強い結びつきを望んでいる父にとって、自分と貴之が結婚すれば、その結びつきは完全なものになるはずだ。 けれど、そのことを家族の誰かに話すことはやはり出来なかった。結婚をするなら、何が何でも貴之からの求婚が必要だ。とにかく康子自身が動かなければ、事の進展がないことだけは分かっていた。 最初は手紙を書こうかと思った。けれど康子には貴之に手紙を出す理由がない。ほんの少しでも貴之に変だと思われでもしたらたいへんだ。そう考えると、手紙は出せなかった。 考えあぐねた末、康子は兄・征長の部屋を訪ねた。 「何か用か?」 「お兄さまは、今度いつ冴子さんにお会いになりますか?」 二週に一度、征長は清澄家を訪問し、冴子と逢う段取りになっていた。結婚するまでに少しでも睦まじくなれるようにと親同士が定めた決めごとだった。 「来週の日曜日だけど。それがどうかしたのか」 「もしお邪魔でなければ、わたくしを一緒に連れて行って下さい。あの…、冴子さんのピアノをもう一度聴きたくて」 「彼女のピアノ?いいけど…、ピアノに興味などあったのか?」 「えぇ、とっても」 日曜日、康子は起きてからずっと動悸が治まらなかった。やっと貴之に会えるかと思うと昨夜もよく眠れなかった。康子は冴子のために、小さな砂糖菓子を用意した。あくまでも表向きは冴子のピアノが目的だ。あいさつに貴之が出てきてくれればそれで良かった。ひと目だけでも、その姿が見たかった。 冴子がピアノを弾いている間も、貴之が来ないかとそればかりが気になった。 「康子さんは、他に気になっていることがおありのようですわね」 「え…、そんなことありませんわ。今日は冴子さんのピアノがお聴きしたくて、兄に無理を言ったのですもの」 そう言いながら、康子の心はここになかった。冴子は心の内を見透かしたように、すまして言った。 「もう一曲弾かせていただこうかしら。今日はお兄さま方がみんな出掛けておられますの。ですから、静かにしていなくてもよろしくてよ」 「皆さま、お出掛けなのですか?…そうですか」 冴子は康子のがっかりした表情を見逃さなかった。この女は、自分をだしに使って貴之お兄さまに会いに来たのだ。 「そういえば貴之お兄さまは、どなたかとお芝居を観にいらっしゃるとか」 康子は貴之と言う言葉に、敏感に反応した。 「良い方がいらっしゃるのかもしれませんわね」 冴子はそう言いながら、ちらりと康子に視線を送った。 急に表情を暗くした康子のようすが、冴子には可笑しくて仕方がなかった。貴之が康子のような女を相手にするはずはない。いつもは退屈な征長との時間が、今日は康子のおかげで楽しいものになりそうだった。 康子はすっかり落胆して、北岡家に戻った。冴子の言ったことが、胸に重くのし掛かった。 『良い人がいるのかもしれない』 貴之には好きな人がいるのだろうか。将来を約束した人がいるのだろうか。 清澄家で婚約が決まったのは冴子だけのはずだ。長男の景一朗でさえ、まだ縁談の話はないと母が言っていた。 たとえ貴之に好きな人がいたとしても、結婚は家同士の問題。自分よりふさわしいものがいるとは、康子には思えなかった。だから、気にすることなどないのだと。 けれど、会えないとなると余計に想いは募る。どうすれば貴之に会えるのか、そればかりを考えていた。 (そうだわ、偶然を装えばいいのよ) 康子は貴之に会うために、東京帝国大学で待ち伏せることにした。女学校への送り迎えの車をやり過すために、運転手に見つからないように裏門からそっと外へ出た。 こんなことをしたのは初めてだった。そのことだけで、康子はもう充分に興奮していた。 帝大のそばまで来ると、康子は商店のガラスに映る自分を見た。リボンは曲がっていないだろうか、洋服にしわはないだろうか。どきどきする胸に手を当てて、康子は帝大の門の内をのぞき込んだ。 授業が終わって、大勢の学生が門をくぐっている。次から次へと学生の出てくるなか、康子はあわてて身を隠した。出てきたのは征長だった。こんなところを兄に見つかりでもしたらたいへんなことになる。康子は物陰から、征長が遠ざかるのを息を潜めて見送った。兄は帰ったのに、貴之の姿はなかった。ひとしきり学生たちが帰ったあと、康子はがっかりして吐息を付いた。やはり女性の方から殿方に会いに行くなど、はしたない行為だ。もし、貴之に会って気持ちを感づかれたりしたら、どうしていいのかわからない。康子は、会えないほうが良かったのだと自分に言い聞かせ門を後にしようとしたその時、突然声を掛けられた。 「北岡財閥の姫ではありませんか?」 康子は心臓が止まるかと思うほど驚いた。 「おひとりですか?」 貴之だった。 「……」 硬直している康子に、貴之は妖しい視線を送った。 「おれを待っていたのでしょう?」 「い、いえ。違います」 康子は首を振った。けれど、視線は貴之から外せないでいた。 「姫に待ち伏せされるなんて、光栄ですね」 「ま、待ち伏せなどしておりません。あ、兄を待っておりますの」 「それは残念だ。もし待っていただいていたのなら、お茶にでもお誘いしようと思ったのですが」 貴之は康子に流し目を送りながら、口の端で笑みを作った。 「おれの勘違いであれば、しかたありませんね。では、失礼」 背中を向けた貴之を見て、康子は焦った。あれほど会いたかった貴之が目の前にいるのに今何も言わなければ一生後悔する。康子は震える手を握りしめながら、勇気を振り絞った。 「あ、あの…貴之さま」 貴之はゆっくり振り返った。 「何でしょう?」 「あ…、いえ。な、なんでもありません」 何とか声は掛けたものの、やはり自分の気持ちを伝えることなどできないと言葉を飲み込んだ。 貴之は戻ってくると、康子の気持ちを見透かしたように真っ直ぐに視線を合わせた。 「自分の気持ちには正直でいないと、後悔しますよ」 康子は顔から火が出るかと思われるほど、真っ赤になっていた。 貴之は鼻先で笑うと、ふっと息をついた。 「どうします?おれとお茶を飲みに行きますか?」 「は、はい」 その返事を聞くと、貴之はすっと康子の腰に手を回した。康子は身体中が心臓になってしまったような気分だった。胸だけでなく頬も指先もどくどくと巡り来る脈が、激しく波打つのがわかった。公衆の面前で殿方が女性の腰に手を回すなど、破廉恥きわまりない行為だったが、康子はこの上ない幸せを感じていた。貴之の手が、今自分に触れている。 康子はすっかり貴之の虜になっていた。何かをされたわけではない。ただ一緒にお茶を飲んだだけ。けれど貴之は、康子が今までに会ったどんな男よりも気遣いが出来て優しいと思えた。煙草を吸う姿も、髪をかき上げる仕草も、すべてが麗しく見えた。 カフェでは席に着く時、椅子を引いてくれた。コーヒーには砂糖をいくつかと聞いてくれて、ふたつと答えると茶さじで軽く二杯の砂糖を入れてくれた。話している間、貴之は自分を見つめたまま、一度も目を離さなかった。そして帰りにはこう言った。 『またお誘いしてもよろしいですか?』 康子にとって、夢のような時間だった。 次はいつ誘ってくれるだろうか。康子は胸の高鳴りを持て余しながら、そればかりを考えていた。  その夜も、景一朗、貴之、冬彦の三人が夕食の後、図書室に集っていた。 「冬彦。北岡の妹は、名を何と言った?」 「確か、康子さんだったと思いますけど。それがどうかされたのですか?」 「今日、帝大の前でおれを待ち伏せていたぞ」 「本当ですか?」 「あれは、おれにぞっこんだな」 冬彦はくすっと笑った。 「でも貴之兄さまの相手にはならないでしょう?」 「ならない。だいたいあんなねんねは趣味ではないしな。だが冴子の婚約者の妹だし、無下にするのもなんだと思って少し付きあってやった」 「何をしたんです?」 冬彦は眉をひそめた。貴之の女泣かせは、冬彦ですら知っていた。 「そんな顔をするな。コーヒーを飲んだだけだ」 「本当にそれだけですか?」 「あぁ、ずっと瞳を見つめたままな」 冬彦は呆れたようすで、ため息をついた。 「…兄さま。それは相手に酷ですよ。その気もないのに、そんな思わせぶりなことをして。康子さんが貴之兄さまのことを真面目に好きになったらどうするのです?」 「そういう時、深窓の令嬢というのはどうするんだろうか。女の方から求婚するという話は聞いたことがないな。とてつもなく興味あるだろう?」 「ありませんよ。康子さんが気の毒です」 「気の毒とは何だ、気の毒とは」 黙って話を聞いていた景一朗が口を開いた。 「貴之、余計なことはするなよ」 「しませんよ。ご心配なく」 貴之の女遊びの激しさは、有名だった。 甘い言葉を真面目な顔で口にし、女が喜ぶ気遣いをよく知っていた。花を贈ったり、赤面するような世辞を言ったり、それとなく身体に触れたり、貴之のやり方にはそつがなかったうえに、彼は背も高く見目も良かった。いつも淡い色の三つ揃いを綺麗に着こなし、指輪やカフスボタンにも気を使っていた。お気に入りのウオルサムの懐中時計をさりげなく内ポケットから出して見せたり長い髪をかき上げる仕草に、よろめく女は多くいた。 だから口説かれた女たちは皆、彼の誘いを断ることはなかった。 カフェの女給や遊廓の女、置屋の芸者にとどまらず、社交界では華族の貴婦人たちを相手にしていたし、数々の政財界の奥方とも噂があった。 父・剛健もこのことを知りながら、咎めることは一切しなかった。むしろ遊ぶ金を湯水のように使わせていた。 貴之は政財界の奥方共との密会で、事業に有益な事柄を寝物語で話させるのがことのほか上手かった。また財界人や政治家本人と関係を持つ芸者や遊女からは、違う形で話を聞き出していた。そのおかげで、剛健は政財界の相関図を知り尽くしていた。 どこに何をすれば有利に動けるかの裏情報は、貴之が常に新しいものを剛健に提供した。 それはそのまま、政商としての清澄コンツェルンの事業拡大に繋がった。 ただ貴之はいくら女遊びが激しくても、そこそこの家柄の未婚の女は、からかうだけで絶対に手を出さなかった。自分が飽きれば二度と相手にすることはない。後腐れのない女だけを選んでいた。  貴之から何の連絡もないまま、康子は一ヶ月あまりを過ごしていた。もう待つのも限界だった。どうしても貴之に会いたくて、居ても立ってもいられなかった。だからといって、こちらから連絡を取るのははばかられた。殿方に女の方から電話を掛けたりするのは、この上なくはしたない。けれど、はしたなくても貴之に会いたかった。 康子は意を決し、また帝大の前で貴之の授業が終わるのを待っていた。 貴之はいかにも夜の商売をしている当風情の女達に囲まれて、門から出てきた。 周囲に笑顔を振りまく貴之のようすを見て、康子は動揺を隠せなかった。 「これはこれは、姫ではありませんか。こんなところで何をしていらっしゃる?」 「あ、あの…」 頬を赤らめた康子に、貴之は極上の笑みを見せた。 「会いに来られた?」 「は、はい。わたくし…」 康子が言葉を探していると、女の子のひとりが声を掛けた。 「清澄さん、そちらの方は?」 貴之は女の子たちのそばへ行くと、何やら話をして通りの向こうを指さした。 「では、先に行っていますわ」 「早くいらしてね」 軽く手を上げて女子たちを見送ると、貴之は康子のところへ戻ってきた。康子は不安気に貴之を見上げた。 「お忙しいのですか?」 「えぇ、今日はちょっと」 「そうですか…」 きっとあの大勢の女たちのところへ行くのだと、康子は悲しそうに視線を落とした。 それを見て、貴之は鼻先で笑った。それほどまでに自分に惹かれているようすの康子が可笑しくさえあった。 「せっかく来ていただいたのに、申し訳ありませんね。また連絡しますよ」 「い、いつですか?いつ、ご連絡を頂けますの?」 「そのうちに」 貴之は冴子の誕生日で会った時と同じように、康子の手の甲に接吻をした。 そして軽く会釈すると、女子たちの後を追った。 康子はそれを見送りながら、貴之に接吻された手を抱きしめた。 康子の想いは募るばかりだった。目まいがしそうなほど、貴之を慕っていた。  日曜日、冴子は退屈していた。 先週は征長がいつも通り真っ赤な薔薇を持ってやって来たが、いつもいつも冴子がピアノを弾くか、庭を散歩するかで、征長のお定まりの訪問にはへきへきとしていた。 これが女学校を卒業するまで続くのかと思うと、冴子はため息が出た。 「冬彦お兄さま」 冴子は冬彦の部屋のドアをそっと開けた。 「どうしたの?入っておいで」 冴子は静かに部屋へ入ると、冬彦のそばへ行った。冬彦は机に辞書や教科書を広げ、勉強の最中だった。冬彦は笑みを浮かべると、眼鏡を押し上げた。 「お兄さま、お勉強中でしたの?」 「かまわないよ。なに?」 「冴子を駒沢に連れて行って下さらない?」 「駒沢?北斗に乗りたいの?」 冴子はこくりと頷いた。 清澄家は駒沢に厩舎を持っている。冴子も北斗と名付けた自分のサラブレッドを持っていた。月毛と呼ばれる毛色は華やかで美しく、冴子のお気に入りの馬だった。 「いいよ。昼食を摂ったら行こうか」 冴子は嬉しそうに笑った。 「北岡も誘う?北岡家の厩舎も駒沢にあったはずだけど」 冴子は急に顔色を曇らせると、小さく首を振った。 「どうして?冴子の婚約者だろう」 「だって…」 冬彦は冴子の顔をのぞき込んだ。 「一緒は嫌なの?いつも彼が来ると仲良さそうにしているだろ」 「だって征長さまは、頼りないんですもの」 「そうなの?」 以前、征長が遊びに来た時、檻に入れてあった番犬が彼に向かって吠えたことがあった。征長は驚いて、思わず冴子の影に隠れるように後ずさりした。 「冴子は、弱い殿方は嫌いですの」 それを聞いた冬彦は、声を立てて笑った。 「なぜお笑いになるの?」 「いや、北岡に伝えておくよ。もっと強くないと冴子に嫌われるって」 「だめよ、お兄さま。そんなことおっしゃらないで」 征長が気に入らないと言いつつも、冴子はこの結婚に疑問を持ったことはなかった。それは決められたこと。自分の意思ではどうにもならないということを、冴子は理解していた。              *                                                              長男・景一朗には次期首相と目される政界の大物真壁秀成の末娘・節子との縁談が進んでいた。これで清澄家は政界との太い繋がりを持つこととなる。 景一朗は婚約してから、何度か節子と会っていた。 「もう試してごらんになったのか?」 貴之は口の端で笑いながら、横目で景一朗を見た。 「試したって、何を?」 「節子嬢に決まっているでしょう。身体の相性は重要だ」 「貴之、おまえはどうしていつもそうなんだ」 貴之はふっと笑いを漏らしながら、髪をかき上げた。 「おれは親父さまに、女をあてがわれるなんてごめんですね」 「お父さまが、それを聞き入れられればいいがな」 「兄さんは何ともないのですか?見ず知らずの女を連れてこられて、この女と子供を作れと言われているのですよ」 「そんな言い方をしてしまっては、身も蓋もないだろう」 「黙って親父さまの言いなりになっている兄さんの気持ちが分かりませんな」 「清澄家の総帥はお父さまだ。逆らっても無駄だな」 逆らっても無駄…。 確かにそうだった。この屋敷の中で、父の言葉は絶対だ。 仕事の内容も結婚の相手も、決めるのはすべて父だ。 景一朗は父が介在する場所に、自分の感情を持ち込むことはなかった。常に客観的に物事を判断し、清澄財閥の実質的跡取りとして理に適うことを優先させるのが本分だと考えていた。 「気に入らんか?」 「…先の見えた競争に、無理矢理参加させられているような気がしますよ。おれたちは皆、親父さまの従属物なのでしょうかね」 「そんな考えは、消し去ってしまえ。おまえはコンツェルンに充分貢献している。色香という武器を使ってな。趣味が実益を兼ねているのだから、文句はないだろう?」 「あの女たちも、もしかすると親父さまのあてがいかもしれませんね。ただ、おれはおれでいたいだけです。特に女に関しては」 「それは、わたしにではなくお父さまに言え」 貴之はため息をついた。女遊びはもう充分にしてきた。今更、どんな女と結婚しても同じだということも分かっている。本当に気に入らないのは、父の押さえつけに甘んじている自分自身かもしれなかった。 景一朗は、清澄家のためだけに生きることに対して疑問は持たないようにしていた。生まれた時からすでに敷かれた道なのだから、抗っても仕方がないと。 むしろ今ある社会的権力を使って、世の中に少なからず影響を与えられることに喜びを見いだせばいいと思っていた。少なくとも、父のように世間体を極端に気にすることなくだ。  康子がまた待ち伏せているのを見て、貴之はうんざりして顔をしかめた。どうやら貴之の方も自分に思いを寄せていると勘違いをされているらしい。いい加減なところで諦めてもらわないと、後が面倒だった。 康子は門の向こうに貴之を見つけると、満面の笑みでお辞儀をした。 「清澄、あの令嬢と付き合っているのか?」 「可哀想に。また、おまえの餌食になる子が増えるのか」 「純情そうなのにな。良いとこのお嬢だろ?」 貴之の素行を知る友人たちは、好き勝手に貴之をけなしている。 「うるさいな。あの子はそういう子ではない」 貴之は康子のそばへ行くとにこりと笑って見せた。 「ごきげんよう、姫」 「わ、わたくし、自分がはしたないとわかっています。でも、どうしても貴之さまにお会いしたくて」 「はしたなくなどありませんよ。自分の気持ちに正直になることは、悪いことではありませんからね」 「はい」 顔を赤らめもじもじしている康子を見て、貴之は益々うんざりした気分になった。この辺りでけりを付けておかないと、本当に面倒なことになりそうだった。 「姫、今度の日曜日にオペラにでも参りましょうか?」 「本当ですか?嬉しい」 「では、一時に帝劇の前で。切符は手配しておきます」 「はい」 康子は天にも昇るようだった。貴之とふたりでオペラなど、考えただけでも嬉しくて胸がつぶれそうだ。けれど、まだ母に話せる状態ではないことは充分承知していた。もう少し時が経って、貴之が付き合いを認めて欲しいと北岡家に挨拶に来てくれればいい。それまでは黙っていようと、康子はときめく胸の内を押さえていた。  日曜日、康子はいつもより早く起き、いつもより念入りに身支度をし、いつもよりきらきらした笑顔で屋敷を出た。家の者には、女学校の友人たちと歌舞伎を見に行くと言って出てきた。後ろめたさがまったくないと言えば嘘になるが、それでも貴之に会える喜びの方が、親を騙したことよりも勝っていた。この嘘はいずれ康子と貴之の、いや北岡家と清澄家の幸せに繋がるのだからと。 帝国劇場には、約束の時間よりもずっと早くに着いた。ここで貴之を待っていること事態が嬉しかった。姫と呼んでくれるのは貴之だけだ。貴之は優しく笑いかけてくれるだろうか?自分だけを好きだと言ってくれるだろうか?先日のようにさりげなく身体に触れてくれるだろうか?あと何回逢えば、手の甲にではなく唇に接吻をしてもらえるだろうか? 康子はそんなことばかり考えていた。 「姫」 「貴之さま」 「お待ちになりましたか?」 「いいえ、今来たばかりですわ」 貴之は小さな花束を差し出した。 「これをわたくしに?」 貴之は頷いた。 康子は、ただ幸せだった。 席について開演を待っていると、派手な女が切符を手に席を探しているようすだった。真っ赤なドレスに、羽飾りのついた小さな帽子をかぶっている。男好きする下品なカフェの女給のようだった。 「お隣、失礼」 「どうぞ」 「あら、貴之じゃないの」 「やぁ、蘭子だったの。元気?」 「このところ、お見限りじゃない?」 そう言って蘭子は、貴之の頬を軽くなでた。 それを目にした康子は、今までにない嫉妬を覚えた。どうしてあんな下品な女が、貴之と呼び捨てにしたうえに、簡単に触れることが許されるのか。 「そちらのお嬢さん、お連れの方?」 蘭子が真っ赤な唇で康子に笑いかけたので、康子は眉間を寄せたまま、おずおずと会釈した。 「妹の婚約者の妹さん」 「まぁ、ややこしい関係ね」 「まぁね」 蘭子はにっこり笑うと、貴之の隣に座った。 康子は小声で貴之に聞いた。 「どういうお知り合いですか?」 「ちょっとした。姫が気になさるような女ではありませんよ」 貴之の言葉に、康子は少しほっとした。自分は貴之に姫と呼ばれ、花まで貰った。あんな女と比べられるわけがないと、康子は真っ直ぐ舞台に目を向けた。 観劇が終わり、劇場から出てくると康子はもじもじして貴之を見上げた。 「あの、わたくし、ちょっと…、よろしいでしょうか」 康子は御不浄へ行きたいようだった。 「いいですよ、この辺りで待っていますから」 康子が行くのを見送ると、貴之は両腕をあげて伸びをした。 「あ~ぁ、なんか気疲れするな」 「あなたでも気疲れするの?」 声を掛けたのは蘭子だった。 戻ってきた康子は貴之の姿が見えないので、あちこち貴之がいないかと見て回っていた。 (貴之さまは、どこへいらしたのかしら) 片隅で男と女が何やらいちゃついているのが目に入った。康子は目を伏せてそこを早く通り過ぎようとして、はっとした。 貴之が先程の蘭子と呼ばれた女と絡み合っている。唇を重ね、蘭子はしっかりと貴之に抱きつき、貴之の左手は蘭子の腰を引き寄せ、右手はその豊かな胸元をまさぐっていた。 「た、貴之さま」 その声に、貴之はちらりと康子を見たが、蘭子を抱いた手も唇も放さなかった。 「…あ、い、いやぁ」 康子はその場から逃げるように走り去った。蘭子は貴之に腕を回したまま顔を近づけた。 「あの子、泣いてたみたいよ」 「あぁ」 貴之は息をつくと髪をかき上げ、煙草に火をつけた。 「悪かったな、わざわざ来てもらって」 蘭子は貴之が火を付けた煙草を取り煙を吸い込むと、ふーっと吐き出した。 「いいの?」 「いいさ。あの子に諦めてもらうために、おまえを呼んだんだから」 「可哀想に。貴之みたいな悪い奴を好きにならなければ、傷つかなかったのに」 「おれは、そんなに悪い奴か?」 「えぇ、とっても悪い奴よ」 蘭子は康子が落として行った花束を拾うと、もう一度貴之に抱きついて接吻をした。  康子は、貴之とあの女の姿が目に焼き付いて離れなかった。あんなことは真実ではないはずだ。あの女が貴之を強引に誘ったに違いない。たとえ何があろうとも、親の決めた相手以外の女と貴之が結婚するはずはなかった。家柄のつり合わない結婚は、あり得ない。 康子は、そのことだけに一縷の望みをかけていた。 胸を締めつけられるような想いで過ごしていた康子を、父が部屋へ呼んだ。 「何のご用でしょう?」 「康子、縁談が決まったぞ」 「!」 「貴之さま、お電話でございます」 執事の葛城が、貴之に声をかけた。 「誰からだ?」 「それがお名前をお伺いしたのですが、お答えにならなくて。若い女の方でございます」 貴之が電話に出ると、掛けてきていたのは康子だった。 今まで一度も電話を掛けてきたことのない康子が、切羽詰まった声で貴之に会いたいと懇願した。 この前の蘭子との一件だろうとは思ったが、何と説明すればいいかと貴之は考えあぐねていた。まさか自分を諦めてもらうために一芝居打ったなどとは、口が裂けても言えない。 約束の甘味処で、康子は貴之を見るなり涙ぐんだ。さすがの貴之も、女にいきなり泣かれてぎょっとした。 「姫、どうされました?」 「…父が、わたくしに結婚せよと。貴之さま、わたくしは結婚などしたくありません。どうすればよろしいのですか?」 何だそんなことかと、色々と思い巡らしていた貴之はほっとした。これで面倒な説明は不要になった。康子の結婚など貴之にはどうでもいいことだったが、康子にとっては人生の一大事なのだろう。 「お相手は?」 「貴族議員の伊藤景虎さまです」 伊藤景虎といえば、いい年をして東京倶楽部の夜会で誰やらに横恋慕したと一時噂になっていた親父だ。そんなくそ親父と結婚させられるとは、さすがに康子のことが憐れに思えた。 「お父上は、もう決まりだとおっしゃられた?」 「…はい」 「では、おれにはどうすることも出来ませんね」 「そんな…」 ぽろぽろと涙を流す康子は可哀想だったが、自分にはどうしてやることも出来ない。いや、すんなり結婚してくれれば、貴之にとっても都合が良かった。 「お父上が結婚をお決めになったということは、姫の幸せを考えてのことだと思いますよ」 「いいえ。お父さまは、わたくしを仕事の道具にお使いなのです」 そうだろうなと思いつつ、貴之は言葉を探した。が、うまい慰めの言葉は浮かんでこなかった。  しばらくして、北岡家から康子が亡くなったと連絡が入った。 「今夜がお通夜で、明日お葬式です。親戚も同然ですから、皆で参りますよ」 母・雅代はそう言った。表向きの死因は事故ということになっていたが、実際は自殺だった。 景一朗は、貴之を部屋へ引っ張った。 「貴之、おまえ何かしたのか?」 「何もしていませんよ。冗談じゃない。あんな小娘、おれの趣味ではありません」 「本当に手は出していないんだな。おまえが原因で自殺したとなれば、冴子と征長の縁談はご破算になるのだぞ」 「まぁ、接吻くらいはしましたけど」 貴之は、すました顔で笑みを作った。 「貴之!」 「冗談ですよ。逢引した相手には接吻くらいするのが礼儀だと思っていますが、あの子はどうもね。そんな気にすらなれませんでしたよ。初めての挨拶の時に手の甲にしたのは、兄さんも見てたでしょう?あの程度です」 「あぁ、あれか」 「おれのほうが一方的に康子に付きまとわれていたんです。何度も待ち伏せされて。それにおれは、康子に好きだなんて、ひと言だって言っていません。向こうが勝手に熱を上げていたんですから。伊藤景虎と結婚させられると泣きついてきていましたから、原因はそれでしょう」 「伊藤景虎?貴族院のか?」 貴之は頷いた。 「先だって、奥方が病気で亡くなられたばかりです」 「景虎といえば、五十を過ぎているな」 「えぇ、康子にしてみれば父というより、祖父の年でしょうね」 いくら政略結婚とはいえ、まだ十七の娘を五十男の後妻にあてがうとは、北岡もずいぶんな男だと景一朗は思った。さすがに康子は気の毒だ。 景一朗は息をつくと、貴之を見た。 「貴之、おまえももう少し身を慎め。おまえに関しては、いろいろとよからぬ噂も耳にしている。よそで子供でも出来たらどうする」 「おれの結婚相手は親父さまが決めるんでしょう?そのことは、よくわかっていますよ」 「わかっているならいいが。…ほどほどにしろ」 貴之は、くくっと笑いを漏らした。 「何だ?」 「おれの心配より、親父さまの心配をされた方がいいかもしれませんよ。そのうち弟か妹を連れて帰ってこられるやもしれません」 「何の話だ?」 「先月柳橋の芸者を身請けしたと、もっぱらの噂です」 「おまえは…、いったいどこでそんな話を聞いてくるんだ」 「さぁ…」 景一朗が顔をしかめたそのそばで、貴之は口の端で笑ってみせた。 *  ほどなく、景一朗と真壁秀成の末娘・節子との婚礼が執り行われた。 大財閥の惣領と大物政治家の娘の結婚とあって、ホテルで行われたが披露宴には招待客が千人を超えた。 景一朗は二五歳、節子は一九歳になったばかりだった。小作りで色白の節子は、披露宴で清澄が取り寄せた西洋人が結婚式の時に着る真っ白なウェディングドレスを披露した。引き摺るほど長いヘッドドレスと共に、若い女たちのため息を誘った。 誰もが花嫁を褒めるようすに、節子はこれまでにない満足感を覚えていた。 新婚旅行は葉山の別荘へ行った。景一朗の仕事の都合で三泊しか出来なかったが、それでも運転手付きで大勢の召使いに囲まれ贅沢で優雅な時間を過ごした。  新婚旅行から帰って来た翌朝、景一朗は五時半に目を覚ました。それは彼が起きるいつもの時間だった。 景一朗は、ふっと隣を見て眉間を寄せた。 まだ節子が寝ている。 節子はしっかり寝入っていて、起きる気配は全くなかった。景一朗は起き上がってガウンに袖を通すと、節子に声を掛けた。 「いつまで寝ている」 「ん…」 節子は寝返りを打っただけで、静かな寝息を立てたままだった。景一朗はそのまま寝室を出た。そして身支度をし、賄いの用意した朝食を摂った。 仕事に出掛ける時間になっても、節子は起きてこなかった。 景一朗は不愉快だった。夫がすでに身支度を済ませているのに、いつまでも妻が寝ているとはいったいどういうことだ。 寝室へ行くと、もう一度声を掛けた。 「節子」 目を覚まさない節子に苛ついた景一朗は、布団を剥ぎ取った。いきなり布団を剥ぎ取られた節子は、驚いて飛び起きた。 「な、なに?」 目の前の景一朗を、節子は睨みつけた。 「どうしてこんなことをするの?」 「何時だと思っている」 景一朗の言葉に、節子は時計に目を向けた。まもなく七時。節子は大きなあくびをすると、布団を引き寄せた。 「ちょっと寝過ごしただけよ」 「わたしの起床時間は、五時半だと言ったはずだ。明日からは、その前に起きて着替えくらいしておくように」 景一朗はそう言い残すと、部屋を出た。節子は口をヘの字に曲げると、頬をぷっと膨らました。 「何よ、偉そうに」 そうつぶやくと、節子はもう一度布団をかぶった。  景一朗は迎えの車に乗り込むと、渋い表情で息をついた。 結婚前、何度か節子と出掛けたことがあった。場所柄もわきまえず声を上げて笑ったり、くだらないことでへそを曲げる事がしばしばあった。食事に行っても洋食の作法すら知らない。 目に余る時はその場で嗜めることもしたが、節子はいかにも気に入らないという顔をするだけで、素直に景一朗の言葉に従うことはなかった。 景一朗は妻になる女に対して、多くを望んでいたわけではなかった。自分の立場をわきまえ、清澄家の長子の嫁として外に対して恥ずかしくない行動を取ってくれればいいと思っていた。けれどそれにはまず、屋敷の中での振る舞いが重要だ。 初日がこれでは先が思いやられた。 節子がもう少し自覚を持って行動してくれることを願っていたのだが、翌朝も景一朗が目覚めた時、節子はまだ夢の中だった。 「節子、起きないか」 声を掛けただけでは起きなかった。景一朗は、節子の肩をつかんで自分の方へ向けた。 「起きるんだ」 節子は片目を開け、鬱陶しそうな顔をした。 「昨日、言ったことを忘れたのか?それとも、起きる気がないのか?」 「五時半になんて起きたことないわ。それに朝は弱いんだから無理よ」 「そんなことは聞いていない。起きるつもりが、あるのかないのかを聞いている」 「あるわけないでしょ」 その言葉に、景一朗は横になったままの節子を冷めた視線で見下ろした。節子はむっとして、言い訳を始めた。 「だってわたしが起きなくても、朝ごはんを作る人間はいるじゃない」 「それが理由か?」 「お義父様は、家事などしなくていいとおっしゃっていたわ。それにわたしは眠いの」 節子は、本当に朝が弱かった。くらくらして身体がいうことを利かない。午前中は、ぼんやりしていることが多かった。実家でも朝食を家族と同じ時間に摂ることは、珍しいくらいだった。学校へ通っていた時はぎりぎりまで寝ていたし、卒業してから結婚するまでは、寝たい時間に寝て起きたい時間に起きていた。 主人の着替えを手伝うのも食事の支度をするのも、ここでは使用人の仕事だ。自分が早くに起きたからといって、何がどうなるわけでもない。 景一朗が仕事に出るのを見送る理由も、節子の中では見つからなかった。自分がしなくても、見送りくらい女中がする。 家事の一切をしなくていいからと、清澄の義父に言われて嫁いできた。だから、何もする必要はないはずだった。ただ清澄景一朗の妻の座にいればいい。 「妻という立場を、どんなふうに考えているのだ」 「どんなって…」 誰もが結婚をし、子供を産む。それは、当たり前のことだと思っていた。節子にとって重要なのは、相手が誰かということだ。 大財閥、清澄家の長男。誰もが羨む相手だ。これ以上の結婚相手は、考えられないくらいに。 派手な結婚式に贅沢な披露宴。節子はそれで充分に満足していた。 けれど実際の結婚生活のことは、真剣に考えたことなどなかった。今まで通りの自分でいいと思っていた。誰にも邪魔されず誰からも束縛されず、たとえ夫がいても自由でいられるはずだと。 「女学校で何を習ってきた」 「……」 校訓は信じられないくらい古めかしく、温良貞淑・良妻賢母的発想のものだった。すべての授業が、それに追随するものだ。料理、裁縫、着付け、お茶にお花。作法の授業まであった。 節子にとっては、どれも退屈な授業だった。 「清澄家の跡取りの妻でいたいのなら、よく考えることだな」 その夜、節子はしぶしぶ目覚まし時計を掛けて眠りについた。 朝、枕元で鳴るオルゴール時計の音で目覚めたのは、節子ではなく景一朗の方だった。 景一朗はしばらくの間、節子が時計を止めるのを待っていた。けれど、いつまで経っても起きる気配がなかった。苛立ちを抑えながら、景一朗はベッドの反対側に腕を伸ばし時計を止めた。 「節子、目覚ましが鳴ったぞ」 「ん~…」 「節子」 節子は布団の中に潜り込んだ。 (何なのだ、この女は…) その後、節子が起きて景一朗を見送ることはなかった。 節子には節子の言い分があった。 明治までの男尊女卑を色濃く引き摺っている景一朗の女性観が気に入らなかった。 女は黙って男の言うことを聞いていればいいと、はっきり言うわけではなかったが、常に見え隠れするそういう態度が嫌だった。 特に我慢できなかったのは、景一朗の自分に対する小言だ。 言葉遣いや、ちょっとしたことを細かく注意される。 実家では洋服を着ること以外に洋式を取り入れることがなかったために、節子は嫁いでくるまでほとんどナイフやフォークを使ったことがなかった。そのナイフやフォークの扱い方を、女中たちのいる前で正されるのは特に腹が立った。鏡台の上が整理されていないとか、居間に雑誌が置きっ放しになっているとか、景一朗の言うことは一々癪に障った。 わずかな期間に、節子の不満は増大していった。そして、その苛々を使用人たちに向けるようになった。 「こんな不味いもの、よく出すわね」 景一朗のいない昼間、食卓に並べられた食事が気に入らないと、節子は食器を手で振り払い平気で床へ落とした。部屋の隅々まで点検し、少しでも埃が残っていると屋敷中の掃除をやり直させた。 その度に女中たちは右往左往し、いつも節子の顔色を窺っていた。 節子は、着飾ることに異常なほど時間をかけた。欧州から取り寄せた化粧品で顔を作るのに、毎日何時間も鏡の前から離れなかった。指輪や腕輪、首飾りなどの装飾品もそれらだけでひとつの収納家具がいっぱいになるほど手に入れていた。洋服は一度着たものは二度と着なかったし、鞄や靴も売るほど買いあさっていた。 一日中外へ出歩き、女学校時代の友人たちと食事を楽しみ、下らない噂話に花を咲かせ、目に付いたものを次々と手に入れた。歌舞伎役者に熱を上げ、毎日のように豪華な花を贈り高価な差し入れをした。 節子はたいして現金を持ち歩いていたわけではなかったが、運転手付きの車で乗りつけ清澄景一朗の妻だと名乗れば、どの店も快く掛け売りをしてくれた。 後日、請求書はすべて景一朗に回された。 節子が屋敷で何もしないことは常だったが、景一朗は外での浪費もしばらくの間黙認していた。 虚栄心が強く、常に感情に左右されている節子とまともな話は出来ないと感じていたからだ。買い物で気持ちが外へ向くのであれば、それはそれでいいと思っていた。 だが、節子の浪費は日増しに高額になっていった。 景一朗は節子と話しあう必要があると思い、その夜、節子を呼んだ。節子は景一朗が見たことのない宝石類で身体中を着飾っていた。 「何?話って」 景一朗が座るように促すと、節子はつんとしてソファに座った。 「何が気に入らなくて、毎日出歩いている?」 「別に…」 「もっと建設的なことに時間を使う気はないのか?」 節子はあらぬ方に視線を向けた。 「習い事をするとか、勉強をするとか、色々あるだろう?」 「……」 「わたしのことをしたくないのなら、それもいい。だが、くだらん買い物ばかりに走るのは、頭の良い女のすることとは思えない」 節子は景一朗を睨みつけた。 「わたしを馬鹿だって言ってるの?」 「そんなことは言ってない。もう少し自分の教養を高めることをすればどうだと言っている」 「あなたに指図はされたくないわ」 節子は話の途中で部屋を出てしまった。景一朗は厳しい表情で、ばたりと閉まった扉を見つめた。 何が不満で節子の態度があんなふうなのか、景一朗にはまるで分からなかった。  ある日、景一朗は一枚の請求書を節子の目の前に出した。 「これは何に使った?」 節子はちらっと見ただけで、素知らぬ顔をした。 「節子」 「行きつけの宝石商が、指輪をぜひ買ってくれっていうから、断れなかったのよ」 「断れなかったって、たかが指輪に五百圓も出したのか?」 「あら、すごくいいものなのよ」 「この前は本友禅の反物に、全面に金糸を折り込んだ西陣の帯だったな」 節子はこれ見よがしに息をついて見せた。 「その前は伊太利製の毛皮のコートだ」 「何?いけなかった?あなたは仕事で一日中外へ出て、いろんな刺激があるのでしょうけど、わたしはそうじゃないのよ。買い物に出るくらい、いいじゃない」 「それでも限度というものがあるだろう」 「限度って何?うちのお父さんが、どれだけあなたの会社を優遇してると思ってるのよ。その儲けに比べれば、わたしの使ったお金なんて微々たるものだわ」 節子の言い草に、景一朗は思わず手を上げた。節子は景一朗を睨みつけると、そのまま部屋を走り出た。 景一朗は疲れたようすで、ため息をついた。結婚して半年あまり、節子の浪費はひどくなるばかりだ。話をすれば、言い争いになる。 景一朗にとって、そんな節子は頭痛の種でしかなかった。 礼儀をわきまえない成り上がりの政治家の娘。しっかり躾けをされていない節子は、種々の作法も東京倶楽部の夜会でのしきたりすら知らなかった。 夫婦同伴で夜会に出席する行事は度々あったが、景一朗は余程のことがない限り節子を連れて行くことはなかった。大声で笑ったり、酒を飲むことに節度がなかったり、余計な口を出したりと、景一朗にとっては甚だけしからん状態だった。そして、それを咎めると節子は異様なほど腹を立てた。 『あなたはいったいどれほど偉いの?わたしにいちいち指図するのは、やめてちょうだい。あなたの言いなりになるために結婚したのではないわ』 景一朗は、こんな女を妻に選んだ父に文句を言いたい衝動に駆られた。 結婚相手に期待などしてはいなかったが、ここまでくると景一朗にとって節子は不都合な存在でしかなかった。 いくら政界との繋がりのためとはいえ、もう少しましな女はいたはずだ。せめて仕事から帰った時、たとえ義務的であったとしても笑顔で夫を迎える程度のことができる利口な女を選んで欲しかった。それでも節子の父・真壁の口利きですでに多くの仕事が清澄コンツェルンに回ってきていることは事実だ。 離縁は出来ない。 これ以上、節子のことで心をそがれるのは御免だった。節子に求めるものなど何もない。景一朗は、跡取りさえ産んでくれればそれでいいと心の中では割り切っていた。 「村上!車を出して!」 「奥さま、どこへお出掛けでございますか?」 節子と女中の声に、景一朗は部屋を出た。節子は小さな旅行鞄を提げ、上目遣いに景一朗を見た。 「手を上げるような男と一緒いたくないわ。しばらく実家に帰ることにしたから」 「奥さま…、お待ち下さい」 何も言わない景一朗に、節子は強い視線を浴びせると背を向けた。 「村上!車を出せと言ったでしょ!」 節子はそう言うと、振り向きもせず出て行った。 「まぁ、節子。どうしたの?」 節子の母は、突然の里帰りに驚いていた。節子は口をヘの字に曲げ、不満をぶちまけた。 「それで、わたしを馬鹿呼ばわりしたうえに、ぶったのよ!」 「ぶった?景一朗さんが?」 そばで寝ころんで話を聞いていた節子の兄は、声を出して笑った。 「何で笑うのよ!」 「どうせ節子が何かやったんだろう。おまえは我が儘で自分勝手だからな。おまえなんかを嫁にもらって、景一朗くんに同情するよ」 「のん気に大学生やってるお兄さんに何が分かるのよ!」 節子は兄に座布団を投げつけた。 「何するんだ!」 「わたしを馬鹿にするからでしょ!」 母は眉間にしわを寄せた。 「いい加減になさい!いい年をして兄妹喧嘩をするんじゃないの」 節子は子供の頃からこの調子だった。いつも喧嘩腰で話にならない。 「わたし、絶対に離縁するわ」 「節子、滅多なことを口にするんじゃありませんよ」 「お母さん、わたしは本気…」 節子は突然口許を手で押さえると、洗面所へ走った。げぇげぇ吐いている節子の背中を母はさすった。 「節子、あなたおめでたじゃないの?」 「え…」 そういえば、先月は月のものがなかったと節子は目を見開いた。 「まぁ、よかったわねぇ。これでお父さんも一安心よ。孫はまだかって、いつもおっしゃてたもの」 節子は唇を噛みしめると、洗面台をばんっと両手で叩いた。 「赤ん坊なんかいらない。別れるのよ!」 母は怖い顔で、鏡に映る節子を見た。 「お父さんは大臣なのよ。娘が離縁していいわけはないでしょう。馬鹿も休み休み言いなさい。子供が出来て何が離縁ですか!」 夜遅くなって、真壁秀成は節子を連れて景一朗の屋敷に来た。 「お義父さん…」 突然の訪問に驚いている景一朗に、真壁はいきなり頭を下げた。 「景一朗くん、馬鹿な娘ですまん。こいつはまだまだ子供でな」 「……」 「節子が我が儘なのは、親である私の責任だ。誠に申し訳ない」 「何をおっしゃっいますか」 節子は父の問い詰めに、しぶしぶ多額の買い物をしたことを話していた。 「もう二度と勝手な買い物はせんようにきつく叱った。今後は景一朗くんが厳しくしつけてやってくれ。節子、早く謝らんか」 節子は不満顔で、ほんの少し頭を下げた。 「娘を許してやって欲しい」 景一朗は、首を振ると笑みを作った。 「選挙の時は、また君の父上に世話になると思うがよろしくお伝え願いたい」 剛健は選挙資金として、毎回莫大な金を真壁に献金していた。 真壁は満面の笑みで、景一朗の肩に両手を置いた。 「私もようやくおじいちゃんだ。ありがとう、景一朗くん」 「え?」 「では、娘をよろしく」 真壁は待たせてあった車に乗り込むと、すぐに車を出した。むっつりして突っ立っていた節子の顔を、景一朗はのぞき込んだ。 「節子、妊娠したのか?」 節子はぷっと頬を膨らませ、そっぽを向くと頷いた。 景一朗は、子供が男であることを切に願った。跡取りさえ生まれれば、二度と節子を抱くことはない。お役御免だ。 「早く中へ入りなさい」 「げぇ~」 節子はいきなりその場に吐いた。  悪阻が始まって、節子の機嫌はますます悪くなった。 気分が悪くて外へ出られない。友人たちとおしゃべりも出来ないし、芝居見物にも行けない。大好きだったチョコレートも気持ちが悪くて食べられない。 けれど、胃が空になると、気持ち悪さが増す。何故か梅干しのおにぎりを食べると、吐き気が治まった。他のものは、食べる気がしなかったが、おにぎりならよかった。 節子は吐き気を抑えるために、一日中梅干しのおにぎりばかりを食べていた。一ヶ月も経った頃、節子は病院で体重を量って驚いた。 「やだ、二貫目も増えてるじゃない」 短期間に体重が増え過ぎていると医師に指摘された。妊娠後期では、もっと体重が増えるのだから、太り過ぎるとお産が辛くなると言われてしまった。 節子は太ったことに異常なくらい腹を立てた。このままでは、子供を産んだ後、今まで着ていた寸法の服が着られなくなる。なにより、辛いお産など真っ平だ。 節子は、何もかもが気に入らず、使用人たちに八つ当たりを繰り返した。使用人たちも、どう対処していいのか分からなかった。 景一朗は仕事が忙しいのを理由に、節子をかまうことはなかった。話をしようとしても、いつもきりきり怒ってばかりいる節子に、正直なところあまり関わりたくはなかった。節子のようすは見て見ぬふりをしていた。 節子の母は、水天宮で祝詞を上げてもらった腹帯をいそいそと持ってきた。景一朗の母も清澄家の初めての孫ということもあって、あちこちから安産のお守りを取り寄せた。 お腹が目立ってくると、清澄家も真壁家もお腹の子が男か女かをやたらと話題にするようになった。顔がきつくなったから男だとか、お腹が突き出てきたから男だとか、とにかく皆が男であることに期待を寄せた。 節子はもううんざりだった。男でも女でもそんなことはどうでも良かった。一刻も早くこの重苦しい状態から開放されたかった。うつ伏せに寝ころびたかった。おしゃれをして外を歩きたかった。 「もう、嫌!」  明け方、節子は産気づいた。 「いたぁい~」 景一朗は急いで病院へ連れて行った。 入院はしたものの、まだ子宮口はわずかしか開いていない。 「まだまだですね」 「え~、いつ生まれるの?」 「そうだなぁ、早くて今夜遅くかな」 「冗談じゃないわ。こんなに痛いのがずーっと続いたら死んでしまう」 「大丈夫ですよ。陣痛で死んだ人はいませんから」 節子は陣痛が来る度に大声をあげた。しかし陣痛が引くと不思議なくらい痛みがない。 駆けつけた母親に節子は散々我が儘を言った。 「痛いのはもっと上よ。そこじゃないって!何回言ったらわかるのよ」 腰をさする母親に悪態までついた。 「役立たず!」 その日の夜になって、ようやく節子は産室に入った。 波のように襲ってくる陣痛に、節子は悲鳴かと思われるような声を度々あげた。 「どのお母さんも、みんなこの痛みに耐えてお産をしているんですよ。だから頑張って」 産婆の言葉に節子はいきり立った。 「あんたは何とでも言えるわよ!今痛いのはわたしなんだから!」 産室で節子は何度も大声をあげた。 「いたぁい!もう、いやだ~!誰か何とかしてぇ~!もう産むのやめるぅ!」 節子の悲鳴や悪態は、産室の外にまで響いていた。 あまりにもひどい節子の態度に、外にいた景一朗の母と節子の母は互いに顔を見合わせて苦笑いする他なかった。 次の日の朝、ようやく節子は出産にこぎつけた。 赤ん坊は皆の期待を裏切り、女の子だった。それでも母子共に健全で、子供は五体満足であることに一同はほっとした。 「可愛い赤ちゃんよ」 「目許などは、景一朗くんに似ているかな」 「あんなに痛いなんて知らなかった。もう絶対子供なんて産まない。あぁ、疲れた」 実家の家族のみならず、清澄の舅や姑のいる前で節子は不満をぶちまけた。 「まぁ、この子はいったい何を言うのかと思ったら…」 節子の母は、清澄の両親に対してばつが悪く、おろおろしていた。 「いやぁ、まだまだ節子さんは若い。今度は男の子を生んでもらわんとな」 剛健は笑い飛ばした。 「清澄のお義父さまのおっしゃる通りですよ。お産の痛みなんてすぐ忘れて、次の子供が欲しくなるんですから」 節子の母は、愛想笑いするしかなかった。そのようすに節子は顔をしかめた。 親戚たちが帰った後、景一朗だけが病室に残っていた。 病室とはいっても特別室。部屋の中にソファが置かれ、洗面台や御不浄もついていた。 節子の父があちこちで言いふらしたらしく、ものすごい数の花束が政財界から届いている。また看護婦が花籠を持って入ってきた。 「どこへ置きましょうか?」 「いいわよ、どこでも。その辺に置いといて。何度も鬱陶しいわね」 「いや、それはわたしが」 節子の言い草に、景一朗の方が気を使う始末だった。景一朗は花籠を受け取り、看護婦が出て行くのを確認すると、ベッドのそばの椅子に座った。 「初めてのお産で、気が立っているのだろうと思ったから言わなかったが、もう少し周りに気を遣えないのか?」 「どういうこと?」 節子は、景一朗を睨みつけた。 「皆、おまえのことを心配している」 苛々していたのは確かだった。今までに経験したことのないほど苦しんだ末、やっと子供が生まれてほっとしたのも束の間、もう次の子供の話をされた。本当に嫌な気持ちだった。男の景一朗には絶対に分かるまいと、節子はここでも不満をぶちまけたいと思ったが、さすがにそれは飲み込んだ。 「もう絶対に妊娠なんかしないわ」 節子はぷっと頬を膨らませると、口をヘの字に曲げた。  その日の夕方になって、冬彦と冴子が病室に顔を出した。 「まぁ、来てくれたのね」 冴子は綺麗に包装された菓子箱を節子の膝に置いた。 「景一朗お兄さまが、お花はもういっぱいだっておっしゃっていたので、お花はやめにしましたの。本当にいっぱいですわね」 「これ、シュークリームね」 「お義姉さま、お好きでしょう?」 「嬉しい。お花は綺麗だけど、食べられないもの」 冬彦は、小さなベッドに寝かされている赤ん坊をのぞき込んでいた。 「小さくて可愛いですね。まだ目は見えていないのかな?」 「まだみたいよ。冬彦さん、抱いてみる?」 「えっ、僕がですか?」 節子はベッドから降りると、赤ん坊を抱き上げ冬彦に渡した。 「首をしっかり支えてあげてね」 「あ…」 冬彦は腰が引けたまま、おそるおそる抱いた。 「可愛いわ。お名前はもう決まっていますの?」 節子は、シュークリームの箱を開けながら首を振った。 「みんな男の子の名前ばかり考えていたから」 「冴子…」 冬彦は、がちがちに固まった腕の中の赤ん坊を冴子に差し出した。 「なんだか、ふにゃふにゃしていて…。壊れそうで怖いよ」 赤ん坊は急に泣き出した。 「うわあ」 冴子は、冬彦が落としそうになった赤ん坊をしっかり抱き留めた。 「嫌だ、お兄さまったら」 「ふえぇぇ、ふえぇぇ~」 まだ力なく泣いている赤ん坊を、冴子は愛おしそうに抱きしめた。 「なんて可愛いらしいの。何もかもが小さくて。お母さまになられた節子お義姉さまが羨ましいですわ」 冴子の褒め言葉に、節子は先程までの苛々が一度に解消された気分だった。 節子はシュークリームを頬張りながら、誇らしげに笑った。 「冴子さんも婚約者がいらっしゃるんだもの。すぐに母親になれるわ」  次の日には、逓信省で電話交換手や東京日日新聞で記者をしている友人たちが、出産祝いに来た。 「節子さま、おめでとう。わたくしたちの中ではいちばん先に母になられたのね」 「えぇ、女の幸せは、やはり母になることですもの。とても幸せよ」 「清澄さまですもの。乳母がつくのでしょ?羨ましい」 「たとえ乳母がいても、育児は母であるわたくしの仕事ですわ」 「あら、だいぶお太りになられました?」 「……」 節子の友人で職業婦人になった者たちは、教師や看護婦になったのものは少なかった。どちらかと言えば、人が羨むような職業に就くものが多かった。英語が堪能だった者の中には、外交官として海外に出たものもいる。 強がってはみたものの、節子は彼女たち職業婦人が、皆美しく自由闊達に生きているのが羨ましかった。自分はこれから先、ずっと子供の世話に明け暮れ、男の子を生むまで子供を作れと言われるのだ。 節子にしてみれば冗談ではなかった。何故結婚などしてしまったのだろうと深く後悔した。確かに結婚話があった時、相手が清澄財閥の長男であることに異常な魅力を感じた。誰もが羨む相手。これまで以上に贅沢な生活が待っている。しかも美男美女の組合わせだと周りから目一杯持ち上げられ、すっかりその気になってしまった。 けれど結婚生活は、節子が思い描いていたものとはずいぶんかけ離れたものだった。 跡取りを生むことだけを望まれ、気持ちも身体も満たされたという思いのない窮屈な生活。後悔しても仕方のないことだ。けれど胸の中のもやもやは、どうすれば晴れるのかが分からなかった。 どんよりした思いにどっぷり浸かっているところへ、真っ赤な薔薇の花束を抱えて貴之が訪ねてきた。 「おめでとうございます。ご機嫌は麗しいでしょうか?」 「まぁ、なんて素敵」 「お義姉さまにいちばん似合う花を」 節子は、いつも自分を高揚させてくれる貴之が大好きだった。 「お化粧もしていなくて、恥ずかしいわ」 貴之はにっこり笑った。 「素顔でも節子お義姉さまは、充分に美しいですよ。やはり母になられた方は、輝きが違いますね」 「お義姉さまは、やめてちょうだい。貴之さんは、いつもお上手ね」 「とんでもない、おれは女性に嘘をついたりしません。美しいものは美しいのですから」 うっとりした表情の節子を横目に、貴之は赤ん坊の頬を指先でつついた。 「いかがですか、母になられたご気分は?」 「まだ実感がなくて」 貴之は節子に向き直ると、しっかり瞳を見つめた。 「きっと良い母親になれますよ」 「そんなことを言ってくれるのは、貴之さんだけよ」 節子は色めいたため息をついた。 「どうしてあなたと結婚しなかったのかしら」 貴之は口の端で笑った。 「まだ仕事が残っているので、おれはこれで」 「また来て下さる?」 「えぇ、時間があれば。ごきげんよう、お義姉さま」 節子は貴之を見送りながら、花束を抱きしめた。貴之と結婚していれば、自分はもっと幸せだったはずだと節子は本気で思っていた。 節子は自分の態度は棚に上げて、悪いのはすべて景一朗だと決めつけていた。そう思っていなければやりきれなかった。 ほどなく長女は華子と名付けられた。華子が夜泣きをしても、節子は乳母に任せっきりで自分で乳を飲ませることは決してなかった。                  *  貴之にも縁談話が進んでいた。大手製鉄会社、美浜製鋼の長女、福子。 福子は貴之よりも三歳年上。すでに二七歳になっていた。この年齢まで独り身だったのには、理由があった。福子は、顔の右側に青紫色の大きなの痣がある。それが原因で今まで結婚話に縁がなかった。 清澄コンツェルンの造船部門に鉄は欠かせない。安定供給を受けるために父・剛健がまとめた話だった。 その話を剛健から聞かされた時、貴之はただ頷いただけだった。政略結婚であることは、初めからわかっていた。好みの女と結婚できるとも思ってはいない。貴之にとって、結婚などどうでもいいことだった。 母屋の西側に、貴之の新居の建設が始まっている。貴之はその建設現場を、白けた表情で見つめていた。 そこへ通りがかった節子がやって来た。 節子は四ヶ月になった長女の華子を乳母車に乗せて、庭を散歩しているところだった。もちろん、乳母車は乳母が押していた。 「こんにちは、貴之さん」 「ごきげんよう、お義姉さま。いつも変わらずお綺麗ですね」 節子は満面の笑顔を見せた。彼女は貴之の褒め言葉を常に喜んでいた。見え透いた世辞とは分かっていても、景一朗が決して口にすることのない自分に対する褒め言葉は、節子の気分を高揚させた。 「お義姉さまはやめてと、いつも言ってるでしょ。わたしのほうが年下なんだから」 「そうでしたね。でも、あなたはお義姉さまなのだと自分を戒めていないと、つい心が揺れそうになる」 「あら、お上手ね」 そう言いつつも、節子は貴之の言葉にご満悦だった。 「貴之さん、本当に結婚するの?」 「そのようですね」 節子は、せつなそうに貴之を見た。 「あなたと結婚できる女は幸せね。羨ましい」 「おれもあなたが兄さんの妻であるのは、残念ですよ」 「まぁ、本当に?」 節子がこぼれんばかりの笑みを作った時、景一朗がやって来た。 「貴之、ここにいたのか」 景一朗は珍しくにこやかな表情の節子を見て、また貴之が歯の浮くような世辞を言ったのだとすぐにわかった。 「貴之と少し話がある」 せっかくの貴之との楽しい会話を景一朗に邪魔をされて、節子はつんとそっぽを向くと乳母よりも早くさっさと戻っていった。 それを見送る貴之は、首をかしげた。 「何だか彼女、急に機嫌が悪くなったみたいですけど」 「節子はいつもああだ。気にしなくていい」 景一朗が芝に座ると、貴之も隣へ寝転んだ。 「しかし、おまえは相変わらずだな。節子の気まで惹いてどうする」 「たいしたことは言ってませんよ。節子さんがあんなくだらないことで喜ぶのは、兄さんが何も言ってやらないからでしょう?」 「妻に世辞を口走ってどうするんだ」 「兄さんは、わかってないな。男は女の機嫌を取るために生きているのですよ。女は常におだててやればいい。そうすれば必ずや夫婦は円満」 貴之は、ちらりと横目で景一朗を見た。 「そういえば琴菊は元気ですか?」 「え…」 半玉の中でも一、二を争う美人と誉れ高い琴菊が、つい先だって水揚げされたと深川界隈で話題になっていた。琴菊を競り落とした幸運な旦那は、どこの誰なのか? 「いくら積んだのです?」 「まったく、油断も隙もないな」 ばつの悪そうな景一朗に、貴之は口の端でにやりと笑った。この手の話で、貴之の耳に入らないものはない。 「節子さんが癇癪を起こすわけだ」 「節子に余計なことは言うなよ」 「言いませんよ。面倒は御免ですからね」 女には付かず離れず、適当な距離を置いて多数を相手にするのが貴之の常道だ。女に縛られることなく、自由でいることが重要だった。その上貴之が相手にしているのは、皆見目の良い女ばかりだ。それが今回の結婚話を黙って承諾したことに、景一朗は何かしら疑問を持っていた。 貴之は起き上がると煙草に火をつけた。 「別に他意はありませんよ」 「おまえらしくないというのが、妥当かどうかわからんが。いいのか?」 「良いも悪いもないでしょう。造船に鉄は必要不可欠です。親父さまの清澄コンツェルンの総帥としての判断は間違っていない。親父さまにとって、子供は所詮事業拡大の手駒に過ぎませんからね」 その言葉を聞いて、景一朗も貴之の言う通りだと息をついた。自分もその手駒のひとつであることに変わりない。 新しい屋敷の建築資金は福子の実家である美浜が出している。一生嫁ぐことはないと諦めていた娘の結婚が決まって、美浜家は今までにない喜びに包まれていた。美浜にしてみれば、これも持参金代わりのつもりだった。 「正直に言うと、お父さまが今回の話をまとめてくるとは思っていなかった」 「どういうことです?」 「美浜福子は、おまえより三つも年が上だ。そのうえ見てわかる不具合がある。体裁を極端に気になさるお父さまが、そういう不具合を持った嫁を受け入れること事態、驚いている」 「体裁より、鉄の方が欲しかっただけでしょう」 「おまえが福子をどう扱うのかはしらんが、お父さまの彼女に対する対応は覚悟しておいた方がいいぞ」 「表に出すな、と?」 景一朗は頷いた。 「出すなと言われるなら、屋敷に閉じこめておけばいい。ま、おれは関係ありませんけどね」 「放っておくか?」 貴之は髪をかき上げると、深く煙草の煙を吸い込んだ。 「やることはやりますよ。子供は作ります。正式に跡継ぎになれる男子をね。それで誰も文句はないでしょう」 式はもう数ヶ月先、屋敷の建設が終わってからの予定だった。 結納は仲人が美浜家へ挨拶に行っただけで、当人同士は会うことをしなかった。貴之にとって福子など完全に興味の対象外だ。外には貴之が自由にできる女は掃いて捨てるほどいる。事業のために少しでも足しになるのなら、それはそれでいい。妻という名の、大勢いる女の中のひとり。貴之にとっては、それ以外の何者でもなかった。                     華子が六ヶ月を過ぎた頃、節子は一度も月のものを見ることなく次の子を妊娠した。 「もうっ!」 二度と子供など産まないと思っていた節子は、怒りに任せて置き時計を壁に投げつけた。 その激しい物音に、女中が慌てて飛んできた。 部屋へ入った女中は、あちこちに物が散乱した節子の部屋のようすに驚いて声を上げた。 「奥さま、どうなさいました!」 「うるさい!向こう行け!」 節子は女中にまで物を投げつけた。 悪阻はもう始まっている。気分の悪いことに苛立ち、妊娠したことに怒りを覚えた。 節子はひたすらに嫌だった。自分の自由を奪うためだけに生まれてくる子供が憎らしかった。 華子を出産しても、体重は妊娠前に戻ることはなく三貫も増えたままだ。次の子が生まれて、もう三貫も増えたらとんでもないことになる。けれど食べずにいると吐き気が治まらない。節子はますます苛立ち、誰彼なしに感情をぶつけた。 見かねた景一朗は、子供が産まれるまで実家へ帰ることを提案した。 「華子が一緒なら、お義父さんも喜ばれるだろうし」 「あなたは、わたしから自由になれてせいせいしたいだけでしょ」 景一朗は、ため息をついた。 「浮気なんかしてみなさい。絶対に許さない」 節子は散々文句を言った揚げ句、華子と共に実家へ帰って行った。  剛健は、新橋の料亭に一席設けた。節子の父、真壁を接待するためだった。 第一次世界大戦の最中でもあり、軍需は好調だ。 「今は多くの軍艦が必要だ。沈まん艦を頼むよ」 真壁の言葉に、剛健、景一朗、貴之は頭を下げた。 「貴之君も、結婚が決まったそうだね。おめでとう」 「ありがとうございます」 貴之は真壁の猪口に酒を注いだ。 「美浜製鋼か…、清澄総帥も良いところに目をつけられた」 「これが決まれば、大臣にもまた恩返しが出来るというものです」 真壁は大声で笑った。 「首相の椅子も間近ですな」 剛健の言葉に、真壁は嬉しさを隠しきれないようすだ。 「お義父さん、どうぞ」 景一朗も空になった真壁の猪口に酒の注いだ。 「節子のようすはどうですか?」 「節子は相変わらずだが、華子が可愛くてな。最近ははいはいして、あちこち移動するようになった」 真壁は孫の華子にめろめろで、鼻の下を伸ばしっぱなしだった。 互いの利害欲望のために利用し合うのが政略結婚の本来の目的。そういう意味では、充分に機能を果たしていた。 節子が実家へ戻り、景一朗は久しぶりにほっとした日々を送っていた。 節子のいない屋敷は、静かで穏やかだった。 性格の不一致と言ってしまえばそれまでだが、顔を合わせば尖った言葉が口を突いて出そうになるのを極力押さえてきた。それならば顔を合わせない方がいいかと、仕事にかこつけて屋敷には寝に帰るだけという日も多い。しかし、それはそれで節子には不満らしく感情のままに悪態をつく。何をしても穏やかに過ごす状況にはほど遠かった。 すっかり気持ちが疲れていた景一朗にとって、節子のいない今の環境は極楽に思えた。 ほどなく景一朗は、芸者の琴菊を身請けした。 谷中に用意した借家に琴菊が越してからというもの、景一朗は度々琴菊の元を訪れている。節子との生活では決して得ることの出来ない安らぎがここにはあった。 節子を離縁するという、あり得ない空想に浸れるのもこの場所しかない。 景一朗は充分に、琴菊との逢瀬を楽しんでいた。                   *  新しい屋敷の完成直後に、貴之と美浜福子の婚礼が調えられた。 本来なら家具類は花嫁が実家から持ち込むのが習わしだったが、屋敷が洋館ということもあって、清澄家が用意した西洋家具が運び込まれた。調度品も装飾品も、すべてが清澄コンツェルンで輸入されたものだった。 福子が嫁入り道具として送ってきたものは、彼女の身の回りのわずかなものだけだった。  婚礼の日、貴之は初めて福子に会った。深くわたぼうしをかぶり、はた目からは顔の痣を伺い知ることは出来ない。そばにいた貴之さえも、福子の顔をはっきり見ることが出来なかった。 これも父の策略かと貴之は苦笑した。 婚礼の宴の後、貴之は新居へ戻ってきた。福子は先に帰っているはずだ。 景一朗夫婦のように新婚旅行の予定はなかった。仕事が詰まっていたのも理由のひとつだが、行く気がしないというのが貴之の本音だった。痣のある年増女とふたりっきりは考えただけでも気が重かったし、その気になれなかった時は最悪だと思っていた。 新婚旅行でその気になれないなんて、相手に対しても失礼な話だ。今ですら、考え過ぎですっかり気は失せているのに…。 玄関で、新しく雇い入れた女中が深くお辞儀をした。 「お帰りなさいませ。奥さまは、居間においででございます」 居間に入ると、ソファに腰掛けていた福子は絨毯に正座し両手を付いて頭を下げた。 貴之は酒も入っているし今夜はこのまま寝てしまおうかとも思ったが、一応自分の妻となった女の顔くらい見ておこうと福子のそばへ行った。 基本的に女に対して冷たい態度を取るのは本意ではなかった。女の存在理由は、男が愛でるためだけにあると思っていた。 貴之がソファに座ると、福子はもっと深く頭を下げた。 「ふ、福子でございます。ふつつか者でございますが、どうぞ末永くよろしくお願い致します」 「…顔を見せてくれる?まだ君の顔をしっかり見ていない」 福子も貴之の顔を見るのは、今が初めてだった。福子はおずおずと顔を上げ貴之を見た。その瞬間、瞬きすることも忘れたように目を見開いた。これほど端正な顔立ちをした男性が自分の夫なのかと、福子はにわかに信じられないでいた。切れ長の目、通った鼻筋、薄く形の良い唇。何より長い髪が不自然には感じられなかった。 醜い痣があるうえに三歳も年上の女を貰ってくれるような男は、美浜鉄鋼の鉄だけを欲しがっているどうしようもない輩だと、そう思っていた。女にはとんと縁のない、むさ苦しい男に違いないと。 けれど福子が想像していた男と、貴之はまるで違っていた。 「おれの顔に何かついているか?」 「い、いえ」 福子は思わず目を伏せた。 貴之は、真新しい付け下げを着た福子をまじまじと見た。 痣は思っていたよりも大きかった。右目の回りから頬にかけて、くっきりと青紫色になっている。痣のせいで、この女はずいぶんと苦しんできたのだろうか。鏡すら見ることを恐れ、自分が女であることを、この痣の故に否定したこともあっただろうか。 だが、貴之はそれほど不快な感じは受けなかった。 緊張しきっている福子を眺めながら、せっかくの初夜の期待を裏切っても悪いかと、貴之はこのまま寝るのはやめることにした。処女なら尚更その反応も見てみたい。 生来、女には出来る限り相手の望む形で優しく接するというのが貴之の信条だ。歯の浮くような口説き文句を瞳を見つめながら真顔で口にし、相手の反応を楽しむことはほとんど趣味に近かったし、相手の女が自分に惹かれて行く様を見るのは自尊心を満足させた。余程のことがない限り、女を冷たくあしらったりはしない。 増してや目の前にいるのは結婚したばかりの自分の妻だ。可愛がりこそすれ、邪険にする理由は何もなかった。 ただし、貴之の愛情がそこに含まれているのかどうかは、多いに疑問の残るところではあるが…。 貴之は床に膝を着くと福子の痣のある右の頬をなでた。そして、すっと顔を近づけて痣に唇を付けると、そのまま押し倒して接吻をした。福子は身をよじったが、それも一瞬だった。絡んでくる舌に福子は身体中の力が抜けるようだった。 貴之が着物の裾から手を入れると、福子は身体をこわばらせた。股間を滑らせるように上へ中へと指を入れた時、福子が足に力を入れた。 「あ…」 固く目を閉じ眉間を寄せて喘ぎ声を出すまいとする福子の顔を見ながら、貴之は股間から手を放した。濡れた指先をこすり合わせながら口の端で笑うと、そのまま自分の鼻先へ持って行こうとした。それに気づいた福子は、あわてて貴之の手を両手でしっかり押さえ激しく首を振った。 「何故?いい匂いがすると思うよ」 福子は耳たぶまで真っ赤にしながら、懇願するように首を振った。 貴之は福子のようすに笑みを浮かべた。 「恥ずかしい?」 福子は、真っ赤なまま震えるように頷いた。 「風呂に入りたいか?」 「…は、はい、旦那さま」 福子はやっとの思いで返事をした。 「では、入って来るといい」 「…だ、旦那さまより先に、御湯をいただくことは出来ません」 「今夜は構わないから、先に入っておいで」 「…でも」 「いいから」 福子は自分を落ち着かせようと息を吸い込んだ。けれど、まだ鼓動は激しく波打っている。何とか立ち上がって着物の裾を整えると、もう一度座り直して頭を下げた。 「それでは、お先にいただきます」 「あぁ、それともうひとつ。旦那さまと呼ぶのはなしだ」 「では、何とお呼びすればよろしいですか?」 「貴之でいい」 「…はい、貴之さま」 福子が部屋を出るのを見送ると、貴之は笑いが込み上げてきた。 自分の妻になった女をもてあそんでどうする…。  翌朝、貴之が目覚めると福子はもうベッドにいなかった。裸のままガウンを羽織り、貴之は階下へ降りて行った。居間の扉に手をかけた時、台所から声がした。 「奥さま、そのようなことはわたしどもが致しますから」 「いいのですよ、旦那さまとふたり分ですもの。わたしひとりで出来ますから」 貴之は台所の引き戸を開けた。 「朝っぱらか、何を騒いでいる?」 「だ、旦那さま」 女中たちは、すすっと後ずさりしてお辞儀をした。 福子は貴之の前でどんな顔をしていいのか分からず、少し顔を伏せたまま頭を下げた。 「おはようございます。すぐに朝餉の支度を」 割烹着を着た福子を見て、貴之は不思議そうな顔をした。 「君が作るの?」 「はい、実家ではいつもわたしが」 「ふ~ん」 華族の出である母は台所に立ったことなどなかった。景一朗の家も食事の支度は賄い人がする。何が嬉しくて食事の支度などをしているのかと貴之はガウンの下に手を入れ、ぽりぽりと胸元を掻きあくびをしながら女中を台所から追い払った。 「清澄家では、殿方が賄いに足を踏み入れたりなさるのですか?」 家族の中で台所へ入ることに躊躇いのなかったのは貴之だけだったが、貴之は福子の言葉を無視し、腰に腕を回して身体を引き寄せると接吻をし耳元でささやいた。 「昨夜は良かったよ。君はどうだった?どこが感じた?」 その言葉に、福子は昨日同様耳まで真っ赤にして俯いた。 「声を出してよかったのに。君の善がり声を聞きたい。そうすれば、おれももっと興奮するから」 貴之はそう言いながら、福子の耳たぶを噛み息を吹きかけた。福子は全身が総毛立って、自分が濡れていくのがわかった。男に因って女の身体がどんなふうに変化していくのか、昨夜からの一連の出来事で福子は初めて経験した。 「初めてだから痛かったよね。どんなふうに痛かった?」 福子は俯いたまま、わずかに首を振った。心臓の鼓動が貴之に聞こえるかと思うほど、動悸がしていた。何故貴之は、こんなことをし、こんなことを聞くのだろう。夫とは、夜以外にも皆このようなこと妻にするのだろうか。 福子は顔から火か出るかと思うほど、ただひたすらに恥ずかしかった。 貴之の方は、福子の反応が面白くて仕方がなかった。いい年をして、このうぶさ加減はどうだ。ここまで何も知らないと、妙に自分の中の男をかき立てられるような気がしていた。 結婚するまで家に閉じこもり、家族以外の男とはまともに話をしたことさえないのかもしれない。こんなにからかいがいのある女は他にいなかった。 貴之は顎に手をかけ、福子の顔を自分の方に向けた。 「おれを見て」 福子はおずおずと落としていた視線を貴之に向けたが、恥ずかしさに正視できなかった。貴之は瞳をのぞき込むように、福子と視線を合わせた。心なしか福子の呼吸は速くなってる。 「何故答えない?」 「…お許し下さい。は、恥ずかしくて」 貴之は口の端でわずかに笑った。 「おれは恥ずかしがっている君を見るのが好きだ」 「……」 「着替えてくる」 貴之が台所を出て行くと、福子はへなへなとその場に座り込んでしまった。 「ひものに、味噌汁か」 貴之は、いつもコーヒーを飲む程度で朝食を済ませていた。この前まともな朝食を摂ったのはいつだったか忘れてしまった。 味噌汁に口を付けて、ほっと息をついた。ずいぶんと素朴な味がする。そういえば味噌汁など久しく飲んだ覚えがなかった。 母屋でもここ数年家族と食卓を囲むのは、正月元旦と祖父の命日と冴子の誕生日くらいだ。 福子は先程の恥じらいを引き摺ったままで、貴之の顔を見ようとしない。 これから毎日この顔を見て暮らすのかと、貴之は視線を落としたまま食事をしている福子を見ていた。 大きな痣さえ気にしなければ、年増の割に福子はそこそこ可愛らしかった。冴子のような凛とした強さは全く感じられなかったが、ふんわりした穏やかで優しい雰囲気を持った女だった。  出勤のために貴之が玄関へ出ると、福子は鞄を持って後に着いた。 鞄に続いて、福子は包みを差し出した。 「何だ?」 「お弁当です」 福子は恥ずかしそうに言った。 「弁当はいらない。昼は大抵打ち合わせで外へ出ているし、夜はほとんど接待だ」 「そんなにお忙しいのですか…」 寂しそうに俯いた福子が、貴之には妙に可愛らしく見えた。 「せっかくだから、今日は持って行こうか」 福子は嬉しそうに頷くと、玄関で三つ指を付いた。 「いってらっしゃいませ」 貴之は返事をする代わりに、福子を引き寄せ接吻をした。 福子はそばに女中がいることを気にして、また真っ赤になった。 「た、貴之さま。人が…」 「欧米では夫が出掛ける時、玄関先で必ず妻に接吻をする。わかった?」 「……」 結婚になど何の期待も寄せていなかったが、福子は充分退屈しのぎになる女だ。思っていたより楽しい日々を過ごせそうだと貴之は笑みを浮かべた。  外には社用車が待っていた。毎朝貴之を乗せ、景一朗を迎えに行って会社へ向かうことになっている。 乗り込んできた景一朗は、少々心配げに貴之を見た。 「福子とは、うまくやれそうか?」 「えぇ、まぁ」 「どうだった?」 「何がです?」 「いや…」 「やったかどうかってことですか?」 「……」 「妻ですよ。初夜に何もしないことほど、相手に失礼なことはないでしょう」 「まぁ…、その通りだな」 何の話をしているのかと、景一朗は自分に呆れていた。ただ、貴之夫婦のことは気にかかっていた。貴之にとって、福子は決して満足のいく妻ではない。自分たちのように、互いに政略結婚の犠牲になったと思わないでいてくれればいい、そう願うばかりだった。  福子は貴之を送り出した後、屋敷の中を見て回った。西洋建築を贅沢に取り入れた洋館。美浜の実家とは比べ物にならないくらい広い屋敷だった。 夫婦ふたりと常駐の使用人が住むにしては、あまりに広い。 寝室は英国の家具でまとめられていた。 福子はまだ、欧州の家具や装飾品を何と呼ぶのかよく知らなかった。 窓には鎧戸が付けられ、障子ではなく美しい布が下げられている。たたみ三畳分はありそうな寝台、綺麗な装飾が施された真っ白な枠に大きな一枚鏡の鏡台、広間かと思うほどの収納部屋。 台所も土間ではなく、独逸製の流し台が置かれ、食器棚には西洋の皿や茶器が所狭しと収められている。風呂場には見たこともない形の浴槽、じょうろのような吹き出し口から湯が雨のように出てくる装置。椅子のように座って用を足す便器。 世の中のほんの一握りの人間だけに与えられる贅沢品に、福子はため息をついた。 (畳のお部屋はないのね…) 女中たちは、洗濯をする者掃除をする者と自分の仕事に余念がない。 居間には背もたれの付いた座り心地の良い長椅子。床にはペルシャから取り寄せた絹の絨毯。洋酒とガラスの湯飲みが並べられた大きな棚。ガラスや金属で華やかに装飾された室内灯。足の長い綺麗な傘をかぶった電灯。それに蓄音機。 何もかもが、初めて見るものばかりだった。  福子は庭を見渡せる居間のガラス窓のそばに腰かけ椅子を持ってきて座った。気持ちの良い日差しが辺りを包んでいる。 この結婚が決まった時、母に懇々と言われた。 『この年でしかも顔に痣のあることを承知で、日本有数の財閥である清澄家がおまえを嫁に貰ってくれるのだから、何があっても耐え忍びなさい。美浜の鉄だけが相手の望みだとわかっていても、夫となる清澄貴之氏にはどんなことでも従いなさい。可愛がってもらえるように、精一杯の努力をしなさい。殿方は皆、浮気をする者だからいらぬ嫉妬などせず、おまえは正妻として真っ直ぐに前を向いていなさい。たとえ、夫が振り向いてくれなくとも常に凛としていなさい。そして一生添い遂げるのですよ』 母の言葉に覚悟はしていた。妻とは名ばかりで、痣のある醜い女には指一本触れないかもしれないと。けれど、貴之は母が言うような男ではなかった。 いちばん最初に、この痣をなでた。そんなことをしてもらえるとは夢にも思っていなかった。 昨夜の行為も今朝のことも、福子にとっては死ぬほど恥ずかしいことだったけれど、確かに貴之は福子を抱いた。自分を妻として認めてくれたと信じたかった。 けれど長身であれだけ見目の良い貴之を、結婚したからとて周りが放っておくはずはない。結婚前から付き合っていた女性もたくさんいるはずだ。福子だけで満足するとも思えない。この結婚は、あくまで親同士が決めた事業上の都合でのこと。妾の所へ行ったきり、帰って来ない日もあるだろう。 それを忘れてはならないと、福子は自分に言い聞かせた。  一応新婚ということで、貴之は定時で会社から帰された。玄関に出迎えた福子は、床に手をついた。 「お帰りなさいませ。お風呂、沸いております」 貴之は弁当箱の入った風呂敷包みを差し出した。 「美味かったよ。周りからずいぶん冷やかされたけど」 福子は恥ずかしそうに笑って、包みを受けとった。 貴之が風呂に入ると、たすき掛けをした福子が遅れて入った。 「背中をお流します」 「どうして風呂へ入るのに、着物を着ている?」 「ですから、背中を」 貴之は濡れた手で、福子の帯を解いた。 「あ…」 「全部脱いでから入っておいで」 福子は真っ赤になって、風呂場を飛び出した。 「福子!」 「お、お許し下さい。そこは明るくて…」 「駄目だ、脱いでから入って来い。命令だ!」 貴之は笑いが込み上げてくるのを押さえるのに必死だった。男に抱かれることに慣れきった女とは、全く反応が違う。福子の言動のひとつひとつが目新しかった。 女は自分の欲求のはけ口でしかないと思っていた貴之にとって、福子は今までに持ったことのない新しい玩具のように思えた。  貴之が朝帰りをしたのは、婚礼からわずか4日目だった。 福子は夜半まで居間で待っていたのだが、心配で玄関に座った。けれど、いつまで待っても帰ってこない。待ち疲れていつの間にか眠ってしまったところを、戻ってきた貴之に起こされた。 「こんなところで寝ていると、風邪を引くよ」 「!」 驚いて辺りを見回した福子の表情が可笑しくて、貴之は含み笑いをしながら彼女を見た。 「お、お帰りなさいませ。あ、あの…」 貴之は、福子にぐっと顔を近づけると囁いた。 「待っていてくれたの?」 「…は、はい」 「次からは零時を過ぎたら帰りは朝になるから、玄関ではなくてベッドで寝たほうがいいよ」 貴之から、甘い香の匂いがした。福子は激しく波打つ動悸を押さえるように、息を吸い込んだ。貴之は女のところに泊まったのだ。 「風呂に入りたいのだけど」 「はい、すぐに支度を」 風呂場に向かった福子の後ろ姿に、貴之はもう一声掛けた。 「朝食を摂ったら、すぐに仕事へ出るから」 甘い匂いが気になって頭がいっぱいだった福子は、返事をしないままに振り返った。貴之は上着を脱ぐと肩に掛け、首をかしげるように福子を見た。 「朝帰りの夫は、朝食を食べさせてもらえないのかな?」 「あの、いえ…、はい、すぐに」 福子は、柱にぶつかりそうになりながら風呂場へ急いだ。 動揺している福子のようすを、貴之は鼻先で笑いながら見送った。 貴之にとって、朝帰りは慣れてもらわないと困る事柄だった。これから先も、何度となく繰り返す行為。それとも福子は、当たり前のように貴之が毎晩帰ってくるとでも思っていたのだろうか。突っ込んで尋ねてくるようなら、はっきり言わなければならないかと貴之は考えたが、福子はきっと黙っているだろうと思い直した。黙って胸にもやもやをたくさん溜めて、何年もかけていっぱいにして…、やがて溢れそうになったら、その時はどうするのかが貴之には楽しみだった。                   *  本家では、女中のチヨが女中頭の松田に呼ばれていた。 「チヨ、奥さまがお呼びだよ」 「お部屋へですか?」 「あぁ、お話があるそうだ」 「松田さん、わたし何かしたでしょうか?」 「行ってみれば分かるよ」 笑みを浮かべる松田にそう言われて、チヨは不安気に雅代の部屋へ向かった。何か粗相をしただろうかとあれこれ考えていたが、心当たりがなかった。 「奥さま、チヨでございます」 「お入り」 チヨは前掛けを取ると、小さくなって部屋の扉を開けた。 「失礼致します」 「どうしたのです?そんなに固くならなくていいのですよ。お座りなさい」 「…はい」 雅代はチヨに縁談話があることを告げた。清澄家に出入りしている酒屋の三男で尋常小学校の教員をしている男だった。 女中たちの縁談は、それぞれの実家から話があればそれを、また時期が来ていても縁のないものには、葛城や松田が心当たりに話を持ちかけていた。 「チヨはもう、いくつになりました?」 「はい、二一でございます」 「相手の方は今年二五におなりとか。社会科の先生だそうです。真面目にお勤めで、年回りもいいし、良いお話だと思うのですよ」 「…はい」 「チヨに異存がなければ、このお話進めたいと思っているの」 「はい…。お、奥さまの宜しいように」 突然の話に、チヨは腑抜けたように雅代の部屋を後にした。 松田がにやにや笑いながら、台所でチヨを待っていた。 「良い話だったろう?」 「はぁ」 周りにいた女中たちが集まって来た。 「チヨちゃんに良いお話って、何ですか?」 「縁談だよ」 「きゃぁ~」 チヨは真っ赤になった。 「だって、急で。わたし…」 「チヨちゃん、いいな。わたしも早くお嫁に行きたい」 「ねぇねぇ、何をしてる人?」 清澄家では、女中の結婚が決まるとこの屋敷から嫁がせるのが習わしになっていた。この時代、婚礼の日まで相手に一度も会わないことは珍しくはなかったが、清澄では必ず結納を調え、ふたりを引き合わせるようにしていた。 チヨも今までここから嫁いで行った女中たちと同じように、嫁入り道具もすべて清澄に揃えてもらった。嫁ぎ先で肩身の狭い思いをしないよう、桐の箪笥には何枚もの着物が入れられた。 婚礼前夜は、女中たちが内々で祝うのも清澄家の習わしだった。この日ばかりは、祝い酒も振る舞われる。 サトは、何も知らなかった自分を一から面倒を見てくれたチヨと離れるのが寂しかった。ぐずぐずと泣いているサトに、チヨが声をかけた。 「サト、わたしがいなくなってもしっかりやるのよ」 「はい、お姉さん。ありがとうございました」 婚礼の日、チヨは花嫁支度が整うと、主人である清澄剛健と雅代に深々と頭を下げた。 「旦那さま、奥さま、長い間お世話になりました。こんなにまでしていただいて、チヨは日本一の幸せ者でございます」 チヨは角隠しに色打ち掛けで、屋敷の使用人たちが見送る中、清澄家を後にした。                   *  節子に陣痛が来ていた。けれど陣痛は微弱で、前回同様出産までに相当な時間がかかった。分娩室での節子の形相は、般若のようだった。 「だから嫌だって言ったのよ!」 散々苦しんだ揚げ句、生まれてきたのはまた女の子だった。 それを知った実家の父や清澄の義父は、産院にさえ来なかった。そのことは節子をますます不機嫌にさせた。 「来なくてよかったわよ。どうせまた、男の子を産むまで頑張れとか何とか言われるに決まってるもの」 「そう言うな。とにかく良かったじゃないか。子供は元気だし、五体満足だし」 景一朗は慰めたつもりだったが、節子にはそうは聞こえなかった。 「あなたはいいわよ。何の苦しみもなく子供の顔が見られて、さぞ満足でしょう。わたしがどれほど大変な思いをして生んだかなんて、わかってないのよ!」 節子の態度に、景一朗はうんざりだった。節子はいつも不満の塊だ。 琴菊といる時の、あの穏やかな感情は欠けらもない。この不満だらけの薄汚い女に罵声を浴びせて、産室から飛び出してしまいたい衝動に駆られた。離縁状を叩き付けるのも、さぞや気分がいいだろうと景一朗は思った。 けれど清澄財閥の長子として、それはできなかった。体面を重視する父が許すはずもない。それ以上に節子の父・真壁の政治力は、清澄コンツェルンにとって益々重要な役割を担っている。それに節子は、まだ男の子を生んでいない。 女に対する愛情は琴菊にそそげばいい。だから節子のことは端へ置いておけばいいのだと、景一朗は自分を何とか納得させていた。  福子が嫁いできてから今日まで、誰かにあからさまに差別を受けたということはなかった。義母の雅代は優しかったし、景一朗や冬彦も貴之の妻として扱ってくれていた。ただ、義父の剛健と義妹の冴子には、どことなく避けられているような気がしていた。 実家にいた時、外に出ると必ず感じた疎外感。誰もが自分の痣を見ては、隠れて笑っているの悲しく思ってきた。彼らから受ける印象は、その時と同じものだった。 数多くいる使用人たちの中にも、笑っているものや憐れんでいるものはいるだろう。それでも貴之が自分を妻だと認めてくれているのだから、顔を上げていようと心に決めていた。 貴之は結婚前と同じように、遊廓へ通い芸者遊びをし有閑婦人の相手にも忙しかった。明け方に帰ってくることもしばしばだったが、福子はその度に風呂を沸かし衣服を整えた。 貴之は、他の女と同様に福子にも充分女として満足させているつもりだったし、朝食だけは一緒に摂るように心がけていた。福子と一緒にいる時は、福子のことだけを考えてるようにしていた。だから、自分の朝帰りを気にすることはなかった。 「愛は平等に分かち合うものだ。おれは公共物だからね」 そう言って、はばからなかった。 だが福子のほうは、少々複雑な想いを持っていた。 貴之はいつも自分に笑顔を向けてくれるし、甘い言葉もささやいてくれる。何よりも一緒にいる時は、福子を気遣いとても優しかった。貴之の身の回りのことを世話するのは、嬉しいことだったが、帰ってこない夜は見えない相手に嫉妬する思いが湧き出てくることもある。 こんな自分に優しくしてくれる男は、貴之以外にいないのもわかってはいる。この世で、きっと貴之だけに違いない。わかってはいるけれど、待つ身としては苦しくなる。 その度に、男は浮気をするものだという母の言葉を思い出した。 (くだらない嫉妬心など、持ってはいけない。最後にあの方が帰ってくる場所は、ここなのだから) 福子は、常にそう自分に言い聞かせていた。 それでも痣さえなければ、女遊びはしなかったかもしれない。この痣の故に、美しい女に惹かれるのだろうか。何故自分は、こんな痣を持って生まれてきたのだろう。そんな思いばかりが浮かんできた。他の人間には何と思われても構わなかったが、貴之に対する思いが強くなるにつれ、自分を醜くしている痣の存在が恨めしかった。  冴子は、福子とは少し距離を置いていた。 まさか義姉になる人間が兄よりも年上で、しかも顔に大きな痣があるとは夢にも思っていなかった。事業のためとはいえ、父もずいぶんな人間を清澄の家に入れたと冴子は思っていた。あんな女をお義姉さまと呼ぶにはふさわしくない。 母屋に住んでいる冴子には、福子と会う機会はそうなかった。だから、普段は福子のことなど忘れてしまっていた。 ある日、冴子は裏庭で番犬の檻に手を入れようとしている女中を見かけた。 清澄家の番犬は、どう猛だった。以前、餌をやりに行った門番を襲い、もう少しで噛み殺すところだった。 「おやめ!何をしているの?手がなくなってもしらなくてよ!」 その声に振り向いたのは、福子だった。 「あ…、福子お義姉さま」 「冴子さん、お帰りなさい。学校はもう終わったんですか?」 「えぇ」 「可愛い子たちですね」 三頭のドイツシェパードは、檻の間から中に入れた福子の手を嬉しそうに競って舐め回していた。 「…大丈夫ですの?」 冴子は眉間を寄せた。 「何がですか?」 「うちの番犬は、なかなか人に慣れなくて。わたくしも鞭がなければそばへ寄れませんわ」 「そうなんですか?実家にも犬がいるんですよ。こんな立派な犬ではありませんけど、妹が神社の境内で拾ってきたんです」 そう言いながら、福子は檻に顔を近づけた。すると犬たちは、ぺろぺろと福子の顔を舐めた。冴子はそのようすに顔をしかめた。 (なんと不潔な…) そこへ門番が餌を運んできた。冴子がいることに気づくと、門番は深くお辞儀をした。 冴子は汚いものでも見るかのように、険しい表情をした。そんなことには全く気づかない福子は、手押し車に乗せられた器を手に取った。 「お義姉さま、何をなさってらっしゃるの?」 「門番の紳助さんが餌をやるのを怖がっていたので、わたしが引き受けたんですよ」 「え?」 ありえないことだと冴子は思った。犬の餌に触れるなど、考えられなかった。ましてや、清澄家の嫁が門番の仕事を代わりにするなど言語道断。 「おまえ!お義姉さまに餌をやらせるなんて、どういうつもり?おまえのような門番は必要ないわ。今すぐ出ておいき!」 激しい冴子の言葉に、門番は驚いてひれ伏した。 「お、お許しを」 「聞こえなかったの?今すぐ、出て行くのよ!」 「お願いでございます。このお屋敷を出されましたら、行くところがございません」 思わぬ展開に、福子もあわてた。 「冴子さん、紳助さんは悪くないのですよ。わたしが自分から言い出したことで」 冴子はきつい視線を福子を浴びせた。 「よろしいこと、お義姉さま。あなたも清澄の人間になられたのでしたら、犬の餌やりなどなさらないことですわ」 冴子はくるりと背を向けると、さっさと屋敷へ戻って行った。 そのようすに、福子は息をついた。たかが犬に餌をやるだけのことに、冴子がこれほど怒る理由が理解できないでいた。 福子は地面に張り付いて震えている門番に、そっと声を掛けた。 「心配しなくても大丈夫ですよ。ちゃんと旦那さまに辞めなくてすむようお願いしますから」  その夜、たまたま早くに帰ってきた貴之は母屋を訪ねた。執事の葛城が、うやうやしく頭を下げた。 「葛城、冴子から門番の件を聞いているか?」 「はい、暇を出すようにと」 「その話、なかったことにしてくれ」 「は?はい…」 「冴子には、おれから話す」 貴之が来たと聞いて、冴子は急いで三階の部屋から降りてきた。眉を吊り上げ、いつもより高飛車な態度だった。 「わたくし、背中がぞっとしましたわ。犬に手や顔を舐めさせて平気でいらっしゃるなんて。そのうえ、餌をやろうとなさいましたのよ」 興奮気味の冴子に、貴之は笑みを浮かべた。 「福子から、話は聞いているよ」 「では、お義姉さまにも恥を知るようにおっしゃって下さい」 「冴子は福子が嫌いかい?」 貴之の言葉に冴子は眉を寄せた。今、福子が好きかどうかを問題にしているわけではない。 「…別に、わたくしはそんなことを申し上げておりませんわ」 「福子はずっとあの痣の故に差別されてきたのだと思う。うわべだけしか見ない人間の中で、悲しい思いをしてきた。だが動物は差別をしない。男でも女でも、美しくても醜くくても、身体に不具があってもね。動物が見ているのは、自分たちの仲間になれるかどうか、心に優しさがあるかどうかだ」 「……」 「福子には他の人間にはない、優しさがあるのさ」 冴子は、貴之が福子をかばうのが気に入らなかった。 「だからと言って、この清澄の人間が使用人と馴れ馴れしくするのはどうかと思いますわ」 「そうだね。その辺りは、彼女に話しておこう」 「そうなさって下さい」 「今回の門番の件は、福子に免じて許してやって欲しいな。門番が餌やりを頼んだのではなく、福子が自分から申し出たと言っている。自分のせいで門番が暇を出されるのは、あまりに忍びないと」 冴子は上目遣いに貴之を見た。 「お兄さまが、そうおっしゃるなら…構いませんわ」 そう言いながら、つんと背を向けた。 「お兄さま、ずいぶんとお義姉さまに甘くございませんこと?」 「そうかな」 「そうですわ。お義姉さまにも、しっかり清澄家のしきたりを覚えていただく必要があると思います」 「冴子」 「はい」 「福子は、おれの妻だ。冴子の義姉でもある。できれば仲良くしてもらいたいのだけれどな」 「もちろんですわ」 冴子は軽く会釈すると、居間を出て行った。  福子は門番の紳助のことが心配で、貴之が戻ってくるのを玄関先で待っていた。 「お帰りなさいませ。いかがでしたか?」 「ん…、首切りはなしだ」 「まぁ、良かった。ありがとうございます」 福子は頭を下げながら、ほっと胸をなで下ろした。このまま紳助が暇を出されたりしては、眠れないところだった。 「犬に手や顔を舐めさせたって?」 「あ…、はい」 そんなことまで貴之の耳に入ったのかと、福子はどきっとした。馬鹿なことをして咎められると思わず俯いたが、貴之はくくっと押し殺したように笑った。 「よく覚えておいて欲しい。君にそんなことをしてもいいのは、おれだけだ」 その言葉に、福子は驚いたように目を丸くして貴之を見た。すると貴之は、福子の耳元にすっと顔を近づけて囁いた。 「夫婦なのだから、何をしても構わないんだよ」 「……」 返事に困って目をしばつかせている福子に、貴之は念を押した。 「わかった?」 「あ、…はい」 福子にとって貴之は、いつも突拍子もなく恥ずかしい部分にいきなり切り込んでくる存在だった。真顔で赤面するようなことを言われると、どんな顔をしていいのやら。そして、いつもそれを実際にやって見せる。そんなことをされたら、もうどうしていいのかわからなかった。 しっかり視線を合わせて笑った貴之に、福子は戸惑いながら笑顔を返し た。      十六歳になった冴子は、社交界へのお披露目をすることになっていた。 この日のために、色鮮やかなドレスも作らせた。付添は婚約者である北岡征長だ。 征長は美しく着飾った冴子を見て、これ以上ないほどわくわくしていた。 「冴子さんは、本当に美しい。誰もあなたに近寄れませんよ」 征長は鼻高々だった。こんなに美しい子女を連れて来るものは、他にいないだろう。鹿鳴館の華と呼ばれた戸田極子ですら、冴子の美しさの前には色褪せるに違いなかった。 征長が冴子を連れて東京倶楽部に現れたことで、ふたりの仲は公になった。大財閥同士の華やかな縁組みに、人々はため息を漏らした。 冴子が十六になるまで征長は清澄家を訪れていたが、社交界へ出た後、剛健はふたりで外で逢うことを許可した。ただお茶を飲んだり食事に行くことが多かったが、たまには映画や芝居見物にも出掛けた。征長は、ただ冴子の顔が見られるだけで良かった。いずれ自分のものになる冴子が目の前にいるだけで、充分に満足していた。 しかし冴子にとって、この義務的な儀式は疎ましかった。征長はそれなりに優しかったし紳士としての礼儀もわきまえてはいたが、冴子が男として見ることはなかった。                  *  冬彦は、東京帝国大学を卒業してすぐ、米国へ新しい商品発掘の視察旅行へ出掛けた。 会社としては欧州製品の輸入拡大を考えていたのだが、現在欧州は戦場だ。戦争終結はいつになるのか分からないということで、冬彦は米国へ旅立った。 桑港から北へ登り、加奈陀へも渡った。  桑港から横浜まで、三週間あまり。往路は日本郵船の客船に乗ったのだが、復路は日程が合わず米国の客船に乗ることになった。 船に乗り込んで一週間もすると、伝票整理もあらかた終わりやることがなくなる。毎晩船の中で行われる踊りや演奏会も暇つぶしににはなったが、一日中楽しませてくれるものではなかった。フルコースの西洋料理も珍しいものばかりで悪くはなかったが、一年近くも食べているとさすがに和食が食べたかった。 醤油くらい持ってくればよかったかと、旅も終わりになって少々後悔していた。 色々な思いを紛らわせるのに、冬彦は図書室に入り浸っていた。さすがに米国の豪華客船だけあって、今までに見たことのない美術書が揃っていた。 その夜も、閉室ぎりぎりまで図書室にいた冬彦は、気に入った美術書を一冊借り受けると、甲板へ出た。 2月も終わりの頃。さすがに厚手の上着がないと、寒くていられなかった。星はひとかけらも見えない。凍えるようなみぞれまで降っている。冬彦はぶるっと身を震わせ船室に入ろうとしたその時、みぞれが甲板を打ち付ける音に混じって床を刷毛でこする音がした。 目を凝らしてよく見ると、この寒空の下ごしごしと甲板を磨くものがいた。 「真冬の夜中に掃除?」 甲板掃除をしていたのは、ぼろをまとった少女だった。冬彦に気がつくと、その子は脅えたように頭を抱え込み平伏した。 「@#$^&▽%^**$☆&*^!#$%#)&」 何を言っているのか冬彦にはわからなかった。 「日本語は分かる?」 「%@!◇^☆9*T$#@△*7~$@」 「わからないんだね」 支那人かとも思ったが、話している言葉は支那語ではなさそうだった。 「Aer you speak English?」 「Yes,Sir」 少女はあわてて直立すると、冬彦を見上げた。その顔は真っ黒に汚れ、殴られたのか目の辺りが腫れているようだった。 「英語なら分かるの?What's your name?」 「…guia」 「グイア?」 少女は頷いた。 「What did you doing?」 「Yes,Sir」 「Why are you here?」 「Yes,Sir」 グイアは寒さに震えながら同じ言葉を繰り返した。 「What your last name?」 「guia」 「 name?」 「guia」 この少女は、英語を話すものに対する返事とnameという単語に反応することしかできないのだと冬彦は判断した。 すぐに船の客室責任者を呼び、何故こんな少女が夜遅くに甲板掃除などをさせられているのかと訊ねた。すると責任者は、この少女が悪さをしたことへの罰だろうと答えた。 「What is the punishment that you say?」 「I don't know」 「This girl has a hit wound」 客室責任者は首を振った。彼では話にならなかった。 「Is this girl a crew of this passenger ship?」 「Perhaps.Here, the human being of various countries works」 「Does a so small child work?」 客室責任者は、肩をすくめた。 「Please make the boss of this girl come to here.」 「Yes,Sir」 しばらくして、少女の上役だという清掃係の男がやって来た。アングロサクソン系の大男。酒も入り、ひどく訛った英語で面倒そうに言った。 「This baby is a mouse」 「ねずみ?」 一年ほど前、寄港した時に拾った子供だと男は言った。もう少し役に立つのかと思ったがたいして役にも立たず、海へ放り出すわけにも行かず、仕方なくこの船に置いているのだという。しかし、ただ飯を食わせるわけにはいかない。自分の食いぶちは自分で稼ぐよう掃除をさせているのだと言った。 「However, it is the night now」 大男は小馬鹿にしたように鼻先で笑った。 「What country did this girl come from?」 「I do not know it」 「What is her name?」 「guia」 一年経ってもグイアは言葉を覚えず役にも立たず、ただ邪魔な存在なだけだと大男は言った。 「A fool!」 大男は、いきなりグイアを殴った。 「何をするんだ!」 倒れたグイアの胸ぐらを掴もうとした大男の腕を、冬彦が引き離した。 「I take this girl with me!You must agree to it.You must never touch this girl!」 冬彦は、あまりにひどい仕打ちを受けているこの少女を、自分の客室へ連れてきてしまった。グイアは小刻みに震えながら、部屋の隅に突っ立っていた。 「大丈夫?どこか怪我をしていない?」 目の回りの暴行の痕も気になったが、殴られた時にも怪我をしなかったかと冬彦はグイアに手を伸ばした。するとグイアは殴られると思ったのか、身を縮めて腕で頭を覆った。 そのようすに、冬彦は困って息をついた。言葉が通じないのだから、怖がるのは無理もない。 「まず、その汚れた身体をなんとかしないとね」 風呂に入れてやろうと思ったのだが、どうすればそれが分かってもらえるだろうか。 冬彦は風呂場の扉を開け、お湯を桶に汲み、手招きした。 「グイア、おいで」 グイアは初めてみる風呂場に興味を示したらしく、おずおずとそばまで来た。 「怖くないからね」 冬彦は出来るだけ優しく声をかけると、グイアの服の背中にあるボタンを外した。グイアは眉間を寄せ難しい顔をすると口許をきゅっと結んだ。そして自分から服を脱ぎ全裸になると冬彦にそっと抱きついた。グイアの身体は凍るように冷たかった。抱きつかれて驚いている冬彦の右手をゆっくり自分の胸へ持って行った。 「え?」 次に左手を自分の股間に持って行こうとした。が、冬彦はあわてて両手を引っ込め、身体を離した。 「嘘…だろ」 こんなことをしなければならないほど愚劣な環境にグイアはいたのかと、冬彦は驚きを隠せなかった。こんな少女が、生きるために自分の身を差し出していたのだ。 冬彦は、無表情で自分を見上げているグイアの前にしゃがみ首を振った。 「僕は何もしない」 そう言って、もう一度首を振って見せた。 「何もしないよ」 そして桶の湯に手を浸け洗って見せ、手招きした。 「おいで」 グイアが恐る恐る風呂場に入ってくると、冬彦はまず手に湯をかけ足から順に腰へ胸へと湯をかけた。 「$@!*&☆%△**◇$!!@★#」 グイアは無表情のまま分からない言葉で何かを喋った。冷えきった身体に、その湯は有り難いはずだった。冬彦は、グイアの頭を洗い身体を洗ってやった。そしてふかふかの湯上がり用のバスタオルで身体中を拭いた。 「あまりに真っ黒で分からなかったけど、可愛い顔をしているね」 グイアは東南亜細亜系の人種のようだった。 気がつくとバスタオルに血がついていた。耳の後ろに一筋、血が湧き出るように流れている。見ると、頭の上に方に傷があった。さっきの大男に殴られて、甲板に頭をぶつけた時のものだった。 「頭を洗った時、痛かったのではない?よく我慢していたね」 冬彦は傷を消毒し、ガーゼで押さえた。他にも怪我をしていないか、冬彦はグイアの身体を調べた。古い傷が身体のあちこちに残されている。何度となく殴られ蹴られたのだろう。手足は、しもやけでいっぱいだった。 「可哀想に…」 大きなバスタオルに包まれたまま、グイアは両手を合わせ冬彦にお辞儀をした。 「ありがとうって言うんだよ」 冬彦はグイアのまねをして、手を合わせお辞儀をして見せた。 「ありがとう」 「…アリ…ガトウ」 冬彦が頷くと、グイアはもう一度手を合わせた。 「アリガトウ」 「良い子だ」 客船の中には何でも揃っている。グイアが着られそうな服も売られているはずだったが、夜も遅いこの時間にはさすがに閉まっていた。 冬彦は自分のシャツをグイアに着せた。 「朝になったら、君の服を用意できるからね」 グイアは無表情のまま、テーブルに置かれた果物籠を見つめていた。 「あぁ、お腹が空いているのか」 冬彦は林檎を丸ごと剥いて、グイアに手渡した。グイアはがつがつとかぶりつき、あっという間に芯まで食べてしまった。そんなに腹が空いていたのかと、もうひとつ林檎を手に取るとグイアに見せた。 「もっと食べたい?」 グイアは目をぱちくりとさせて、ごくっと咽喉を鳴らした。冬彦はくすっと笑うと、皮を剥いてグイアに渡した。グイアは先程と同じように見る間に食べてしまい、満腹したのかほっと息をついた。 冬彦はグイアを指さし「グイア」と言った。そして、次に自分を指さして「冬彦」と言った。 「わかる?君はグイア。僕は冬彦」 グイアは無表情で何度か瞬きをした。冬彦は自分を指さし、何回も繰り返した。 「冬彦。言ってみて、ふ・ゆ・ひ・こ」 「ヒュウ…ヒコ」 「ふゆひこ」 「ヒュウヒコ」 グイアには【ふ】は、発音の難しい音のようだった。 「ひゅうひこでもいいよ」 冬彦はグイアの頭をなでると笑った。 その日から、冬彦はグイアを自分の部屋で面倒を見ていた。清澄コンツェルンから同行した仕入担当部長は渋い顔をしていたが、そんなものは無視した。 少しでも言葉を教えようと、冬彦は得意な絵を描いてひとつずつ説明した。 林檎の絵を描いて「りんご」と繰り返し、グイアが言えるようになると次の絵を描いた。 穏やかで優しい時間が過ぎていた。冬彦は心を許してもいい人間だと判断したのだろうか。グイアはやっと少しずつではあるが、笑顔を見せるようになった。 帰りの時間は、あっという間だった。気がつくと、客船は横浜に到着していた。 冬彦は屋敷にも会社にも戻ることなく、グイアを連れて港からそのまま東京帝大の英語教師をしている石原輝子の元を訪れた。 「まぁ、清澄くん。久しぶりね」 「先生、ご無沙汰しています。今日は、お願いがあって来ました」 冬彦はグイアを紹介し、彼女の状況を説明した。そして父に許可をもらいに行く間、預かって欲しいと頼んだ。 突然父の前にグイアを連れて行くことは、やはりはばかられた。 「簡単な日本語なら、何とか分かると思います。彼女の言葉がわかる人間がいなくて、未だに出身国がどこだかわかりません」 「そう。彼女の母国語を聞いてみたいわ」 冬彦はグイアの前にしゃがみ込んだ。 「グイア。先生がね、君の国の言葉が聞きたいって」 グイアは首をかしげた。冬彦はグイアを指さし、口許で手のひらを結んだり広げたりして見せた。 「話して」 グイアは不思議そうな顔をして口を開いた。 「*\%$^&☆@&%^**$▲☆&*^!#▽^$^&☆@」 石原はグイアの言葉を聞いて、目をしばつかせながらしばらく考えていた。 「…比律賓(フィリピン)あたりの現地語のようね」 「… 比律賓 ですか?」 「でも確かではないわ。ごめんなさい」 冬彦は首を振った。 「預かるくらいなら、お安い御用よ」 「ありがとうございます」 冬彦はグイアの肩を抱くと、石原に身体を向けた。 「いいかい。この人は、僕の先生だよ。先生」 「センセー」 「そう、石原先生。僕が迎えに来るまで、ここで待っていて」 「……」 不安そうな顔で見つめているグイアに、石原は声をかけた。 「グイア、こちらへいらっしゃい。座って」 石原は、椅子を引いた。冬彦は、グイアを座らせると頭をなでた。 「では、お願いします」 頭を下げて部屋を出ようとした冬彦を見て、グイアは急いで椅子から降りると冬彦の服の裾をつかんだ。 「ヒュウヒコ…」 「心配しなくて大丈夫だよ。すぐに戻ってくるからね」 「スグ?」 「あぁ、すぐだよ」 石原の元から会社へ向かった冬彦は、手に入れてきた数多くの商品を重役たちに広げて見せた。 コンツェルン本社にいた貴之も、冬彦の帰りを聞いて貿易部門の会議室を訪ねた。 「ただいま帰りました」 「冬彦、元気そうだな」 冬彦は装飾品を中心に、女性向けの品目を多く持ち帰っていた。化粧品や髪飾りは、華族や金持ちの女たちが欲しがりそうなものばかりだった。 広げた商品の中から、貴之は一冊の本を手に取った。 「これは、刺繍か?」 「色糸や布地を押さえる枠もありますよ。向こうは色糸に絹ではなく綿を使っているようです」 「持って帰ってもいいか?」 「お義姉さんにですか?いいですよ。糸や枠は後で届けさせます。お父さまはどちらに?」 「さあな」 貴之は秘書に視線を移した。 「総帥は?」 「今日は出先から直接ご自宅へ戻られます」 一刻も早く父に許可をもらって、グイアを迎えに行こうと思っていた冬彦は、仕方なく一端屋敷に戻ることにした。  冬彦は家族に土産をたくさん買ってきていた。 冴子や義姉たちには、つばが大きく華やかな装飾を施した帽子や日傘を用意していた。 「まぁ、なんてステキ!」 冴子は声を上げると、さっそく鏡の前でその帽子をかぶり日傘を広げた。 「冴子によく似合っている」 「今度の東京倶楽部の夜会が楽しみですわ。冬彦お兄さま、どうもありがとう」 冴子たちが土産物をひっくり返している間に、冬彦は父の部屋へ行った。 「ご苦労だったな。面白い商品を見つけてきたか?」 「はい、販売戦略も考えてあります」 冬彦は買い付けてきた商品の目録を剛健に渡した。目録に目を通している父を見ながら、冬彦はいつグイアのことを話そうかとようすを窺っていた。冬彦にとって、グイアの話を父にするのは勇気のいることだった。 冬彦は目を閉じると、すっと息を吸い込んだ。 「お父さま、聞いていただきたいことがあります」 「商品のことなら、明日詳しく聞く」 「いえ…、仕事の話ではありません」 剛健は眼鏡の奥から、冬彦を見た。自分にとって、あまり良い話ではなさそうなことは冬彦の表情から見て取れた。 「面倒な話か?」 「あ…、どうでしょうか」 冬彦が口ごもったのを見て、剛健は息をついた。 「まぁいい。話せ」 「はい」 冬彦はグイアとの経緯を話した。彼女がどれほど酷い目に遭って来たか、細かく説明もした。何とか彼女をこの屋敷に置いて欲しかった。 取りあえず剛健は最後まで話を聞くには聞いたが、眼鏡を外すと鼻先で笑った。 「帰ってきた早々何を言い出すかと思ったら、そんな下らんことか。 比律賓人の子供など、問題外だな」 「金髪に青い目の子供なら良かったのですか?」 「そうだ」 「同じ人間です。どこにも身寄りがないのですよ。今放り出したら、路頭に迷ってしまいます。死ねと言っているのと同じです」 「聞く耳は持たんな」 剛健はもう一度眼鏡をかけると、再び目録に視線を落とした。 「お父さま、お願いします」 「話は終わりだ」 「しかし」 「聞こえなかったか?話は終わりだ。そんなことより、早々に今回の企画書を景一朗に出せ。今後、どのくらいの融資が必要か計算させる」 「……」 「冬彦」 「はい…、わかりました」 冬彦は唇を噛むと、部屋を出た。 清澄家には昔から英国人と独逸人の家庭教師が出入りしていた。景一朗をはじめ兄弟たちは皆、彼らから外国語を習得した。今も冴子は彼らから英語と独逸語を学んでいる。だから父は外国人に偏見はないだろうと思っていた。しかしそれは、冬彦の思い過ごしだったようだ。白人は良くて黄色人は駄目だと言われても、冬彦には納得がいかなかった。 冬彦は持って帰ってきたトランクをそのまま持つと、玄関へ向かった。 それを見かけた冴子は、驚いたように声をかけた。 「お兄さま、またどこかへいらっしゃいますの?」 「しばらくの間ね。会社にはちゃんと出るから、心配しないでってお母さまに伝えて」 冬彦は急いで東京帝大の石原の部屋へ戻った。 「遅くなりました」 扉を開けた冬彦を見て、グイアは飛びつくようにしがみついた。 「グイア…、どうしかした?」 「あぁ、清澄くん。戻ってくれて助かったわ」 「何かありましたか?」 「それがね…」 石原は、ため息をついた。 「あなたが出掛けてから、ひと言も口を利いてくれないの。食事も用意したのだけれど、何も食べてくれなくて」 「すみません、お世話をおかけして」 「どうだった?お家に連れて帰れそう?」 そう言いながら、石原は冬彦が引き摺ってきたトランクに目を向けた。 「…駄目だったみたいね」 冬彦は悲しげに頷いた。 「しばらくホテルにでも泊まります。それから、ゆっくり考えようかと」 「でも、清澄くんは仕事があるでしょ。昼間、その子はどうするの?」 「あ…、そうですね」 冬彦はグイアの頭をなでた。 「大丈夫です、何とかします」 「わたし、昼間はここにいるから。ホテルが決まったら、取り敢えず連絡先を教えてちょうだい」 冬彦はグイアを連れて、ひとまず帝国ホテルに部屋を取った。 「ココ、ネル?」 「そう、ここに寝るんだよ」 グイアは嬉しそうにベッドへ寝転がった。グイアにとって、陸で寝るのは一年ぶりのことだろう。揺れていないこの場所でゆっくり眠れるだろうかと冬彦は心配していたが、グイアは疲れていたせいか、すぐに寝息を立てた。 翌朝、冬彦は時計の絵を描いて見せた。短い針がぐるっと回って、六のところに来たら帰るから、それまでここで待っているようにと見ぶり手振りを加えて説明した。 グイアは理解したのかしないのか、笑って頷いた。退屈しのぎになるかと、冬彦は紙と鉛筆をグイアに持たせた。 「おとなしく待っているのだよ」 それでも、心配には違いなかった。受付で昼食を運ぶようにいい、ようすも見てくれるように頼んだ。 清澄財閥の息子だと知ったホテル側は、時々ようすを見に行くと約束した。 ホテルの対応に安心した冬彦は仕事に専念していたが、午後になって支配人から電話が掛かってきた。グイアがいなくなったというのだ。 『昼食を届けた時には、いらっしゃいました。食事もされて、しばらく従業員がお相手をさせていただいておりました。先程おやつをお持ちしましたら、姿が見えなくて…』 ホテル側はあちこち捜したが、グイアはどこにもいなかったという。 冬彦は急いでホテルに戻った。 土地勘のないグイアがどこに行ってしまったのかなど、まるで見当がつかなかった。冬彦はホテルの従業員とともにあちこちを捜しまわったが、グイアの姿はなかった。 (どこへいったんだ?) 当てもなく日比谷公園まで来た冬彦は、すっかり暗くなった心字池に石を投げているグイアを見つけた。 「グイア!」 グイアは振り返ると嬉しそうに駆けてきた。 「ヒュウヒコ!」 「駄目じゃないか、勝手に部屋を出たりして。どんなに心配したと思ってるんだ!」 冬彦の険しい表情に、グイアは悲しそうな顔をして首をかしげた。 「いや、いいんだ」 冬彦はしゃがむとグイアを抱きしめた。 「悪いのは僕だ。君をひとりにした僕が悪いんだ」 冬彦はグイアを連れてひとまずホテルへ戻った。 だが、これ以上グイアをひとりにしておくことは出来ない。冬彦は考えあぐねた末、屋敷に電話を掛けた。 電話に出たのは、執事の葛城だった。 「奥さまがご心配なさっておいででございますよ。今、どちらにおられます?」 「帝国ホテルだ。葛城、頼みがある」 「何でしょう?」 冬彦は清澄家の女中をひとり、グイアの子守りに貸して欲しいと頼んだ。 「旦那様は、ご承知でございますか?」 「許しが出ていれば、ホテルになどいない」 「それでは、お受けすることは出来かねます」 「子供をひとりでホテルに残したままでは、心配で仕事にならない。頼む、葛城。お父さまには黙って、侍女を貸して欲しい」 「冬彦さま、わたくしには判断致しかねます」 電話のやり取りを聞いていたらしい冴子は、葛城から電話を取り上げた。 「冬彦お兄さまですの?」 「冴子?」 ざっと事情を聞いた冴子は、電話を切ると葛城を見た。 「車を用意なさい」 「お嬢さま、もう時間が遅うございます」 「葛城、聞こえなかったの?」 葛城は頭を下げると、車の用意をしに外へ出た。 冴子は帝国ホテルの冬彦がいる部屋へ向かった。グイアは冴子が入ってくると、不安そうな表情で冬彦にしがみついた。 「その子が?」 「あぁ、グイアというんだ」 「まだ幼そうですわね。日本語は通じますの?」 「帰りの船で、少しは教えたのだけど。ほんの片言だ」 冴子はグイアをまじまじと見た。浅黒い肌、おどおどした瞳。初めて会った時のサトにどこか似ていた。父ならこんな外国人の子供は、決して屋敷に入れないだろう。 「その子をどうなさるおつもりですの?」 「うちで面倒を見て、学校へ行かせて。グイアが望むなら、いつか国へ帰してやりたい…。そんなふうに漠然と考えているのだが」 「いつか?もしこの子が国には帰らないと言ったら、その時は?まさか、結婚までお考えですの?」 冬彦は、ふっと笑って首を振った。 「いや、それは…。まだ、ほんの子供だよ」 「けれど、いずれ大人になります。そんなふうに冬彦お兄さまがこの子の面倒を見れば、この子はきっとお兄さまを愛するようになりますわ」 「そんなことは…」 「ないと言い切れます?」 確かにそこまで考えてはいなかった。だが一生面倒を見るのでなければ、グイアはこの日本で生きて行くのは難しい。人間を引き受けるというのは、そういうことだ。 冬彦は考え込んでしまった。自分は深く考えもせずに、安易にグイアをここまで連れてきた。この子の行く末を本当に自分が見てやれるのだろうか。 船でグイアに出会った時は、あの劣悪な環境に置いておくことが出来なくて、あまりにも憐れで可哀想で放っておけなかった。ただあの場所から連れ出してやりたかった。冬彦は自分の手で何とか出来るような気がしていたのだ。 冴子は冬彦の陰に隠れるようにしているグイアに、もう一度上から下まで視線を送った。 「結婚などありえませんわね。お父さまが承知なさるはずがございませんもの。それともお妾になさいます?」 「冴子、誰もそんなことは考えていないよ。ただ、…グイアは本当に可哀想な子なんだ」 冴子は自分が優しい人間だとは思っていなかった。福子のように立場もわきまえず、誰彼なしに心を向けるのは愚行でしかない。 けれど可哀想な子供に憐れみを施す自分は、そう嫌いではなかった。 「明日の朝、サトをこちらへ寄越しますわ」 その言葉に冬彦は、ほっとした笑みを浮かべた。 「助かるよ。ただ、屋敷の者には黙っていてくれるかい?葛城にも余計なことを言うなと」 「わかりました。でも、いつまでもここにという訳にも参りませんでしょう?」 「そうだね、…何とかする」 翌朝サトが来ると冬彦は、金と連絡先を書いた紙切れを渡した。 サトのおかげで一安心はしたものの、グイアの行く末を考えると仕事は手に付かなかった。  東京帝大の恩師、石原から会いたいと電話があったのは、それからまもなくしてのことだった。もしかすると、グイアの言葉がわかるかもしれない人物がいるとの連絡だった。冬彦はすぐにグイアを連れて、石原を訪ねた。 「こちら、相葉先生」 石原が紹介した相葉という初老の紳士は、加利福尼亜(カリフォルニア)大学デービス校で農業を教え、米国の植民地である 比律賓 にもしばらく住んでいたと言った。 「通じるといいけどね」 相葉は笑いながらグイアを椅子に座らせると、静かに話しかけた。 「$&△%*(E(%^#%☆」 グイアは目を見開いて、口を開いた。 「◇*^%+$-#▲**@」 自分の分かる言葉を喋る人間のいることが信じられないようだった。相葉は笑顔で冬彦に顔を向けた。 「分かるみたいだよ」 「良かった。ありがとうございます」 「ただ彼女の言語はかなり訛ってるからね、うまく訳せるといいけど。さて、何を聞けばいいのかな?」 「年齢や住んでいた国のことを。客船の清掃夫は、港でグイアを拾ったと言っていましたが、どうして船に乗っていたのかを聞いていただけますか?」 相葉が訪ねると、グイアはとつとつと話し始めた。 グイアは十一歳。自分の国が 比律賓 かどうかは、知らないようだった。彼女のいたバライ村が、ある日突然襲われた。理由はわからない。家という家に火が放たれ、村中の人間が殺された。グイアの家族も例外ではなかった。茂みに身を潜めていたグイアは、一緒に隠れていた弟を連れて村から逃げた。逃げて逃げて、どのくらい走ったか分からないくらい、ただひたすらに走り続けた。やがて川岸に辿り着いた。小さな船が川岸に繋がれていた。グイアは弟とその船に隠れたが、疲れて寝入ってしまった。 グイアはその船の持ち主に起こされた。船はいつの間にか海に出ていた。船の持ち主はふたりに食べ物をくれ、港で下ろされた。 初めて見る大きな客船、賑やかな港町、立ち並ぶ露店。船の持ち主は見知らぬ大男に、グイアと弟を客船に乗せてもらえるように頼んでくれたようだった。 『あの船で外国へ行け。金持ちがたくさんいるぞ。おまえたちを拾ってくれる奴がいるかもしれない。新しい世界へ行って幸せになれ』 この世に二人きりになってしまったグイアと弟は、男の言う新しい世界を見るために船に乗る決心をした。 「弟が一緒だったんですか?」 「そのようだよ」 「知りませんでした。船はまだ港に停泊しているはずです。すぐ引き取りに行かないと。名を何というのか聞いて下さい」 相葉が訪ねると、グイアは首を振った。 客船には乗せてもらえたのだと思っていた。けれどそれは違っていた。あの船の持ち主は、大男に自分たちを売ったのだということが分かった。毎日甲板の掃除をさせられ、ろくに食事も与えられなかった。 淡々と話し続けるグイアの言葉を聞いていた相葉は、急に表情を歪ませた。 「まさか…」 「どうしたんですか?」 「……」 「相葉先生?」 「…弟は、生きたまま海へ投げ捨てられたと」 「え?」 「役に立たないから、殺された」 あまりにも残忍な話に、冬彦も石原も声が出なかった。 「自分が生かされていたのは、おそらく女だったからだろうと言ってる」 冬彦は眉間を寄せるとグイアを抱きしめ、相葉の言葉をさえぎった。 「もう、いいです。それ以上聞かないで下さい」 「清澄くん?」 冬彦は激しく首を振った。 「グイアは信じられないくらい酷いことをされていたんです。だから、もうこれ以上…」  眠ってしまったグイアに、冬彦は上着を掛けた。 石原は、机にコーヒーを置いた。 「どうぞ」 「すみません、先生」 グイアの過去が分かって良かったのか悪かったのか、冬彦には分からなかった。ただ辛い思いをしてきたのだという事実が明らかになっただけだ。 「せっかく村の名前がわかったのに、この子を生まれた場所へ帰してあげることも出来ないのね」 「……」 グイアには、行き場がない。 「清澄くんのお父さまの許可が出ないとなると、あなたがこれ以上面倒を見るのは無理なのではないかしら。いつまでもホテル住まいというわけにもいかないでしょう?」 「……」 「この子の面倒を見てもらえそうなところを当たりましょうか?」 「しかし…」 冬彦はコーヒーカップを握りしめた。 「また船の時のように、酷い目に遭ったら」 「そうならないところを探すわ」 石原の言葉は有り難かったが、冬彦は自分の手でグイアを何とかしてやりたかった。  何日経っても冬彦が屋敷へ帰って来ないことに、事情を知らない母・雅代はとても心配していた。 「冬彦さんはどうして戻ってこないのでしょう。冴子さん、冬彦さんはお父さまと何かありましたか?」 冴子は首を振った。 冴子はグイアのことなどどうでもよかったが、ここまで見ず知らずの外国人の子供に心を掛けている冬彦に少々苛立ちを感じていた。 口止めはされたものの、冴子はこのことを景一朗に話した。 「何だってまた、外国人の子なんか」 「ほんとうに」 「お父さまは、頑として受け付けないだろうな」 「そう思います。説得しても無駄ですわ。わたくしも、あの子に屋敷の中をうろうろされるのは御免ですし」 冬彦から直接話を聞かないことには埒が明かない。翌朝、景一朗はサトと一緒に冬彦の元を訪れた。 「景一朗兄さま、何故ここへ…」 景一朗は部屋へ入ると、まだベッドで眠っているグイアの顔を覗き込んだ。 「ずいぶんな土産だな」 「……」 「冴子の話では、その子を学校へやっていずれ国へ帰してやりたいということだが」 「そう思っていたのですが、この子のいた村は襲われて両親も死んでしまったらしくて」 「帰る場所がないということか」 「はい…」 景一朗は、腕を組むと難しい顔をした。 「女中として屋敷に置くなら、お父さまに口添えしてやっても構わん」 「グイアは女中になどしません。しっかり教育を受けさせて、自立させてやりたいのです」 景一朗は、ちらりとサトを見た。 「女中に自立は適わぬか?」 冬彦もサトに視線を送った。サトはグイアよりも小さい頃から、口減らしのため清澄の屋敷で働いている。 「グイアは外国人です。結婚もままならないかもしれません。サトとは違います」 身寄りもなく言葉も通じない外国で、今冬彦が手を放せばグイアは死ぬしかない。 「おまえの気持ちはわからんではないが、難しいな」 「どうしてもお父さまの許しが頂けないならば、僕は屋敷を出ます。家を借りて人を雇い、グイアの面倒を見ます」 景一朗は、呆れたように笑った。 「何を子供のようなことを言っている。そんなことをお父さまが承知なさるとでも思っているのか?」 「僕は、もう大人です。いつまでもお父さまの言いなりになどなりません」 「冬彦。そんなことをすれば、おまえは清澄コンツェルンから抹消されるぞ。仕事を失って、どうやってその子の面倒を見る?」 「仕事なら探します」 「無理だな。お父さまは、必ずおまえを捜し出す。そして横槍が入るぞ」 「……」 確かにそうだ。どこで仕事を探そうと、剛健の知るところとなれば終わりだ。父がそういう人間だということを冬彦もよく分かっていた。 「では、どうすればよろしいのですか?」 「元いた場所に帰すことだ。安っぽい同情心だけでは、他人の人生を背負うことなどできん」 冬彦は険しい表情を見せた。あの船に帰すことなど、絶対に出来ない。 船での詳しい経緯を話すと、あまりにもグイアの悲惨な状況に景一朗も眉間を寄せた。 「もし華ちゃんがグイアのような目に遭ったとしたら、兄さまは黙っていられますか?」 景一朗は息をつくと時計を見た。もう出社の時刻だ。 「わたしの答えは同じだ。女中として屋敷に置くのなら、口添えをしてやる。女中が気に入らないというのは、単におまえの身勝手だろう?もう少し利口になれ。先に行くぞ」 そう言い残すと景一朗は部屋を出た。 冬彦は頭を抱え込んだ。そこにしか道がないのだろうか。父がもっと柔軟な心を持っている人間であれば、もう少し違う道が開けたはずだ。  結局、冬彦は景一朗と父の元に出向いた。 納得はいかなかったが、他に名案は思い浮かばなかった。 「何の戯言だ」 剛健は厳しい表情で新聞から目を離すと、冬彦を睨みつけた。 「その話は、終わりだと言わなかったか?」 「お願いします、お父さま」 床に手を着いて頭を下げた冬彦の後ろで、景一朗が口を開いた。 「たかが女中がひとり増えるだけのことです。お父さまが目くじらを立てられるような事ではないと思いますが」 剛健は、景一朗にまで刺すような視線を向けた。 「冬彦に懐柔されたか。情けない奴だ」 フィリピン人の子供など問題外だと、剛健は聞く耳を持たなかった。 「いいか、景一朗。おまえのところに住まわせるというような馬鹿なことも考えるな」 使用人としておくことも許されないのかと、冬彦はすっかり落胆して景一朗をすがるような目で見た。悩みながら父の元へ来た冬彦には、もうこれ以上どうしていいのかわからなかった。 景一朗はしばらく考えているようすだったが、何か思いついたように口を開いた。 「お父さま。清澄家が外国人の孤児を引き取ったとなれば、世間の見方は確実に変わります。清澄剛健は、それほど寛容で懐が深いのかと皆が噂するでしょう。あの子供をコンツェルン全体の印象を良くするための宣伝に使うことも可能だと思います。そうすれば事業拡大に繋がることも考えられますし、仕事自体こちらの思うように動かせるかもしれません」 景一朗の言葉に剛健は興味を覚えたらしく、読んでいた新聞をたたむと眼鏡を外した。 「具体的には、私の名声の他にどんな利得がある?」 「そうですね。たとえば…、外国の貧しい地域に井戸を掘ったり、病院を建てるための寄付を募ります。政府にも働き掛けて金を出させるのです。その仕事はすべてうちで請け負います。貧しい外国にまで目を向けることの出来る広い視野を持つ総帥の人柄を、皆は評価するでしょう。会社の評判も上がります。その上、仕事を請け負うことで我々も潤うことになります」 剛健は、口の端でほくそ笑んだ。 「おもしろいな」 突然の景一朗の提案に、冬彦は話が違う方向に動いていると戸惑いを隠せなかった。 グイアを仕事のために使うとはどういうことなのか。 「冬彦が連れてきた子供は厄介者ではなく、総帥の名声を上げ、金の成る木になるやもしれません」 「うむ、そうかもしれん」 剛健は薄笑いを浮かべたまま、冬彦に目を向けた。 「冬彦、子供を屋敷へ置くことを許可する。おまえもそいつの新しい使い道を考えろ」 「……」 部屋を出た冬彦は、唇を噛みしめ拳を握りしめた。 「良かったな、冬彦」 満足げな景一朗に、冬彦は険しい表情を向けた。 「景一朗兄さま!いったいあれは、何の話ですか?グイアを出しに、何をなさるおつもりです!」 興奮している冬彦をなだめるように、景一朗は彼の肩を掴んだ。 「落ち着け。お父さまの自尊心をくすぐっただけだ。女中でも駄目だと言われたのだぞ。ああでも言わないと、あの子供を屋敷に置くことは無理だ。何の文句がある?おまえの望み通りになったではないか」 「…こんな形を望んでいたわけではありません」 「我が儘も大概にしろ。わたしも忙しい、これ以上世話を焼かせるな」 真っ直ぐで潔癖な冬彦には、父の狡猾さが許せなかったし兄の合理主義的なやり方にも納得がいかなかった。その上自分は、所詮父の傘の下でしか動けないのだということにも激しい嫌悪を感じていた。 このままでは、グイアは清澄コンツェルンの広告塔にさせられるかもしれない。 こんな場所で、本当にグイアを伸び伸びと育ててやれるのだろうか。グイアにとって、いちばん良い場所とは、どんな環境なのだろうか。彼女はまだ子供だ。両親がいて兄弟がいて、そんな在り来たりな家庭が最も心安らぐ場所のはずだ。 けれど、ここにはそれがない。 散々考えた揚げ句、冬彦は帝大の石原の元へ行った。そして、グイアの引き取り手を捜してもらえるように石原に頭を下げた。どうしてやることも出来ない自分が、腹立たしかった。  冬彦は取り敢えずグイアを連れて、屋敷に戻って来た。しかし、グイアは屋敷の中で浮いた存在だった。 言葉もろくに分からない外国人の子供。 屋敷の人間は、葛城も松田もグイアをどう扱っていいのか分からず戸惑っていた。グイアの方も好奇の目で見られているのを感じるのか、昼間冬彦のいない間はサトから離れようとしなかった。 「サト!ここを片付けておきなさいと言わなかった?」 「はい、お嬢さま。すぐに」 冴子は、グイアにまとわり付かれて本来の仕事をこなせないでいるサトに苛立っていた。 「冬彦お兄さま、あの子を何とかして下さいませんこと?サトにべったりで仕事になりませんわ」 「悪いとは思っているよ。けれど僕がいない間、グイアにとってはサトしか頼れる者がいないのだから、少し大目に見てやって欲しい。サトは、グイアのことをとても良く分かってくれているんだ」 冴子は、大きく息をついて見せた。 「あの子をこの屋敷に置くことをお父さまがお許しになるなんて、未だに信じられませんわ」 「そう長くはないから、少し辛抱しておくれ」 グイアは冴子にとって、ただの厄介者に過ぎなかった。  池のそばで、サトはグイアに鯉の餌の入った枡を持たせた。 「これは、鯉の餌。餌だよ、わかる?」 サトは、餌を池に少し撒いて見せた。ばしゃばしゃっとたくさんの鯉が餌を求めて寄ってきた。グイアは嬉しそうに笑うと、サトを真似て餌を撒いた。 「いいかい。わたしがお使いから戻ってくるまで、ここで待ってるんだよ」 置いていかれると思ったグイアは、餌の入った枡を放り出しサトの着物の袖をつかんだ。 「すぐだから、ね。夕方までに行かないと、わたしがお嬢さまに叱られるんだから」 「ダメ…、サト、イク」 「だから、連れて行けないんだって」 散歩の途中にふたりのようすが目に入った福子は、何かあったのかとそばへ来た。 「どうかしたの?」 「わ、若奥さま!」 サトは、あわてて頭を下げた 「その子が、冬彦さんの連れてきた女の子?」 「はい」 福子がグイアの頭をなでようと手を出すと、グイアはさっと身を引いてサトの陰に隠れた。 「怖がらなくてもいいのに。あなたは用があるの?」 「はい、冴子お嬢さまのお使いで」 「お使いの間、その子を見ていましょうか?」 サトは首を振った。 「滅相もございません。若奥さまにそんなお願いをしては、あとでサトが叱られます」 「でも、用があるのでしょう?大丈夫ですよ、叱られたりしませんから。いってらっしゃい」 サトは、福子に押し出されるように使いに出た。 残されたグイアは、福子の顔をじっと見たまま動こうとしなかった。福子が手をつなごうと腕を伸ばした。するとグイアはびくっと身体を震わせ後ずさりをした。 自分の痣を怖がっているようすのグイアの前に福子はしゃがみ込んだ。 「グイアちゃん…よね」 グイアは名前を呼ばれて、わずかに頷いた。福子は自分の痣に手をやると、にこりと笑った。 「怖い?大丈夫よ、怖くないから。わたしはあなたとお友だちになりたいの」 福子はなおも笑顔を重ねると、もう一度手を出した。グイアは暫くの間福子の出した手と顔の痣を交互にを見つめていたが、やがてその手を取った。 福子は自分の屋敷にグイアを連れてくると、おやつを出した。 「おあがりなさい」 福子がとても優しいのだと知ったグイアは、嬉しそうに出されたおやつを頬張った。 福子は納戸へ行くと、奥から柳行李を引っ張り出した。確か嫁入りの時、ここに入れて持ってきたはずだった。 「あった」 福子が取り出したのは、おはじきだった。綺麗なちりめんの袋の中からおはじきを出し、グイアの前に広げて見せた。 グイアは、きらきらと光るおはじきに興味を示した。福子が遊び方を教えると、グイアも同じようにおはじきを爪で弾いた。 「まぁ、じょうず」 グイアは余程楽しいのか、子供らしい笑顔を見せた。 福子は貴之からグイアの事を漏れ聞いていた。こんな子供が、たったひとり家族とも離れ遠い外国いるとは、何と憐れなことだろうかと心が痛んだ。冬彦はこの子をどうするつもりなのだろうかと、気にもなっていた。 ふたりで遊んでいると、玄関で女中の声がした。 「旦那さま、お帰りなさいませ」 昼間、帰ってくるはずのない貴之が戻ってきたことに驚きながら、福子は居間の扉に手をかけた。すると貴之がその扉を開けた。 「おっと、びっくりした」 「お帰りなさいませ。どうなさいました、こんな時間に?」 「ちょっと忘れ物だ。すぐ、戻… 誰だ?」 見慣れない子供がいることに、貴之はいぶかしげにグイアを見た。 「冬彦さんの連れてきた子です」 「あぁ、 フィリピンの子供か。何故ここにいる?」 「少しの間、預かりました。とても頭の良い子ですよ。おはじきを教えたらすぐに覚えて」 福子の嬉しそうなようすに、貴之も笑みを浮かべた。 「そうか。君が楽しいなら、それでいい」 貴之は、書棚の引き出しから書類を出した。 「今夜は遅くなる。夕食はその子に付き合ってもらうといい」 「よろしいのでございますか?」 「あぁ」  陽が傾いた頃、サトが息を切らして貴之の屋敷にグイアを迎えに来た。 サトは身体が半分に折れ曲がるほど深くお辞儀をした。 「若奥さま、本当にありがとうございました。さ、行くよ。グイア」 「待ってちょうだい。グイアちゃんと晩ご飯を一緒に食べたいの。だから、あとで母屋へ連れて行きます」 サトは困った顔をした。グイアを置いて行っていいのかどうか、サトには判断出来なかった。福子は一緒に母屋へ行くと、葛城にその旨を話した。 「わかりました。では、八時にこの子を迎えに参ります」 このところ貴之の帰りは遅く毎晩寂しい夕食を摂っていたが、この日福子は久しぶりに楽しい時間を過ごした。  貴之は朝食の時、いや福子といるほとんどの時間、必要なこと以外は自分が主導で話をすることはなかった。毎日何をしどこへ行き、どんなことを考えたかをいつも福子に喋らせた。 貴之は福子が話すことに対して、どんなにつまらない話でも必ず最後まで聞き、すべてを肯定し決して異見はしなかった。それは気分良く話をさせるための、福子に対する配慮だった。 今朝の福子の話題は、グイアのことに終始していた。昨日、一緒にいた時間がそれほど楽しかったのかと、貴之は嬉しそうに話す福子の顔を見つめていた。 「…わたしの顔に何か付いていますか?」 「うん、付いてる」 福子は何だろうかと、手で頬を撫でた。 「どこに何が付いています?」 「ほっぺに痣」 福子は目をぱちくりとさせたが、やがて笑い出した。 「真面目な顔でおっしゃるから、何かと思いました」 「とても魅力的な痣だ。見ているだけで興奮する」 「…また、そんな」 福子は顔を赤らめた。 この醜い痣を、こんなふうに表してくれるのは貴之しかいない。自分を大切に扱ってくれることを、福子は幸せに感じていたし感謝もしていた。 けれど結婚して二年を過ぎた今でも、どこまでが本当でどこからが嘘なのか、福子は計りかねていた。貴之は、福子を苦しめるようなことは絶対に口にはしない。ただ並べ立てる甘い言葉が、すべて本心だとも思えない。今日のような朝帰りは週に何度もある。他の女を抱いて来たすぐその後で、自分に向けられる優しい眼差しをそのまま信じていいのかどうか分からなかった。上っ面だけの愛情表現だとは思いたくないと、福子は心の中に湧き出てくる想いを押さえつけていた。  貴之の方は、ただ福子が気分良く過ごせればいいと思っていた。仕事と女に関すること以外は、すべて福子の都合に合わせているつもりだったし、好きなようにさせてやりたいとも思っていた。だからグイアの件も、福子がしたいようにすればいいと考えていた。 「君は、あのフィリピンの子を気に入った?」 「はい、本当に可愛くて。あんなに幼いのに、ひとりで外国へ来て知らない大人の中で暮らしているなど考えられないことです。よく辛抱していると思います」 「…うん」 昼間、グイアの面倒を見ているのは冴子の侍女だと聞いた。冴子からは文句が来ていると、冬彦がこぼしていた。 「うちで預かりたい?」 「え?」 「そのフィリピンの子」 「よろしいのでございますか?」 「君が面倒を見てやりたいのならね」 「はい、是非」  早速、貴之は冬彦に子供を預かりたいと話をした。 「迷惑ではありませんか?」 「いいんじゃないのか。福子がそうしたいと言っている」 貴之の申し出は、冬彦にとって非常に有り難かった。冴子からの苦情はもう何度も来ていたし、結局そのしわ寄せはサトが被っている。サトは冬彦からの頼みも冴子の命令も、どちらにも逆らえない。サトに荷を負わせるのは、本意ではなかった。 「では、お言葉に甘えて」 「ただなぁ、その子供はひとりで寝られるのか?」 「え…、はい」 「誰かと一緒でないと寝ないとういうのは、困るからな。こっちも色々都合があるし」 「あぁ…。えぇ、大丈夫だと思います」 「客間のベッドにひとりだぞ?」 「無理なようなら、夜は母屋へ」  さっそくグイアは、貴之の屋敷に連れて来られた。 福子はグイアが七歳か八歳くらいだろうと思っていたのだが、冬彦から十一歳だと聞かされて驚いた。とてもそんな年齢には見えないくらい、身体も小さく幼い感じがした。 「初めて会った時は、もっと痩せていました」 「そうですか…」 「福子義姉さま、本当にお願いしてよろしいのですか?」 「はい、グイアちゃんさえ良ければ」 福子は自分がグイアの母親代わりになれるなら、どんなに嬉しいだろうかと思っていた。石女かもしれないという思いを、グイアが打ち消してくれるような気がしていた。 「貴之さま、グイアちゃんにお洋服と絵本を買ってもよろしいでしょか?」 「欲しいだけ揃えればいい。好きにしてかまわないよ」 福子は満面の笑みで頭を下げた。 それからというもの、福子はグイアに付きっきりだった。 絵本を読み聞かせ、着せ替え人形のように着飾らせた。ひとつひとつ言葉を教え、童謡を歌い、おはじきやお手玉で遊び、一緒に庭を散歩した。 福子の愛情に応えるようにグイアも彼女に充分懐いていた。 毎日朝食時には、福子はグイアがああしたこうしたと事細かに貴之に報告していた。貴之も嬉しそうな福子のようすに満足していた。  その夜は嵐だった。激しい雨と風が屋敷中の鎧戸を震わせた。いつものように福子はグイアを客間のベッドに寝かせた。 「アメ…イッパイ」 「そうね。でも、ここは大丈夫よ」 「ダイ…ジョブ?」 「そう、大丈夫よ。ゆっくりおやすみなさい」 福子はグイアを布団の上からとんとんと優しく叩きながら、子守歌を歌った。 貴之がベッドで本を読んでいると、福子がグイアの元から戻ってきた。 「寝たか?」 「はい。雨音が気になっていたようですけれど」 嵐は、ひどくなるばかりだった。雨は壁を打ち付け、風の唸る音がした。そして激しく雷が鳴り響いた。 福子はあまりの音に驚いて、貴之の胸に顔をうずめた。 「すごいな…」 雷がどこかに落ちたのだろうか、地響きがするほど大きかった。付いていた照明の小さな明かりが消えた。どうやら停電のようだ。 しばらくして、かちゃっと扉の開く音がした。 貴之が視線を扉に向けると、暗い人影がぼんやり見えた。 「誰だ?」 影は急いで扉を閉めると、ひたひたと足音を忍ばせて離れて行った。 貴之は福子から身体を離すと、裸のまま廊下へ出た。すると廊下の奥で、扉の閉まる音がした。 福子ははだけた寝巻きを整えると、貴之のガウンを持って扉まで来た。 「グイアだ」 「まぁ」 福子は不都合なところを見られたのではないかと、心配と恥ずかしさで思わず俯いた。 「…まいったな」 「も、申し訳ありません」 福子は、すまなそうに小さくなった。 「別に君のせいじゃない。今度からは、鍵を掛けておかないと」 「きっと、雷が怖かったんです」 その瞬間、また稲光が走り雷鳴が轟いた。福子は、ぎゅっと目を閉じて両手で耳を覆った。 今夜のような暴風雨と雷では、大人でも不安になる。 すっかりその気が失せてしまった貴之は、福子の持ってきたガウンに袖を通した。 「行って一緒に寝てやれば?」 「よろしゅうございますか?」 「いいよ」 福子は貴之に頭を下げると、グイアのところへ行った。 ひとり残された貴之は、暗い中でおもむろに煙草に火をつけ深く煙を吸い込んだ。 子供が産まれると、毎晩こんな状態なのだろうか。 「たまらんな…」  夜中のうちに嵐はすっかり通り過ぎていた。 朝には空は澄み渡り、雲ひとつなかった。 朝食のテーブルで、貴之はオムレツを切り分けながらグイアを見た。 「夜中におれたちの部屋へ来ただろう?」 グイアはスプーンを口に入れたまま、上目遣いに貴之を見た。 「何をしていたのか、見たか?」 福子は、困惑した表情で首を振った。 「貴之さま…」 貴之は手で福子を制すると、グイアと視線を合わせた。 「見たんだろう?」 グイアは目をしばしばさせただけで、何も答えなかった。貴之は肩をすくめると、鼻先で笑った。 「こいつ、全部分かってるな。分かっていて、知らん振りしている」 「グイアちゃんは、まだ子供です」 「そうでもないみたいだぞ。冬彦ははっきり言わなかったが、船では娼婦まがいのことをしていたようだし」 「…まさか」 「していたと言うよりは、させられていたと言う方が正しいか」 「本当ですか?」 貴之は頷いた。 「そんな…」 目に涙を浮かべてフォークを置いた福子を見て、グイアもスプーンを置いた。 「フッコ、ナイテル?」 福子は、グイアを抱きしめた。 「泣いてなんかいませんよ。わたしはグイアちゃんが大好きですからね」 福子は、まるでグイアの母親のようだった。すっかり感情移入してしまっている。確かに自分の娘が酷い目に遭わされていたら、やりきれないだろう。 福子のようすに、貴之は余計なことを言ってしまったかと少々反省した。福子を泣かせるつもりなど毛頭なかった。女を泣かせる男は最低だ。 このまま仕事に出てしまっては、後が気になる。貴之は福子の機嫌を取るには何がいいのか、首をひねった。 「今度の日曜に、歌舞伎でも観に行こうか」 福子は涙を拭いながら、顔を上げた。 「グイアちゃんを置いて行くのですか?」 「え…」 こいつも一緒でなければ駄目なのかと、貴之は眉間を寄せた。子供が生まれると、妻は夫よりも子供を優先するものなのだろうかと考え込んでしまった。 景一朗の妻・節子は、いつも子供を乳母に預けて遊びほうけている。節子の場合は常に優先順位の一番は自分であるらしく、子供だけではなく夫も蚊帳の外に置いているようだったが、少なくとも福子はそんな女ではない。もっと情の深い女だ。 今の福子を見ていると、夫よりも自分自身よりも子供に意識が向いているようで、それはそれで気に入らなかった。ここで逆らうなと妻に言うのは簡単なことだったが、そんなことをするのは貴之の本意ではない。貴之の信条は、あくまでも女の意に添うかたちで物事を進めてやることだ。 「…では、動物園ならいいか?」 福子は、ぱっと表情を明るくした。 「はい、嬉しいです。ありがとうございます」 福子はにこにこしながら、グイアに動物園行きを説明し始めた。 貴之はそのようすを見て、ぽりぽりと顎を掻いた。 (…そんなものか)  土曜の夜、福子とグイアは居間におやつや水筒を並べて明日の用意をしていた。 貴之は有閑夫人の誘いを断り、自分の屋敷に帰るより先に母屋へ出向いた。 動物園など、自分が行く場所でないことは重々承知しているし、行きたくもなかった。ただ話の成り行きで、福子に約束をしてしまっただけだ。そうかといって、約束を違えるのは福子を裏切るようで気が咎めた。 それというのも、幼い頃から父が家族との約束を守らないという気まずい経験が多くあったからだ。わざとなのか忘れてしまったのか、とにかく約束が果たされた事はなかった。そんな父を、幼いながらに貴之は傲慢だと感じていた。 自分は父とは違う。故に約束したことは果たしたかった。 しかし自分から言い出したとはいえ、動物園はどうしても気が進まなかった。 「冬彦、おれだ。入るぞ」 突然の貴之の訪問に、冬彦はグイアに何かあったのかと心配げに兄を迎え入れた。 「グイアに何かありましたか?」 「ん…、まぁ、あると言えばあるしないと言えばないし」 「は?」 「明日、動物園に連れて行くことになった」 貴之と動物園…。あまりにも似付かわしくない組み合わせに、冬彦は思わず笑いを漏らした。 「兄さまが、動物園ですか」 貴之は憮然としたまま、煙草に火をつけた。 「どうしてまた?」 冬彦は自分が飲んでいたティーカップのソーサーを、灰皿代わりに差し出した。 「まぁ、いろいろあってな」 「グイアが喜びます」 「そこで頼みだが」 「僕に連れて行けとおっしゃるのでしょう?」 貴之が頷くと、冬彦は呆れたように笑った。 「そうだと思いました。兄さまが動物園になど行くはずがありませんね」 貴之は動物園行きを冬彦に押し付け、ほっとして屋敷へ戻った。 「お帰りなさいませ」 女中と共に、福子が玄関で頭を下げた。 「お風呂、沸いております」 「ん…」 風呂で福子に背中を流してもらいながら、貴之は自分が動物園に同行しないことを一応告げておこうかと思った。行かないのではなく、行けなくなったと。 すると、福子の方が先に口を開いた。 「あの…貴之さま」 「…ん?」 「動物園、ありがとうございます。貴之さまがご一緒してくださるなんて、夢のようです。とても嬉しくて…」 「……」 「ありがとうございます」 貴之は目をしばつかせた。 「…そう?」 見えていなくても、後ろで嬉しそうにしている福子が手に取るように分かる。 貴之は、今更行かないと言えなくなってしまった。 翌朝、車に乗り込むと冬彦を迎えに母屋へ向かった。 外に出てきた冬彦は、貴之がいるのを見て不思議そうな顔をした。 「あれ、兄さま?」 貴之はすっと冬彦に近づくと、耳打ちした。 「冬彦、余計なことは言うなよ。少々事情が変わった」 冬彦は、にっこり笑うと頷いて車に乗り込んだ。  一日中動物園巡りに付き合った貴之は、夕方冬彦にふたりを任せて、曖昧屋へ行った。 昨夜逢えなかった有閑夫人と時間を過ごすためだった、 「あなたが家族のために時間を割くなど、柄ではないでしょう?」 そう言われて、そうかもしれないと改めて福子に気遣いをしている自分が面白いと思った。 そう、女に気を遣ったのではなく、福子を気遣ったのだ。 貴之の中では、女に優先順位はない。どの女も皆並列だ。女という括りの中では、福子も芸者も他の女も変わりはない。だが妻という立場にいる女はひとりだけだ。そういう意味では、妻は並列の中に含まれないかもしれない。 どんな女よりも長い時間を共に過ごす女。自分に依存する女。自分がすべてを面倒見ている女。それが妻だ。 ということは特別に扱うべき存在なのだろうかと、貴之は他所の女の乳房をまさぐりながら福子のことを考えている自分に妙な満足感を覚えていた。  冬彦は、帝大の石原に呼び出されていた。グイアを引き取っても良いという人間が現れたというのだ。 「アメリカ人の宣教師よ。事情を話したら、養女にしましょうと言ってくれたわ」 「宣教師って、キリスト教のですか?」 「えぇ。清澄くんは、キリスト教を知っている?」 「いえ、詳しくは…」 「キリスト教は、愛を施す宗教よ。最も大いなるものは愛。愛とは、すなわち神。愛である神が【隣人を愛せよ】と言われた。だから愛を持ってその子の面倒を見ますって、おっしゃっていたわ」 米国には、たくさんの教会があった。日本に寺や神社があちこちにあるように、キリスト教の教会はどこにでもあった。日曜日には、驚くほど多くの信者が礼拝に教会を訪れる。 貧しい人々に施しをしている様を何度も見た。古着を持ち寄り、必要な人に分け与えるようなこともしていた。炊き出しをする教会もあった。 日本でそんなことをしている神社や寺は見たことがない。 愛を持って面倒見てくれるなら預けてもいいのではないか。父親や母親のいる家庭で平穏に暮らせるなら、それに越したことはないはずだ。 冬彦の心に浮かんでくるのは、自分の無力さと無責任さを責める思いばかりだった。自分は安易にグイアを振り回しているだけなのだろうか。冬彦の願いは、ただグイアに幸せになってもらうことだけだった。 「行ってしまうのですか?」 福子は悲し気な表情で冬彦を見つめた。 「お義姉さまには、本当にお世話になりました。ありがとうございます」 「わたしは何も…。わたしのほうこそ、グイアちゃんと過ごせて、とても…」 福子の目には涙が溢れていた。 「せっかく仲良くなれたのに」 「福子義姉さま、感謝しています。明日、グイアを連れて行きます」 福子はグイアの洋服や絵本を行李に詰めた。お気に入りだったおはじきも、ちりめんの袋に入れて一緒に納めた。そのようすを見ていた貴之が声をかけた。 「用意はできた?」 福子は驚いて振り返った。 「あ、貴之さま。はい、できました」 「寂しい?」 福子はこくりと頷いた。 「でも、きっとグイアちゃんにとって幸せなことだと思います。お父さまとお母さまが出来るのですから」 福子は俯くと、袖で目頭を押さえた。 翌朝、グイアは冬彦に連れられて宣教師のもとへと向かった。  冬彦は、グイアの存在を忘れようとするかのように紡績会社の買収に奔走した。絹糸は日本の輸出品目の筆頭だ。これを手中に収めれば、莫大な収益が見込まれる。長野や群馬にあった製糸工場を次々とその傘下に収めていった。 けれどグイアに対する不甲斐なさは、冬彦の心に大きな傷を付けた。あのまま客船においておくよりはずっと良かったのだと、無理矢理自分を納得させた。所詮、自分には他人の一生など引き受けることは出来ないのだ。  グイアが行ってしまって、落ち込んでいたのは冬彦だけではなかった。福子もまた、ずいぶんと気落ちしていた。 以前ほど笑顔を見せていないことを心配して、貴之は福子を連れ出した。着いた所は谷中にある小さな一軒家だった。 玄関の引き戸を開けると、貴之は声をかけた。 「琴菊、いるか?」 出てきた女は、貴之を見て嬉しそうに笑った。 「まぁ、お珍しい。貴之さんが訪ねて下さるなんて」 福子は琴菊という名にどきどきしていた。芸妓に付ける名前。この美しい女は、貴之の妾なのだろうか。 まだ若いにも関わらず落ち着いた物腰の琴菊から、福子は目を離せないでいた。 「お連れの方は?」 「おれの奥さん」 「そうですか。山田菊乃と申します」 「ふ、福子です」 福子は、おずおずと頭を下げた。 「ここではなんですから、どうぞおあがり下さい」 奥の畳の間へふたりは通された。こじんまりとした落ち着いた部屋だった。 神棚に長火鉢。神棚の脇には、酉の市の大きな熊手が飾られていた。 不安そうな表情の福子を見て、琴菊は貴之に笑顔を向けた。 「もしかすると、何も言わずにここへ奥さまを連れてらしたの?」 「そっ」 「相変わらずお人が悪い」 琴菊は、福子にも茶を差し出した。 「ご心配なさらないで下さいね。わたしは、貴之さんとは何の関係もありませんから」 「そうなんですか?」 身を乗り出した福子を見て、琴菊は声を出して笑った。 「ほら、やっぱり心配なさっていたじゃありませんか。すぐに、こういうやんちゃをなさるんだから」 貴之はふっと笑うと、そっぽを向いた。 「深川で芸者をしていた時に、よくお座敷へ呼んでいただいたんですよ。そのあと、け…」 貴之は、琴菊の口の前に人さし指を立てた。 「そのことは、しばらく黙っていて欲しいな。もちろん、あの人にも」 琴菊は、笑って頷いた。 「で、今日はどうなさったんです?」 「琴菊は、三味線を教えているのだっけ?」 「えぇ」 「毎日ではないのだろう?時々、福子の話し相手になってやってよ」 「わたしでよろしいんですか?」 「そっ、琴菊がいい」 貴之は聡明で優しい琴菊なら、福子の話し相手になれると思いここへ連れてきた。 「琴菊はね、踊りの名手なんだよ。彼女の舞は、本当に美しい。芸者をやめてしまったのが、勿体ないくらいだ」 琴菊は、からからと笑った。 「本当にお上手ね。貴之さんは、いつもこうやって芸妓たちをうまく持ち上げて下さるんですよ」 (この人は、わたしの知らない貴之さまを知っている) 福子は、琴菊と話がしてみたかった。  月に一、二度、福子は琴菊のもとを訪れた。 琴菊から聞く貴之の様子は、明るく楽しいものばかりで重い話は何もなかった。 やさしく気遣いのあるさまは、福子の知っている貴之と何ら変わりはなかった。  正月元旦。いつものように清澄の母屋には新年の挨拶のために皆が集まっていた。 今年は新年早々、節子の父・真壁主催の宴が催されることになっていた。そこには多くの政治家や政商たちが招かれている。 「景一朗は節子を連れてくるように。節子の父上の宴だからな。せいぜい着飾って行くがいい」 節子は誇らし気に頷いた。 「貴之のところは、おまえだけでいい」 「福子は?」 「おまえひとりだ。この顔を世間にさらす必要はない」 剛健の言葉に貴之はカチンときた。 「さらすとはどういうことですか?」 「わからんのか。福子の顔は見苦しいと言っている」 福子は思わず顔を伏せた。 「親父さまは、福子を侮辱されるのか?」 「侮辱ではない。見た通りのことを言ったまでだ」 貴之は眉間を寄せて険しい表情をした。 「その言い草は、いくら親父さまでも許せませんね。彼女に謝って下さい」 福子は貴之の服の裾のつかんだ。 「貴之さま、わたしは気にしておりませんから」 「君がよくても、おれがよくない!」 貴之は怒りを抑えることが出来なかった。 「福子に謝って下さい!彼女は親父さまが選んだ、おれの妻ではないのですか?」 「おまえの妻には違いないが、この顔は人様を不快にさせる。だから、わざわざ出て行くことはないとないと言ったのだ」 貴之は、力任せに卓を叩いた。 「どういう意味です!」 「貴之、いい加減にしろ」 その場を収めようと景一朗が間に入ったが、貴之は兄を押しのけた。 「福子が一緒でないのなら、おれは出ません」 貴之は剛健に強い視線を向けた。 「いい年をして我が儘を言うな。政府高官が出席するのだぞ。造船所を取り仕切るおまえが出なければ話しにならん」 こぶしを握りしめた貴之は、乱した息を整えようと浅く深呼吸した。 「世間体を取るか、事業を取るか、ご自分で判断なさって下さい。福子、行くぞ」 貴之はさっさと部屋を出た。福子は申し訳なさそうに深くお辞儀をすると、貴之の後を追った。 母屋から自分の屋敷の戻ると、貴之はソファにごろりと横になった。福子のことで、父に楯突くほど怒りを覚えたことに自分でも驚いていた。本当に腹が立った。福子を辛い目に遭わせる者は、誰も許さない。たとえそれが父であってもだ。 福子は今にも泣き出しそうな顔で、貴之のそばに膝を付いた。 「お許し下さい。わたしのせいでこんなことに」 貴之は笑みを浮かべると、福子の痣のある右の頬をなでた。 「酷いのは親父さまで、福子ではない。気にするな」  自分の屋敷に戻った節子は、つんとすまして言った。 「貴之さんは、結婚してからずいぶん変わったわね」 結婚前は自分に対して歯の浮くような世辞を言ってくれたはずの貴之が、今は福子のことしか考えていない様子に、節子は少なからず苛立っていた。 「福子さんも貴之さんに愛されていて、羨ましいこと」 そう言いながら節子は、ちらりと横目で景一朗を見た。 「何が言いたい?」 「貴之さんはあなたと違って優しいって言ったのよ」 「そうだな、福子さんもお前と違って優しいからな」 「何ですって!あなたはいつもそうよ!人を馬鹿にすることしか言わない!あなたなんて、最低の男よ!」 「最低の夫に最低の妻。組み合わせとしてはこんなものだ」 節子は景一朗を睨みつけると、激しく扉を開けて部屋を出て行った。 こんな夫婦関係を決して望んではいなかった。いったいどこで、何が違って自分と節子の間は、こんなふうになってしまったのだろうか。景一朗は疲れたようすで目頭を押さえると、深いため息をついた。 翌日の夜、景一朗が福子を訪ねてきた。 「まぁ、お義兄さま。どうぞお上がり下さい。貴之さまは出かけられて、まだお帰りではないのですけれど」 「いや、あなたに用があって来た」 それを聞いて、福子は玄関に正座すると床に頭が着くほど頭を下げた。 「昨夜は申し訳ございませんでした。わたしのせいで、皆さまに嫌な思いをさせてしまって」 景一朗は、上がりがまちに腰を下ろした。 「福子さん、顔を上げて。謝らなければならないのは、こちらの方だ」 顔を上げた福子は、景一朗の言葉の意味がわからず不思議そうな顔をした。 「お父さまを恨んだりしないで欲しい」 福子は首を振った。 「わたしのような者を、嫁として清澄家に迎えて下さったお義父さまを恨むなど。感謝こそすれ、そのような…」 景一朗は笑みを作った。 「福子さんは、優しいね。お父さまは、人一倍世間体を気になさる方だ。あなたの気持ちより、自分の自尊心を優先させた。あの人は、昔からそういう人だ。すまなかったね」 「いいえ、そんな。わたしのような者にまでお気遣い下さって、本当にありがとうございます。お義兄さま、どうぞ奥へ」 「いや、もう帰るから」 「そうおっしゃらずに。玄関でお帰ししたことが貴之さまにしれたら、わたしが叱られます」 景一朗は立ち上がった。 「黙っていれば、わからないよ」 その言葉に、福子は微笑んだ。 「貴之はあなたと結婚してずいぶん変わった。結婚するまでは、本当に危なっかしい男だったから。あなたのためにお父さまに逆うなんて、余程あなたのことを愛しているのだね」 福子は頭を下げた。少なくとも景一朗は自分たちを祝福してくれているのだと知り、深く感謝した。 結局、剛健は最後まで福子が宴へ出席することに許可を出さなかった。 福子は会社のためだからと貴之を説得し、何とか宴へ出ることに同意させた。  その日、福子は琴菊の家にいた。 いつものように世間話に花を咲かせ、楽しいひとときを過ごしていた。 妹のように愛くるしく甘え上手な琴菊が、本当に可愛らしかった。それでいて世間知らずの福子を嗜めるようなことも言う。 福子にとって琴菊は、姉のような妹のような不思議なそれでいて安心できる存在だった。 ここへ来ることがなければ、屋敷の外へひとりで出ることもなかっただろう。 福子は、貴之に心底感謝していた。 「菊乃、今帰った」 玄関で男の声がした。 「あら、お帰りだわ」 琴菊は今までとは違う笑顔を見せた。どうやら琴菊の旦那が来たようだった。 「では、わたしはこれで」 福子が帰り支度を始めると、琴菊はそれを止めた。 「いいんですよ。ちょっと待っていて下さいね」 福子にそう言うと、琴菊は急いで玄関へ出迎えた。 「お帰りなさいませ。昼間にお帰りとは、嬉しいですわ」 「少し時間が空いた。客が来ているのか?」 「えぇ」 福子はちゃぶ台の前で、その聞き覚えのある声に驚いていた。 琴菊と一緒に部屋へ入ってきたのは、景一朗だった。 「これは、驚いたな」 福子もあまりに突然のことに、言葉が出なかった。 「何故、福子さんがここに?」 琴菊は、これまでの経緯を景一朗に話した。貴之のいたずら心でふたりには内緒にしていたと、琴菊は可愛らしく微笑んだ。 景一朗は着替えをし、すっかり寛いでいるようすだ。 「福子さんとは、とても話が合うんですよ」 「ほぅ」 「ですから、来て下さるのを楽しみにしているんです」 福子は動悸がしていた。自分はここに居てはいけない人間だ。福子は頭を下げると、帰ることを告げた。 「また、いつでも遊びにいらっしゃい」 景一朗の言葉に、福子は曖昧に返事をすると大急ぎで清澄の屋敷へ戻った。 琴菊といるときの景一朗は、見たこともないほど穏やかな顔をしていた。当たり前のように、いつもいる自分の居場所であるように。 貴之も…、貴之も他所の女と居る時にあんな顔をするのだろうか。それを考えると胸が締めつけられるような気がした。  福子は屋敷に戻ってきても、昼間のふたりのようすが頭から離れなかった。今夜は、どうしても貴之に帰ってきて欲しかった。ただ、そばにいて欲しかった。 けれど、貴之は零時をすぎても戻ってこない。零時を過ぎるということは、朝まで帰ってこないということだ。 福子は、まんじりともせず夜を明かした。 翌朝、五時半を過ぎてようやく貴之は屋敷に戻ってきた。 朝食の時、貴之はいつものように福子に昨日何があったかを聞いた。 「菊乃さんのところへ伺いました」 「うん」 福子は俯くと、黙って箸を置いた。 「どうした?」 「……景一朗お義兄さまにお会いしました」 「そうか、…それで?」 福子は唇をきゅっと結ぶと、押し殺したように言った。 「もう菊乃さんのお宅には行きません」 「何故?」 福子は首を振った。 「兄さんに何か言われたのか?」 「お義兄さまは…、いつでも遊びにいらっしゃいと」 今にも泣きだしそうな福子のようすに、貴之も箸を置いた。 「では問題はないだろう?どうしたんだ?」 「……」 福子は琴菊が好きだった。優しくて、気配りが出来て、話し上手で。彼女といる時間は、とても楽しいものだった。 けれど景一朗の囲いものだと分かった以上、もう訪ねることは出来ない。自分は節子と同じ立場の人間だ。自分が節子なら、やりきれない。 はらはらと涙をこぼした福子を見て、貴之は眉間を寄せた。 グイアが行ってしまって、福子があまりに寂しそうにしているのを見るに忍びなかった。友人と呼べるような人間もなく、いつも屋敷にこもっている福子に話し相手がいればいいと思った。 琴菊なら、福子の良い友人になれるのではないかと。 何故福子が泣いているのか、貴之には理解できなかった。 「おれは君を傷つけたのか?琴菊となら話が合いそうだと思ったから、会わせただけだ。他意はない」 「はい…、よくわかっています」 「では、何故泣く?」 福子は、俯いたまま首を振った。 「君はどうしたいのだ?おれにどうして欲しい?言ってくれないと分からない」 貴之は充分に優しかった。朝帰り以外に、不満は何ひとつない。 だからこそ、正直に自分の気持ちを話すことは、今の状態を崩してしまいそうで怖かった。貴之に見向きもされなくなったら、それこそ生きてはいけない。 福子は貴之に、他所の女のところに行かないで欲しいとはどうしても言えなかった。  それからというもの、福子は屋敷から外へ出ることをほとんどしなくなっていた。 庭を散歩することさえも、気が沈んでその気になれないでいた。 貴之は琴菊が原因を知っているのではないかと尋ねに行ったが、彼女も分からないと首を振った。 貴之は何か出来ないだろうかと思いを巡らしていたところ、あることに気がついた。 「福子」 「はい」 「そういえば、今月は月のものが遅れてない?」 福子は妊娠していた。結婚して間もなく三年が過ぎようとしていた。年齢が年齢だけに、福子自身は子供のことをどこかで諦めていた。いつか貴之が妾の子を連れてくるだろう。その時は、自分の子と思い精一杯育てようと心に決めていた。だが、思わぬところで自分の子供を授かった。 福子は嬉しかった。身体中から湧き出てくるような喜び。母になるということは、こんなにも幸せなことなのかと、福子は感謝せずにはいられなかった。  冴子は降りだしてきた雨にため息を付いた。 銀座で開かれている恩師の個展を見に来たのだが、帰る時間を運転手に告げていたにも関わらず、時間を過ぎても迎えはなかった。 冴子はしびれを切らして会場を出てきたが、雨に降られ近くの軒に身を寄せた。 (平井は何をしているの?) 苛立ちを抑えられず、タクシーを呼ぶために軒を出ようとした時、冴子に傘を差し出す者がいた。 「この傘を持って行っていいよ」 「でも、見ず知らずの方に」 「見ず知らずじゃないよ。あたし、清水屋で働いてたから、あんたのこと何度か見かけたことあるんだ」 「清水屋?」 それは女学校の友人たちと何度か出向いたことのある甘味処で働いている娘・タエだった。 「あんた、昇華女学院のお嬢さまだろ。いつもいちばんいい洋服着て、いちばん綺麗で、話の中心にいて。目立ってたから、覚えてる」 「そう」 「でも、店はこの前やめたけど」 「では、今は何を?」 タエは雨を避けながら、通りの向こうを指さした。 「あそこのカフェで女給をやってる」 驚いたように見つめる冴子に、タエは笑った。 「カフェの方が、ずっと給金がいいんだよ」 「……」 「まっ、あんたみたいなお嬢さまにはわかんないんだろけどね。綺麗な洋服が濡れるよ」 タエは冴子に自分の持っていた傘を押し付けるように渡すと、そのまま雨の中を走って行った。  屋敷に帰った冴子は、運転手の平井を呼びつけた。 「平井、おまえがいい加減だから、わたくしは雨の中を歩かなければならなかったのよ」 「はい、お嬢さま。申し訳ございません」 小さくなった今井の隣で、女中頭の松田があの古ぼけた傘を持って立っていた、 「お嬢さま、この傘はいかがいたしましょう?」 「捨てておしまい」 吐き捨てるようにそう言うと、冴子は平井ににもう一度強い視線を向けた。 「また同じようなことがあったら、覚悟しなさい」 平井はますます身を縮ませ、部屋へ戻って行く冴子に頭を下げた。  数日後、冴子は着飾って階段を降りてきた。 「サト、車を出すように平井に言ってちょうだい」 「はい、どちらへお出掛けですか?」 冴子はサトをきっと睨んだ。 「早くなさい」 サトは急いで運転手の平井に知らせた。 冴子が車に乗り込むと、サトも助手席に乗り込んだ。 「おまえは付いてこなくていいわ」 「いえ、お伴するようにと」 「誰がそんなことを言ったの?」 「か、葛城さんです」 「降りなさい。今日はひとりで行くわ」 サトは首を振った。 「ご一緒致します。おひとりではサトが葛城さんに叱られます」 冴子は不満げに息をついた。 「平井、出してちょうだい。銀座へ行くわ」 銀座に着くと、冴子はカフェへ向かった。サトは冴子を待つために、カフェの入り口の脇へ寄った。そこは雨の日に傘をくれたタエが働いている場所だった。 ちりりんと扉の鈴を鳴らし、冴子は中へ入った。 その瞬間、店中の人間が冴子に視線を送った。この時代、洋装の婦人はまだ珍しかった。華やかでいてその上清楚な冴子の姿に、皆が目を奪われた。 カフェは、コーヒーの香りと煙草の匂いがした。大勢の人間の喧騒が渦巻いているように見えた。 「おひとりですか?」 ツンとすましている冴子に女給が声をかけた。 「人を捜しているの。ここで働いていると言っていたわ」 冴子の高飛車な態度に接待に出た女給が顔をしかめていると、タエが嬉しそうに走り寄ってきた。 「あんた、この前の。どうしたの?」 冴子は傘を差し出した。 「これを返そうと思って」 鮮やかな花模様の傘を見て、タエは目を丸くした。 「これ、あたしの傘じゃないよ」 「この前の傘は古いものだったから、代わりにこれを」 「いいのかい?」 「えぇ」 タエは満面の笑みで傘を広げた。今までに見たことのない明るく華やかで、それでいて上品な傘だった。 「すごい!西洋の傘だね」 「仏蘭西のものよ」 「へぇ~」 たかが傘ごときに声を出して喜んでいるタエに、冴子は可笑しさを感じていた。タエに新しい傘を贈ったのは、彼女に古い傘で施しをされたような気分になっていたからだ。 自分は施す側で、施しを受ける側の人間ではない。 そこへ男が来た。 「タエ、どこの姫さまと話してるんだ?」 「鉄ちゃん、見て。これ貰った」 「おっ、すげえな」 「では、ごきげんよう」 冴子がカフェを出ようとしたのをタエが引き止めた。 「コーヒーご馳走するよ。こんな良い傘貰ったんだから、お礼しないとね」 「それはわたくしからのお礼なのよ」 「いいじゃない。飲んで行ってよ」 「そうだよ。オレたちの仲間がいるから、紹介するよ。みんな小説家の卵なんだ」 「小説家?」 冴子は小説家という言葉に、少し興味を持った。 「オレ、宇野。あんたは?」 「わたくしは…」 冴子は口ごもった。こんなところで清澄の名を出して、何かあっては大変だ。 「昇華女学院のお嬢さまだよね」 妙は嬉しそうにそう言うと、仲間たちがたむろっている席へ案内した。 カフェになど入ったのは初めてだった。 席には男がふたりと女がひとり。木村隆盛と原田守男。女の名は岩井ミナエ。 ミナエははっきりとした顔立ちの女で、短く切りそろえた髪と濃い眉、意志の強そうな目が印象的だった。 「あなた、平塚雷鳥を読んだことがある?」 「いいえ」 「読んでみて。彼女はすごいわよ。本当の意味で自立した女だから」 ミナエは冴子に小冊子を渡した。【青鞜】という雑誌。 女学校でも噂にはなっていた。けれど学校側は平塚雷鳥や伊藤野枝を害虫のように扱い、排斥すべきものとして処理していた。 女学校でも自立する女を目指し、卒業後は職業婦人として世に出て行く者は多い。けれど、どこかにまだ良妻賢母を良しとする風潮は否めない。 冴子自身は、すでに北岡という婚約者がいて女学校を卒業すればそのまま北岡家に嫁ぐことになっている。だからそのことに関しては、幼い頃からそういうものだと思っていた。 自由恋愛など、自分には関係のないもの。けれど女にも自己主張が必要なのだと断言するミナエの言葉は、妙に力強く説得力があるように聞こえた。 冴子にとってミナエたちは、今まで周りにいた人間の誰とも違っていた。 下世話で大胆で思いの限りを言葉にする彼らは、冴子にとって物珍しい存在だった。  ある日、日本橋の呉服問屋に冴子はいた。 いつもなら贔屓にしている呉服屋があれやこれやと品物を持って屋敷に来るのだが、ふと思い立って帯留めを見に来た。けれど、冴子の趣味に合う物はなかった。 「せっかくおいで下さいましたのに、申し訳ございません。新しいものが入りましたら、すぐにお屋敷にお持ち致します」 「そうしてちょうだい」 冴子がすまして店を出ると、突然声を掛けられた。 「あら、あたな」 先日、カフェであった岩井ミナエだった。 「ごきげんよう」 「偶然ね。…そういえば、名前を聞いてなかったわ」 「あ…」 名乗っていいものかどうか迷いはしたが、顔見知りに名前を教えないというのは不信がられるに違いないと冴子は思った。 「清澄冴子です」 「これから芝居を観に行くのだけど、清澄さんもどう?」 「芝居?」 「物書き仲間が、脚本を書いてる劇団なの。ぜんぜん売れてないのだけどね」 ミナエは小馬鹿にしたように笑った。 今まで歌舞伎やオペラには何度となく観劇に行ったけれど、大衆演劇など冴子は観たことがなかった。同行してもいいかもしれない。こんな事でもなければ一生観ることもないだろう。 「そうね、行ってみようかしら」 そばに控えていたサトは、うかがうように声を掛けた。 「お嬢さま、もうお屋敷に戻りませんと」 「おまえはいいから、平井と先にお帰り」 冴子は強引にサトを帰すとミナエに付いて行った。 「ミナエ、やっぱり来たのか。…その人は?」 「紹介するわ、この男は風来坊の佐伯拓弥。こちらのお嬢さまは、清澄冴子さん」 佐伯拓弥は身体を杖に預け、冴子を舐めるように見回した。佐伯は生まれつき右足が悪かった。 「清澄冴子?あの清澄コンツェルンの?」 清澄コンツェルンと聞いて、ミナエは佐伯と共に冴子の顔を見た。日本を代表する大財閥。名門昇華女学院に通い、いつも侍女が付き添い、車での送り迎え。考えればすぐに分かることだった。 「あ~、そうなんだ。なぁんだ、言ってくれれば良かったのに」 「別に…好んで黙っていたわけではありませんわ。特に言う必要のないことだと思っただけです。父の肩書きとわたくしは、関係ありませんもの」 ミナエはニッと笑った。 「そうね。あんたが何者でも関係ない。あたしたちの思想に共感するなら仲間よ。ねっ、拓弥」 「あぁ」 冴子は自分とは全く違う世界にいるミナエたちにほんの少し興味があった。内容はとても現実的だとは思えなかったが、彼らの話す夢や希望は冴子が思いも寄らないことばかりだった。特にミナエの専心する女性解放運動には、そそられるものがあった。 強い女、自立する女。 彼らに誘われるままに芝居小屋に通い、カフェでの雑談にも参加した。彼らの思想は,少なからず冴子の思いにも影響を及ぼし始めていた。  未だに二週に一度、判で押したように征長は冴子と逢っていた。その日曜日、征長は冴子に逢う前に剛健に呼ばれた。 「やぁ、よく来てくれたね」 「どうも」 「冴子とはうまくいっているかね」 「えぇ」 「今日はどこかへ出掛けるのかな?」 「冴子さんと考えようかと思っています」 「そうか…。なぁ、征長君」 「はい」 「冴子の部屋へ入ることを許可しよう」 「部屋へ…ですか?」 「冴子もまもなく十八になる。君も血気盛んな年齢だし、冴子に対するまぁ何というか男としての希望もあるだろうしな」 「……」 冴子は部屋で出来上がったばかりのドレスを試着していた。ドレスを作る度に、英国の職人が何度も仮縫いに訪れていた。真紅のドレスは、冴子の美しさをこれ以上ないほど引き立てている。 「Were you able to meet the satisfaction?It is very beautiful. The dress is suited very well for you」 見え透いた世辞だとは分かっていても、次の東京倶楽部の夜会ではこのドレスがまた話題になるだろう。鏡の前で、冴子は満足だった。 部屋の扉を叩く音がした。冴子は征長が来たことをサトが知らせに来たのだと思った。 「お入り」 「ごきげんはいかがですか?」 扉を開けたのは征長だった。鏡に写った征長を見て、冴子は驚いて振り返った。 「征長さま…、何故ここへ?」 「新しいドレスですか?よくお似合いだ」 征長は笑みを浮かべるとソファに座った。 「征長さま、わたくしまだ仮縫いの最中ですの。すぐに着替えをいたしますわ」 「いいですよ、どうぞ」 表情も変えずそう言った征長を、冴子はいぶかしげに見た。 「あの…、着替えをすると申し上げたのですが」 征長は頷いた。 「下でお待ち下さい」 征長はゆっくり立ち上がると、職人を部屋から追い出した。そして、後ろ手でゆっくり扉を閉め、訝しげな表情をしている冴子のところに行った。 「先程あなたの父上から、この部屋へ自由に入る許可を頂きました」 「え…」 征長は冴子の背中に両腕を回した。 「それが何を意味するのかくらい、わかるはずだ」 そのまま抱きしめ接吻をしようとした征長を、冴子は突き放した。 「何をなさるの!」 征長は呆れたように笑った。 「その態度は心外だな。僕はあなたの婚約者ですよ」 冴子は上目遣いに征長を睨みつけ、彼を置いて部屋を出ると真っ直ぐ父のところへ行った。 怒った表情の冴子を見て、剛健は何事かと眼鏡を外した。 「どうした?征長と喧嘩でもしたか?」 「お父さま、征長さまにわたくしの部屋への出入りを許可なさったとは、どういうことですの?」 冴子は怒りを隠すように息を飲み込んだ。剛健はそのようすを見て、笑いを漏らした。 「冴子、もうおまえも子供ではない。長すぎる春は、いろいろと問題を引き起こすものだ。征長の望みも叶えてやらんとな。何年、我慢させていると思っている」 「それは、結婚前に契りを結べとおっしゃっているのですか?」 「ずいぶんはっきりとものを言うな。まぁ、そういうことだ」 冴子は信じられないと言う表情で剛健を見た。 「娘に対する父親のお言葉とは思えませんわ」 「おまえと征長の結婚は決まっている。あの男が他の女を抱いてもよければ、好きにすればいいがな」 冴子は顔をこわばらせ、ばたんと音を立てて部屋の扉を閉めた。  征長は冴子の部屋を見て回っていた。 庶民の家庭では絶対にあり得ない贅沢品がさりげなく置かれている。もちろん、征長の家にもそんなものは溢れるほどあったが、美術品や調度品に対する微妙な感覚は清澄の方が上かもしれないと征長は苦笑した。 逢う度に美しくなっていく冴子が自分の婚約者であることは、征長にとって自慢だった。冴子を連れて歩けば、誰もが振り返る。知性も教養も品も備わっている。 征長は本気で冴子が好きだった。だからといって、冴子の機嫌を取るようなことはなかった。冴子に気に入られるために、自分を低くすることなど考えの中には微塵もない。黙っていても、いずれ冴子は自分のものになる。接吻を拒まれたことも、あの潔癖さはむしろ喜ぶべきものだと感じていた。あの気位の高さは小気味いい。 確かに剛健の言うように、冴子を抱きたいという気持ちがないわけではなかったが、欲求の捌け口になる女は片手に余るくらいはいる。あの冴子が自分の腕の中でどんな顔をするのか、その楽しみを初夜まで取っておくのも悪くないと思っていた。 ふと窓の外に目をやると、冴子が出て行くのが見えた。 (今日は振られたようだな…)  冴子には、大きな疑問が湧き出ていた。 親同士が決めた結婚を、何の疑いもなく受け入れてもいいのだろうかと。確かに父や母の時代には、それが当たり前だったのかもしれない。だが、自由恋愛が叫ばれるこの時代には、そぐわないことのように思えた。 男はいい。結婚しても他の女と遊ぶことは、暗黙の了解だ。 良いも悪いもなく、誰も疑問に思わない。男は恋愛に関して自由なのだから。では、女は? 義姉の節子や福子は、どうなのだろう?ふたりとも、親同士が決めた事業上での政略結婚だ。この男を愛せと言われて、愛せるのだろうか? 冴子は貴之の屋敷の呼び鈴を押していた。 胸の中がむしゃくしゃして、今日は征長の顔を見たくなかった。 訪ねたのが、何故景一朗の家ではなく貴之のところだったかといえば、節子よりも福子の方が話がしやすかった。節子はいつもお高くとまっていて、冴子に妙な競争心を抱いていた。それが会う度に見え隠れしているのが、冴子には気に入らなかった。 福子に対しても良い感情を持っているとは言えなかったが、景一朗夫婦よりは貴之夫婦の方が仲が良さそうに見えた。  突然やって来た冴子を、福子は笑顔で迎えた。 「まぁ、なんて素敵なお召し物。冴子さんは本当に洋装がお似合いですね」 ドレスを試着したまま部屋を飛び出して来た冴子は、その言葉に苦笑した。 「ほぅ、どうした?そんな格好で」 日曜日ということで、貴之も屋敷いた。 「お気になさらないで」 「カステラがあるんですよ。冴子さんはお好きかしら。今、お持ちしますね」 大きくなり始めたお腹を抱えて台所へ行こうとした福子を冴子が制した。 「お義姉さま、そんなことは侍女にさせればいいことですわ。誰か!」 冴子の声に、女中があわてて部屋へ入ってきた。 冴子は福子のこういうところが嫌いだった。主人が使用人をしっかり使えないのは、恥だと思っていた。けれど、貴之がそんな福子を良しとしていることも見ていて分かる。むしろ、そういうところが好きなのだと。 ただ、貴之にとって福子は大勢いる女の中のひとりかもしれない。妻という名の女。 「煙草を吸ってくる」 そう言って貴之は居間を出た。 「お兄さまは、ここでお吸いになりませんの?」 「外国の本に、妊婦に煙草の煙は良くないと書いてあったとおっしゃって。わたしは大丈夫ですと申し上げたのですが」 「福子お義姉さまは、お幸せ?」 「えぇ、とても」 福子は恥ずかしそうに、嬉しそうに笑った。 痣のある醜い身でありながら、兄が優しくしてるのだから当然かと冴子は思った。 「貴之お兄さまは、他所にお妾はおりませんの?」 福子は戸惑った表情を見せた。 「…何故そんなことを?」 「世の殿方は、妻だけでは飽き足らずというのが通説のようなので。お兄さまはどうなのかと」 「…いらっしゃると思います。週に何度かは、お帰りが朝になりますから」 「お義姉さまは、平気ですの?」 「平気ではありませんよ。貴之さまのことを好いていなければ、嫉妬もしなくて済むと思いますけど、そうではありませんから」 「嫌だとお兄さまにおっしゃいました?」 福子は首を振った。 「貴之さまは、わたしのようなものに充分優しくして下さっています。子供を与えて下さった上に、煙草を外でというような気遣いまで。わたしにはそれで充分なのだと、いつも自分に言い聞かせています。それに…」 福子は真っ直ぐに冴子を見た。 「それに何があっても最後に貴之さまが帰っていらっしゃる場所は、ここしかないと信じていますから」 これは紛れもなく愛の告白だと冴子は思った。福子は兄を愛している。 人を愛するという感情は、どんなものだろう。心躍る想いと、切ない想いがない交ぜなのだろうか。相手の男の言動に一喜一憂するのだろうか。そんな男のいる福子は、幸せだ。 冴子は初めて他人が羨ましいと感じた。  屋敷の外へ出ると、貴之がポーチに置かれたベンチで煙草をくわえて寝そべっていた。 「おや、もう帰るの?」 「えぇ」 「もう少し福子の相手をしてやってよ。いつもひとりで屋敷にこもっているから」 「お兄さま」 「ん?」 「お兄さまは、お妾がいらっしゃるの?」 「…また唐突だね、冴子ちゃん」 真顔の冴子を見て、これは誤魔化せそうにないと貴之は起き上がった。 「適当に付き合っている女はたくさんいるけど、囲っている女はいないよ」 「お義姉さまだけでは、いけませんの?」 貴之は苦笑いをしながら、煙草をもみ消した。 「難しいことを聞くね。男は種を蒔くという本能を植え付けられている。理性とは別に複雑な事情があるのだよ」 「お義姉さまが、悲しいんでいらしても?」 貴之は、ひくりと眉を動かした。 「…福子がそう言ったの?」 冴子は首を振った。 「でも夫を愛していれば、妻は皆悲しみますわ」 貴之はため息をついた。 「そういうものかね…。おれは福子を愛しているよ。彼女は特別だ。それでは駄目なのかい?」 「わたくしなら、絶対に許しませんわ」 貴之は肩をすくめた。 「怖いね。冴子がおれの妻でなくて良かった」 「絶対に許せないと思えるくらい、殿方を好きになれればいいと思いますわ。わたくし、身を焦がすような恋をしてみたい」 「すればいい。北岡との結婚が嫌なら、恋に落ちた男と駆け落ちだ」 貴之はにやっと笑った。  平塚雷鳥や伊藤野枝は、自由恋愛を提唱した。恋愛に男も女もない。その両方がいなければ恋愛は成立しないのだ。 池の鯉を眺めながら、冴子は物思いにふけっていた。 何故、女ばかりがこんなに窮屈な思いを強いられているのだろう。 「冴子さん」 「福子お義姉さま」 福子は散歩の途中だった。 「よろしいの?そのお腹では苦しくはありません?」 「お産が軽くなるように、よく動きなさいとお医者さまから言われているんですよ」 そんなものかと、冴子は福子の突き出たお腹を物珍しそうに見ていた。 「この前は、ごめんなさいね。愚痴のようなことを言ってしまって」 申し訳なさそうにしている福子に、冴子は笑みを浮かべた。 「適当に付き合っている女性は何人かいるけれどお妾はいないと、貴之お兄さまがおっしゃっていましたわ」 福子は、冴子を見ると何度か瞬きをした。 「ほ、本当ですか?」 「えぇ、お兄さまはこうもおっしゃっていましてよ。自分はお義姉さまを愛している。お義姉さまは特別だと」 その言葉を聞いて、福子は目に涙を滲ませた。 「あら、嫌ですわ。お義姉さま、どうなさったの?」 「貴之さまが、そんなことを…」 純粋に貴之の言葉を喜んでいる福子が、何故か綺麗に見えた。 嫌悪感を持っていたはずの福子を、いつの間にか受け入れている自分に冴子は驚いていた。 「冴子さん…。ありがとうございます」 福子は、冴子に手を合わせた。 「何をなさっていますの?お義姉さまはお兄さまの妻なのですから、凛となさっていればよろしいのではありませんこと?」 「はい…、そうします」 征長と結婚しなければならないのは分かっている。けれど自分は、福子のように決められた相手を素直に愛することが出来るのだろうか。冴子には、到底出来ないことのように思えて仕方がなかった。  その日、仕事中の貴之のもとに清澄家の執事・葛城から電話がかかって来た。 福子が大量に出血して、病院へ運ばれたというのだ。 貴之は急いで病院へ向かった。 「母体は非常に危険な状態です。お母さんを救うのであれば、お子さんの命は保証できかねます」 医師は厳しい顔で言った。 同じように連絡を受けて病院へ駆けつけていた福子の母は、医師にすがりついた。 「先生、それはどちらかしか助からないということですか?」 医師はゆっくり頷いた。 「そんな…。先生、お願いします!娘も赤ん坊も!お願いです!」 今朝、福子はいつものように仕事へ向かう貴之を見送った。 欧米の夫婦がするように、女中たちの前で接吻をして別れた。 大量の出血、病院、医師の言葉、そして涙して医師にすがりつく福子の母。 何が起きたのか混乱していた貴之は、ようやく福子の命が危険にさらされていることを理解した。そして静かに息を吸い込むと、口を開いた。 「どちらか片方なら…、妻を助けて下さい」 「申し上げておきますが、奥さまはもうお子さんを望めませんよ」 周りにいたものは、全員が貴之を見た。 「構いません。妻をお願いします」 「貴之!」 剛健は貴之の肩を掴んだ。 「子供は、男の子かもしれんのだぞ」 「……」 その時、処置室から看護婦が飛び出してきた。 「先生!急変しました!」 長い時間の後、医師と一緒に病室へ入っていた貴之がふらふらと外へ出てきた。外で待っていた家族たちは、一斉に貴之に群がった。 貴之が静かに首を振ると、そこにいた者たちは病室になだれ込んだ。 「福子!」 福子の母親は彼女にすがりついて泣き崩れた。貴之はその場を離れると、病院の外へ出た。煙草に火をつけると、深く吸い込んだ。 あんなに望んだ子供は死産。誰もが期待していたとおり男の子だった。福子も力尽きた。 こんな死なせ方をさせるために一緒にいたわけではなかった。  柱に寄りかかって俯いた貴之は、その場に力なく座り込んだ。  福子が逝ってしまってからというもの、貴之は毎晩泥酔し、屋敷にはただ寝に帰るだけという日々が続いていた。それでも酔いきれない時はひとりであの屋敷にいたくないが故に遊廓へ泊まり、朝はそこから直接会社に出ることもあった。 遊廓も馴染みの女には会う気がしなかった。新しい店で、いちばん客が付かなそうな女を指名した。そして何もせずに一晩を過ごした。 毎日が虚しかった。女がひとり、いなくなっただけなのに。 貴之の屋敷の賄い人から様子を聞かされていた執事の葛城は、母・雅代に報告した。 その夜も、深酒をした貴之は遅くに帰ってくると、真っ直ぐ居間の棚においてある洋酒をグラスに注いだ。そして煽るように飲み干すと辺りを見回した。 「おい!」 貴之の不機嫌な声に、女中はあわてて居間に顔を出した。 「お呼びでございますか?」 「あそこの、ソファの脇においてあった籠はどこへやった?」 「籠でございますか?」 「福子の刺繍道具が入っていたやつだ」 「それでしたら、納戸へ片づけましたが」 貴之は持っていたグラスを女中めがけて投げつけた。 「きゃっ!」 「誰が片づけていいと言った!元に戻せ!今すぐにだ!」 女中が縮み上がったその後ろで、扉の開く音がした。入ってきたのは、雅代だった。 「お袋さま…」 この屋敷に滅多に姿を見せることのなかった母が来たことで、貴之の酔いはいっぺんに醒めた。 雅代は砕けたグラスに目を向けると、どうしていいか分からずに突っ立ったままの女中に言った。 「これを片づけたら、お下がりなさい」 「は、はい。大奥さま」 女中が慌てふためいて片づけている中、雅代は食卓の椅子に座った。 「貴之さん、お座りなさい」 貴之は息をつくと、言われるがままに母の向かい側の席へ腰を下ろした。 「お珍しいですね、お袋さまがいらっしゃるとは」 「わたくしがここに来た理由を、あなたはお分かりだと思いますけれど」 「……」 「いつまでもそんな状態では、福子さんも心配で安心してあの世へ行けませんよ」 「……」 「辛いのは分かりますが、お酒に逃げていても何も解決はしません」 「えぇ、おっしゃるとおりです」 貴之は髪をかき上げると、煙草に火をつけた。 何を言っても泣き言になってしまいそうで、福子の話はしたくなかった。 「四十九日を過ぎたら、母屋へ戻ってきませんか?ひとりでここにいたのでは、ようすがわからなくて心配です」 「……」 「貴之さん」 「…そうですね、考えておきます」  福子と息子の四十九日は、あいにくの雨だった。貴之の希望で、納骨は清澄家と美浜家だけの質素なものになった。 清澄家の墓地のある護国寺での会食の席で、福子の母親がたくさんの手紙の束を貴之のところに持ってきた。 「これは、結婚してから福子が実家へ寄越した手紙です」 封筒の文字は、確かに福子の字だった。 「福子は貴之さんの元に嫁いで本当に幸せだと、いつも書いてきていました。あなたのように優しく寛容で心遣いのある殿方は、他にいないと」 「……」 「あの子は口下手だったので、その想いを貴之さんに伝えていないのではないかと心配になってしまって。どうぞ、この手紙を読んでやって下さい。あなたがどれほど福子に心をかけて下さったのかよく分かります。あの痣の故に結婚は諦めておりましたのに、あなたのような素晴らしい方の元に嫁げたことを本当に感謝しています。短い間でしたがあの子は幸せでした。福子に女としての幸せを下さって、ありがとうございました」 福子の母親は、深々と頭を下げた。  屋敷へ戻ってきて、貴之は福子が実家に宛てた封筒を机の上に広げた。そのひとつを取って中の便箋を出そうとしたが、躊躇ってそのまま元に戻した。物思いにふけったように中指の爪を噛みながらしばらくそれら眺めていたが、やがて封筒を束ね席を立った。 雨はまだ降り続いている。 貴之は誰もいない台所のコンロに火を付けた。そして封筒を一枚一枚コンロに上に落とし入れた。 福子への想いは、これで清算しようと心に決めた。彼女が幸せな時間を過ごしたのなら、それでいいことだ。 「さよなら、福子」 貴之の言葉に応えるかのように、火は大きく燃え上がった。 まもなくして、貴之は母の願いを聞き入れ母屋へ戻った。  第一次世界大戦の影響で、日本は軍需景気に湧いていた。 清澄コンツェルンもあらゆる部門で業績を挙げていた。総帥である剛健の機嫌も、すこぶる良かった。 「美浜の社長から、自分の目の黒いうちは清澄造船へ優先的に鉄を回すと言ってきた。福子が死んでそこは心配しておったが、これでしばらくは安心だ」 「…そうですか」 無表情で答えた貴之を、剛健は眼鏡の奥から上目遣いで見た。 「どうした?まるで他人事だな」 「いえ、好景気ですから有難い限りです」 「会社を大きくするにはいい機会だ。また都合のいい縁談をまとめてやるから、楽しみにしていろ」 そう言って笑った父に、貴之は白けた視線を送った。コンツェルンを強固にすること以外に、何も考えてはいない父。貴之には、もう二度と結婚する気などなかった。                  
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!