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問いを重ねた美雨に、父は執務机に両肘をついて言った。
「美雨は岬グループの岬嶺人氏に嫁げ」
「えっ……!?」
そこで初めて美雨の呼吸が乱れた。思わず隣を凝視し、美波の目元がぴくりと引きつるのを見て取り、慌てて身を乗り出す。
「お、お待ちください。私が嶺人さんと婚約するのですか? 美波姉様ではなく?」
岬嶺人。その名を聞いただけで、美雨の心臓はどきどきと忙しなく脈打つ。それは美雨にとって劇薬であり、甘露でもある名前だった。
狼狽える美雨の足元で、からん、と軽い音を立てて歩行杖が倒れた。十年前から愛用している杖は、真鍮の持ち手が可愛らしい小鳥の形をした特注品だ。『不幸な事故』によって足を痛めた美雨に、父が作らせたものだった。執務室のリフォームも、正座ができなくなった美雨のためだ。
西城ホテルの経営に辣腕を振るう父も、娘には情深い。だからこそ、今のは聞き間違えではないかと——あるいは、美雨の密かな恋心が現実を歪めたのではないかと息を詰める。
父は美雨と美波を見比べた。精悍な眉の下で、三白眼気味の目が鋭く光る。
「これは決定事項だ。美雨は岬嶺人氏に嫁ぎ、美波は今のまま西城ホテルの社長秘書を続けてもらう。反論は許さない。いいな、美雨、美波」
「そんな。お父様、お待ちくださ——」
「わかりましたわ、お父様」
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