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14.蓮:明日はタイトルマッチ
「挑戦者、井上蓮、58.7kg、クリア!」
司会の声に合わせ、計量台の上で、小さくポーズを作ってみせる。
僕のポーズはアッパーでのKOが多いことから、アッパー気味に少し脇を締め、拳を突き上げ気味にした”レン・ポーズ”だ。
ダサいが、キャラづけも必要と、いつか海が作ってくれた。
しかし今回で、これもやめだ。
この試合の先は何も考えていないのだから…。
向こうからやってくる自信満々の青年。あの王者を倒せば、俺はあいつも殺せる。
そう決めて、ずっとやってきたんだ。
「日本スーパーフェザー級王者、中村天心 58.95㎏、クリアです!」
この国で一番強いこいつを倒せたなら、僕は自由になれる。
この大嫌いな僕から、さよならしてやろう。
互いに向かい合い、王者がアゴを上げ、見下すように真顔でこちらを見下ろす
背は僕のほうが高いんだがな。
僕は逆に、メディア側に身体が開くように構えて、腰を落とし、彼を下からねめつけるように顔を近づけた。
鼻と鼻がつくくらい、フェイスオフで20秒。
次々とフラッシュが炊かれ、僕は口角を上げてみせる、強くなるためにこんな舞台が必要なら、乗るだけだ。
だが鼻突き合わせてわかった。彼は強いな、今までの誰よりも。
スタッフに引き離されると王者が、今までの敵意を向けた真顔が嘘のように、こちらに握手を求めてくる。
握手はしない。
拳を握って相手のアゴ下へ突き出してやる。
いつもならこのパフォーマンスで相手は顔をしかめるか、不快感を顔に出す。
だが彼は、ニヤリと笑って、握手を求めるため広げた掌で、まるでジャンケンをするように俺の拳を包み込んだ。
まあいいさ、余裕の王者と痩せ犬みたいなチャレンジャー、僕はもう片方の手で殴るふりをして、そのまま背を向けて去った。
控室に行くと、ドッと安心して座り込んでしまう。
用意していた常温のスポーツドリンクを飲み、よく熟しているバナナを剥いて齧る。
「よく噛めよ」トレーナーが軽く肩を叩いてくる。
そうだ、この大一番、腹なんて壊していたらたまったものじゃないからな。
明日はタイトルマッチ、これを獲れば、僕は変われる。
家を出ても、自分を刺そうと何度も思うたびに、全てパンチを打つことに変えてきた。
あの家では…自分が醜くて汚くて、バイトの面接の電話をかけようとするたびに、行って帰ってくるたびに、ナイフで自分の胸や身体を切りつけてきた。
そう、あいつがつけた傷を塗り替えられるかのように…。
だけど僕は殺そうと決めたんだ。
いつか動脈までいって、血が止まらなくなって倒れた時、貧血で目覚めた夜に動かない身体と脳で思った。
「どうして僕が、殺されなきゃいけない」
ナイフも武器も使いたくない。
母さんと僕が憧れた強さで、この拳で、息の根を止めたら、自由になれるんだ。
ぼんやり噛んでいると、またトレーナーが話しかけてくる。
「神戸は、お前の故郷だってな。誰か友達は見に来ないのか」
トレーナーに僕の家族のことは言ってあるから、”家族”という言葉を出さないところに気を使ってくれているんだろう。
そう、まさかこの街で、タイトルに挑むことになるとは。
けれどこれも、運命なのかもしれない。
この街で、ぶっ倒して、すべてを禊ぐことが出来れば…
「そうですね、少し散歩してきますよ。ずっと風呂やサウナにいたせいで、少し力が抜けてしまっている気がするんですよね」
「風邪をひくなよ、19時にはホテルに帰ってこい、夕食へ行こう」
「ええ、少し行ってきます」
一人控室を出た。
繁華街から少し外れると、見覚えのある通りに入る。
中退した高校の通学路の近くだった。
家はバスで何駅か行った住宅地にあるが、今はどうでもいい。
全ては明日なのだ。
この通りも、いつも暗い気持ちで歩いていたな。
本当に帰るのが嫌だった
あの頃の気持ちがよみがえるかと思い少しビクついていたが、懐かしさだけが通り過ぎていった。
あれから4年、店舗が変わった店もある。
通りから少し離れ、いつも寄り道していた公園へ行こうと思った。
商店の裏口ばかりが並ぶ、薄暗い人通りもない路地、この路地を通れば近道だと知っていた。
路地に入ると、どこかの店から肉を焼く匂いがした。
数歩歩くと、路地の真ん中あたりの壁に、へばりついているような影が見えた。
いるはずもないのに、野良犬かとも思った。
壁に寄りかかるようにもたれ座っている中年男だった。
ホームレスだな、ここらにはあまりいなかったが、不景気だな。
なんとなく、嫌なかんじがした
どこか見覚え、いや、遠くからでも空気に憶えがあるような気がした。
髪はざんばらで伸び放題、やせこけてうつろな目をしていたが。
”あいつ”だった。
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