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10.海:白いボクシングジム
あのKO勝利をした後、蓮はどこか変わったようだった。
ピリピリした感じは少なくなったけれど、その代わり、どこか目が据わってきたように思う。
けれど、基本的には俺たちの間も変わることはなかった。
俺がジムに行っては、ただ彼の練習を見ているだけの関係。
その夜、俺はジムを見渡せる、ガラス張りのトレーナー室にいた。
ジムの広報の手伝いを任され、ポスターの手配などで居残っていたのだった。
ジムの中では蓮が一人、軽めのバーベルを何度も上げてはシャドウをするの繰り返し。パンチの持久力を養うトレーニングを行っていた。
けれど他のジム生はいなかった。
ジムは22時で閉まるが、アルバイトの都合でいつもより遅く来た蓮は、ジムの鍵を借りて自主練をしていたのだ。
すると、汗まみれで、へとへとになった蓮がトレーナー室へ入ってきたのだ。
次の興行について聞きたいことがあったようで、話を少しした。
でも蓮はへとへと過ぎるから、あんなことを言ってみたのだと思う。
「あんたも、殴ってみるかい?」
レンタル用のウェアを着て、ジムへ出る。、
蓮の予備のグローブを借りると、皮とどこか乾いたようなにおいがした。
俺は潔癖症のほうだが、不思議と抵抗はなかった
軍手をして、グローブをはめると、蓮がミットを構えてくれた。
俺はいちおう会員だが、筋トレがメインで、サンドバッグやミットをほとんど殴ったことはない。
自分がいつも見ないようにしているものが出てきてしまいそうで、どこか怖かったのだ。
「一歩前へ出るように、軽く先にあるものをつかむように、拳を出してみるんだよ。つかんだら、同じコースで弾くように戻せばいい」
自分でもあきれるくらいおそるおそる、言うとおりにグローブをつけた拳を伸ばしてみた。
思ったよりも、蓮が優しくミットを当ててくれる。
「当てようとしなくていいんだ、グローブをを出したら、俺が当ててあげるから」
この子、こんなにしゃべることが出来たのか。
いつもは俺が率先して話しているが、今日は黙って蓮の持つミットに吸い込まれるようにパンチを出し続けていた。
何しろ、すぐに息があがってしゃべるどころでもない。
次第に身体もあったまっていった。
こんな感じは、何年ぶりだろう。
何かおさえていたものが、胸の奥でうずきはじめてしまうような気がした。
けれどそれ以上に、蓮の受けてくれるミットの音が気持ちよく、パンチのラリーを続けてゆく。
1R、2R、3R…。
ああ、いつもこの子たちは、こんなきつい思いを毎日していたんだな。
けれど考えることは、ただただ、パンチをミットに打ちこみ続けるだけ。
何かが出てくるかもしれないと思っていたが、ただただ真っ白な空白が広がっていた。
「楽しいね」
4度目のラウンド間のブザーが鳴り、ハアハアいいながら、つい口に出した。
蓮も軽く口角を上げてみせた。
笑ったのかもしれない。
笑ったのだろう。
私も、つられて笑ってしまった。
静かなジムに小さな笑い声だけが響いた。
なんだか夢の中にいるような、時間だった。
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