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13.蓮:殺す資格
あの”パパ”を倒してから、試合の前には泣いてしまうようになった。
ストレッチをし、軽くウォームアップをすると、だんだんと世界に自分一人がいるような気がしてしまう。
周りがゆらぎ、かすむようで、いつもその時にはトイレの個室へ行く。
(相手には、大事なものがあるんだろうな。そうでなければ、人を殺しても何の咎めもない、このリングへ上がってくるはずはない。
毎日毎日、ひたすら僕と同じように、ミットに拳にパンチを出し続けて…)
そんな相手を、今から殺しに行く。
再起不能にしても構わない。
自分がそうなるのはいい。
けれど、僕が僕のためにそうするのは…。
この拳はどこから出てくるのか。
僕は、クソみたいなあの男から、洗脳されて育った。
何かをする時にも、いや。あいつの許可なしでは動けなくて、今でもそのクセは日常のささいな場所でついてまわる。
だから毎日、どんなに疲れていても、走り、ジムへ行く。
変わりたい。
僕はきっと、あいつを殺したいんだ。
自由になりたいんだ。
僕は僕を縛る自分の鎖を、拳で断ち切りたいんだ。
けれど、そんなものを相手にぶつけるのか。
いや、相手にだって…。
申し訳ないし、本当にかわいそうに思う。
涙が止まらない。
でももう、ここからは逃げられやしないんだ。
便器の上でふと目を開けると、拳にはバンテージが巻かれていて、コミッションの封印がしてある。
あと数十分後には、再起不能にまで叩きのめすんだ…。
底まで落ちるとわかる。
もう涙は出ない。
それをわかって、綺麗なままの便器に、ふんぎりをつけるように水を流す。
先ほどの廊下や壁のゆらぎは嘘のようだ。
頭は静かに冴えわたっている。
鏡で自分の目を見て、言い聞かせる。
(お前は、大丈夫だ)。
ガウンを着て、花道を歩く。
もう僕には入場の曲がついている。
リングに上がる時には、スポンサーの名前も呼ばれる。
「日本スーパーフェザー級ランキング2位、井上蓮!」この試合に勝てば、次は王座だけだ。
歓声が響き渡るが、頭は静かだ。
そういえば、何かが足りないと思っていた。
そうだ、もうあの男はいないんだ。
まばゆい光がリングの上から太陽のように差す。
ここは砂浜みたいだ、乾いたゴングが鳴る。
あれから僕の感覚は変わった。
目の前に相手はいるけれど、なぜか遠くから俺が戦っている姿も感じる気がする。
本当に静かな世界で、相手の息遣いとシューズのすれる音だけが聞こえる。
距離がわかる、相手のジャブの速さがわかる、コンビネーションのパターンがわかってくる。
相手の、リズムがわかった。
今まで攻めていたボディから、一気に自分から意識を離すと、まるで鳥のようにライトの上から俺と相手の戦っている姿を感じる。
タイミングがわかる。
カウンターの左フックを入れた直後、同じコースのまま左アッパーを相手の頭の上まで”置く”。
いつもコツン、というドアを叩いたような感覚が前腕に残る。
それだけだ。
相手の重さがなくなり、俺はコーナーへ戻った。
「KOタイムは2R1分43秒!井上蓮は6連続KO勝利!日本スーパーフェザー級王座の次期挑戦者と決定しました」
司会のアナウンスが場内を流れる。
(ついに来た、これを獲って、僕は自由になれる。母さんの期待以上の男になる。あいつのことも殺しきる、自由になれる。そう、王者だって、一撃で葬むるんだ。そのためだけに、やってきたんだから…)
そうだろう?
僕はコーナーの下のベンチ席を無意識で探していた。
海と目を合わせようとした。
けれどもちろん、いなかった。
そうだ、このリングに立つ前から、もうジムにも来なくなっていたのだ。
またマーチンを思い出した。
僕は何も出来ないマーチンを守っているつもりで、あの何も出来ない動物に甘えていたんだろうな。
そうでなければ僕も、生きられなかったけれど…。
捨てた野原から、絶対に後ろを向かないと決めて走り去った瞬間と同じ感じ。
今にも振り出しそうだった、湿気た夜の風。
もう戻れるわけはなかったのだ、あの時から。
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