前編

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 それはまったく奇妙な感覚と言わざる得ない。  なんせ思った通りに腕が上がるのも、思った通りに声が出るのも、生まれて初めてなのだ。  すべてが新鮮であり、驚きと楽しさに満ち溢れたものだった。 「どうかな。新しい器は気に入ってくれたかな?」  少女が朗らかに聞いてきた。  石の巨人は感謝を伝えようとした。  しかし上手く喋れなかった。まだ体が出来たばかりで、動かし方がわからなかったのだ。  だから、代わりにぎこちなく頷いた。  少女はそれを見て嬉しそうに笑った。 「良かった。初めてだからとても緊張したの。どうやら何も問題ないみたいね」 「……ナマエ……」 「ん?」 「ナマエハ……?」  石の巨人は不器用に聞いた。  本当は、君は一体何者なんだい、と聞きたかった。  石の巨人は少女の正体を知りたかったのである。  それを察したらしく、少女は少しだけ考える素振りをした後に、こう答えた。 「私は偉大なるお父様から生み出された娘よ。私の存在はそれ以上でも、それ以下でもないの。呼び名なんてものは持っていないわ。だから、名前は貴方の好きなように。どんなものでも私は受け入れるわ」  その返答に石の巨人は驚いた。  何故なら今まで見てきたどんな人間も……それこそ最下層に住む掃き溜めの住民も、名前ぐらいは持っていたからである。  だが、少女はそんなものさえないというのだ。  高そうなローブを着て、杖まで持っているのに。  それは石の巨人にとって、とても寂しいことに思えた。  なので。 「カンナ」  感謝も込めて、自分の一番大切な名前を送ることにした。  「カンナ?」  少女は首を傾げた。  当然、その意味を理解出来ないのだろう。  石の巨人は麓の方を見つめた。  かつて、賑わっていた人間の街の方を。  そこには今や、殆ど何も残ってはいないが、しかし確かに幾つかの痕跡は見て取れる。 「もしかして、ここの街の名前だったの?」  少女はやがてハッとしたように聞いた。  石の巨人は再び肯首。  少女は「そうなのね」と言って、石の巨人のように麓の方をじっと見続けた。 「確かにお父様から、カンナという街の名前を聞いたことがあるわ。昔はとても栄えたところだったとも。……きっとここは、貴方にとってとても大事な場所だったのね。本当に大事な……」 「……」 「そんな名前をもらえるなんて、とても光栄だわ。ありがとう、優しい貴方。こちらからも、何か贈り物をしなくちゃね」  少女は――カンナはそう心から礼を言って、石の巨人の方へ向き直った。  そうして、 「貴方の名前はククルルにしましょう。今日から貴方はククルルよ」 「ククルル……」  石の巨人は自然の流れとして、その単語を口にした。  カンナは言う。  ククルルとは、古代語で、自由な翼という意味なのだと。  石の巨人はそれを気に入った。  何よりククルルとは、とてもポカポカとした心地よい響きだ。  それを呟くだけで、自分がこの世界に認められている気がする。  今この時、何者でもなかったその意思は、名と体を与えられ、個人として初めて確立したのである。 「さあ、ククルル。不自由なこともあると思うけど、まずは体を動かす練習をしましょう。なに、大丈夫よ。私がちゃんと手本になるわ。最初は――」  それからククルルとカンナ、二人は交流を積み重ねた。  どうやらカンナは、居場所を追われてこんなところまで来たらしい。  何もやる事はないからと、小高い山に留まり、根気よくククルルに色々なことを教えた。  おかげでククルルは、一ヶ月と経たず、すぐに動き回れるようになった。  今や人間並に喋れるし、歩くことも出来る。  精密な作業も出来た。おまけに力仕事も大得意だ。  ククルルはそれを活かし、カンナのために小屋を作った。  川原で拾った大きな石、そしていくつか引っこ抜いた巨木を合わせたものである。  カンナは酷く喜んだ。  何度も何度もお礼を言い、ククルルに抱きつくのであった。  こうして何気ない毎日は過ぎていく。  ククルルはカンナと共にあった。  ククルルはカンナの生活を助けた。  基本、カンナは魔術で何でも出来たが、土地勘はからきしだったのだ。  そのため、ククルルがカンナを案内し、何処に何があるのかを伝えた。  それはいつしか、二人で色んな場所を巡るものへと変わった。  彼らは川へ行った。谷にも行った。向こうの山岳地帯に足を運ぶこともあった。  しかし最後には小高い山に必ず戻ってきた。  彼らは知っていたのだ。  自分達が異端であると。  その石の巨躯は人間から見れば紛れもなく怪物であり、また少女も迫害されるだけの事情がある。  身を守るには人間から隠れている方が都合が良かった。
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