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12.海:生きたい夜
(もう無理だ…、ボクシングをやったせいか…?もう今回は殺してしまう)
雨の夜、着のみ着のまま、夜の住宅地に飛び出した。
今夜は家には戻れない。
あのまま親父と向かい合っていると、とんでもないことをしてしまいそうで…。
親父は全く変わってないのか…?
絶望と新しい恐怖が身を包んでいた。
小学5年の時、親父に灰皿で頭を割られ、今でも側頭部は手術跡が残っている。
あれからいったい何年たってるんだろう。
金の流れから、蓮のスポンサーをしていることがバレては言い合いになった。
あいつはいつまでも俺を意のままにしておきたいんだろう。
酔っていたあいつが、灰皿を振り上げたのも同じだ。
けれど、曲がりなりにもボクシングをやっていたせいか、すぐに身体が動き、灰皿は空を切った。
その時の感情は、以前の恐怖から、怒りに変わっていた。
”許せない”
相手が倒すべき怪物に見えた。
この新しい感情が、何を運んでくるのか…。
怖くなって、背を向け家から走り去った。
ぼんやりと駅のほうへ向かい歩く。コートを引っ掛け、サンダルのままだ。12月では、靴下を履いていても、足先が冷える。
中高一貫の全寮制に入り、大学進学で帰ってきた頃には、親父は落ち着いたと思っていた。
ただの口うるさく人の話を聞かず、自分の言うことだけが正しいという男になっと。
金だけはあるから、新しい愛人が出来たようで、家にいることも少なくなっていった。
電車の暗いガラスに、部屋着姿のままの不振すぎる男が映っている。
気が付くと、いつも行っているジムに向かおうとしていた。
あそこ以外に”居場所”なんてないんだ。
けれど行って、何になる?
だいたいもう閉館の22時じゃないか…。
「俺はあなたのスポンサーだから…」
アパートのドアをあけた蓮の目が、いつも通り冷静で、余計に恥ずかしくなった。
こんな深夜に迷惑がらないでくれそうな友達も知り合いもいなかった。
「だから、俺もここを使う権利が少しくらいあるはず…頼む」
本当はこんなに近くなるつもりではなかった。
”応援する”対象であってほしかったけれど。
「入りなよ」
練習後にシャワーを浴びた後らしい、少し濡れた髪の蓮がそっけなく部屋へ入っていった。
淹れてくれた熱くて濃いミルクティーを飲み、貸してくれた毛布にくるまっていた。
蓮はマットに座って、しばらく俺なんていないかのように、ストレッチなどケアをしているようだった。
蓮は、最近は以前のような、小さい野良犬みたいな殺気はだんだんなくなっていったように感じた。
沈黙が続いていたけど、何も強制されることのないような、落ち着いた空気が流れていた。
蓮は俺がここへ来た理由も、聞こうとすることもなかった。
身体が温まって、安心とは少し違う気がするけれど、自分が少しずつ戻ってくるような気がする。
「僕、寝るよ。あんたはそのソファーを使えば」
蓮が間接照明を落としてベッドに向かおうとする。
時計を見ると、0時を過ぎていた、
「明日は、7時前に起きてバイトに行くから。何があったか知らないけど、いたいならいてもいい。掃除くらいしといて。出るなら鍵がここにあるから、封筒に入れて郵便受けに入れておいて」
部屋が真っ暗になり、ふと口をついて出る。
「…殺したいよ、俺だって。ずっとずっと、殺したかった。俺の人生の壁になって、誰かを好きになろうとしても…!」
はじめて涙が出た、めんどくさい奴だと思われてるんだろうな。
ただでさえ、深夜にいきなり訪ねてきて、非常識すぎる。けれど、止まらなかった。
「でもどうして、それをしたら、俺がさらに傷を負う。なんでどうして、親父すら死んだら、きっともう虚無。全て終わり。俺には何もない…!でも憎いんだよ!本当はずっとずっと!それにとらわれている俺が一番憎いんだ!」
言葉にするとはじめて、自分でわかることがある。
俺が再び泣き出すと、蓮は間接照明をつけたが、ベッドに入ったまま天井を見ているようだ。
何の優しさもいらないから、彼の態度は助かると思った。
「あんた、もうスポンサーやめなよ」
ぽつりと蓮がつぶやく
「もう大丈夫だよ、僕は。今まで助かった、本当にありがとう」
ベッドに座り、向き直ってはじめてこちらを見ている。
血の気が引いて、さっと冷静に戻った。
スポンサーをやめてしまったら、俺には本当に何の繋がりもない、突き放されたようだった。
確かにあのKO勝ちから、蓮は連続KO勝利を収め、A級入りしては日本ランキングへ入っていった。
その戦いぶりを見て、試合ごとに少しずつ”まともな”スポンサーがつくようになっていったのだ。
やっぱりまずかったよなあ、こういうのいけなかったよなあ、俺はいつもそうだ。
(…また、切られるのか)
でも、別に何が欲しいからここ来たというわけではなかった。
今の自分にかろうじてあるのは、彼が育つのを見ていたいという気持ちだけだったから…。
「わかったよ、ごめん。調子に乗ってた」
立ち上がり、毛布をたたんで出ようとする。
「どこへ行くんだよ、もう電車だって動いてない」
彼が立ち上がって腕をつかむ、自分がみじめで、振り払った。
まるで羽毛に突然、包まれたようだった。
気が付くと、蓮に抱きしめられていた。
自分が何をされたかわからなかった。
蓮が顔を離すと、両腕を掴まれたまま、強い口調で言う。
「ボクシングやろうよ、あんたはスポンサーじゃおさまらないよ。戦おうぜ、ボクサーになれよ」
まっすぐこちらを見ていた。
彼のそんな強い視線をまともに見たのは、はじめてのような気がした。
涙が止まった。
胸の奥でコトリと何かが動くような気配がした。
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