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15.蓮:一撃
路地を曲がった時、あいつはいた。
何度も思い返しては、サンドバッグ打つたびに、シャドウボクシングをする虚空に、ミットの向こう側に、そして対戦相手の顔に重ねてきた、忘れるはずもないあいつ。
けれどその姿に、目を疑った。
記憶の中のあいつは、恐ろしくて、敵うはずもなくて、むしろ自分のほうが悪いと思わされるくらいに巨大だったのに。
路地の奥には、みすぼらしい服を着て、やせこけた中年男が一人座り込んでいた。
その視点は定まらず、僕のことさえ目に入っていない。
空き瓶の転がった、砂利だらけの地面に片ヒザを立てしゃがみ、店の裏口の壁へもたれかかる。
かつて僕の首を絞め、愛撫した、骨ばった腕はは痩せこけ震えていた。
そして右手に持った焼酎らしき瓶。
夢の中にいるように、足元がふわふわした。
ふといやなにおいが鼻を突き、見ると吐しゃ物がぶちまけられていた。
あいつが吐いたばかりなのだろう。
一歩、その悪臭と、醜い男のほうへ近寄る。
人がいることも気づいていないみたいだ。
一歩、また一歩進むたびに、あいつと向かいあうたびに感じる恥ずかしさ、握りつぶしたいほどの自分へのイラつきが、走馬灯のように次々とよみがえる。
毎晩襲ってくる、焼け付くような吐き気も。
この昼日中に。
これはあいつの嘔吐物の匂いのせいのか。
殺す。
殺す。
殺す。
今なら殺せる。
そのために磨いてきた。
そう、あいつを殺すため、この4年間…!
歩みは止まらない。
頭の中には幾度となく反芻してきた、コンビネーションが思い起こされ、ピタリと拳に、身体に同化してゆく。
幾千の練習の日々、そして試合でも使ってきた、右フック。
ジャブからか、左ボディからか。
様々なコンビネーションが流れゆく。
脳出血、さらにあのフラつき具合なら、倒れた後、この硬い舗道に頭を打ち付け、脳内の傷は広がるだろう。
あいつの頭から、俺にした行為の記憶も、そして人生も、抜け出てゆくんだ。
殺せる。
殺せる。
あと4歩。
気づいてすらいない。
あと3歩。
ためらいはない。
あと2歩。
何度も想像してきた。
あと1歩。
喜びもない、これは運命。
老人の顔が、自分の70センチ前まで来た時
(今、殺せる間合に入った)
夢の中にいるようだ。
俺は、狙いを定め、やせほそった右アバラの下を思い切り拳でえぐりこむ。
なんて細くて、やわらかいんだ。
何が起きたかわからないような顔をした直後、あいつの顔が苦悶で歪む。
あいつの全身から力が抜けた瞬間を捉え、大きくためを作った腰から、右手中指第3関節を返して相手の左こめかみ裏に刺し込む、右フック一撃。
直後、壁へ叩きつけられる頭蓋。
そんな光景が、目の前で繰り広げられたような気がした。
僕は、脇の男性に、一瞥もせず通り過ぎた。
何もなかったかのように。
この路地には、何も存在しなかったかのように。
通り過ぎた瞬間も、男性は僕には気づかなかっただろう。
彼は、もう彼だけの世界の中にいた。
アルコールに浸された脳に包まれ、きっとこれからもずっと。
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