11.蓮:さよなら、マーチン

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11.蓮:さよなら、マーチン

海を見ているたびに、近づいてほしくないような嫌悪感があった。 何を求めているのか、期待には応えられない。 僕はただ、強くなりたいだけだ。 憎いと思ったあいつを、殺そうと思えば殺せるくらいに。 それが辛うじて生きさせてくれている。 プロボクサーとしての未来? 自立なんて知るか、将来なんて知るか。 海といると、マーチンを思い出してしまう。 じっと見つめる瞳、そのくせおどおどしているような態度。 「あなたがいないと生きられない」と言っているようだ。 僕はもう、そんな場所から離れたいんだ。 あの家を出る夜、僕はマーチンを刺そうとした。 あの男のナイフで。 殺されるくらいなら、いっそ僕の手で…。 信頼して寝息を立てるマーチンの首元に刃先を当てても…出来るわけはなかった。 これが僕の弱さだと思った。 この子がいる限り、僕はこの家から離れられない。 トランクを持ち、マーチンを抱き、駅へ向かう途中の農道の草むらに、マーチンを置いた。 殺すようなものだ。 小さい頃から家でだけ育ててきたマーチン。 餌の取り方も知らない。 そのうち死んでしまうだろう。 カラスに襲われてしまうかも。 けれどこうしないと進めない。 しばらく走り回っていたが、僕の後をついてくる。 脅すようにライターの火を何度も近づけると、草むらに隠れるようになった。 それでも僕をずっと見ているのはわかっていた。 そのまま駅へ向かって走った。 バカみたいだけど泣いていた。 あの時全ての感情を捨てたいと思った、大げさかもしれないけれど。 あの男が母さんを心不全に追いやったように、僕もマーチンを殺して進む。 さよなら、母さん、さよなら、マーチン。 そしてこのクソみたいな町。 逃げるんじゃない。これが僕の”親孝行”だ。 そう、母さんの大好きだった、あの王者のように強くなって…。 強くなって…どうする…? 夜間の自主トレをしていると、海がトレーナー室に残って雑務をしているのが見えた。 僕を見ているのでなく、自分の仕事をしているあいつを見ていると、安心出来た。 海は一体、どう生きたいんだろう。 僕がいなかったら、いなくなったらどうするんだろう。 知りたくて、ミットを打たせてみたんだ。 僕にはこれしかコミュニケーションを知らないから。 受けた瞬間、驚いた。 いいパンチしてるな。 フォームはめちゃくちゃだが、打った瞬間に衝撃がブレない。 何Rも受けていると、可笑しくなってきた。 言葉とかは、多分いらないんだろうな。 「今度は、俺に打ってきなよ」 ミットを外し、両手を後ろに組んでは、顔を突き出して僕に打つようにうながす。 のろいけれど、芯のありそうなパンチを、全部スウェー、ダッキングでかわしてみせる。 海はムキになって、へろへろになってもパンチをやめようとしない。 ボディを少し打たせては、まだ逃げる。 それでも追いかける様子を見てると、あいつと会ってから一番生き生きしているような気がした。 ボディだけは打たせていたら、いきなり左アッパーを狙ってきた。 「あっぶね」 なんとかスレスレで避ける。 「この前の試合…君のやつだ…!」 それで力尽きたか、座り込んでしまった。 大の字になって床に寝転ぶと、あいつは息を切らせながら、また笑っていた。 それを見て、なぜか安心した。 あいつは、僕のウサギじゃないんだ。
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