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仕事を終えた帰り道。女は髪の毛をネットでまとめると、短冊形のピアスの装飾を引っ張った。右の装飾は声を拾い、左は相手の声を流す。左の装飾を耳とヘルメットの間に固定して、女は師弟関係の先輩に電話をかけた。
妙齢の先輩は頑なに師匠と呼ばせない。師匠と呼ばれると老ける、というジンクスを信じているからだ。
「おい、ブライニクル。十五分も遅刻だぞ?また情が移ったんじゃないだろうな」
「申し訳ありません」
女は口の悪い先輩に謝罪して、バイクに跨りエンジンをかけた。ブライニクルは女のコードネーム。文明に捨てられた廃墟の道は整備されるわけもなく、白い煙が巻き起こる。
「映像を見た。あのターゲットの態度は笑ったよ。よく、あそこまでブライニクル優位を隠せたな。さすが、得意分野だけのことはある。適度な距離を保ち、油断したターゲットの本音を引き出し、時間が来ると一気に始末する。まさしくブライニクルだよ。だが、時間がかかりすぎる。長考に持ち込まれる前に撃つか、最初から絶望させろ。『真実なんてありません。時間の無駄です』ってな」
「これで私は自由ですよね?」
「ん?気になるか?」
七年前のこと。女の両親は、パラレルワールドから来た大罪人にそそのかされ、一文無しになった。行方不明者届が受理されれば保険金が入る。それを知った女は、自らの保険金で両親を助けようと裏ルートで暗殺者に志願した。
両親から離れれば、どこでもよかった。
兄の将来を危惧した両親が、世話役として孤児院から女を選んだ、それだけのことだ。親はいわゆるネグレクトで、ろくな世話もせず、学校にも行かせてくれなかった。
そんな親だから、最短で行方不明者届を出してくれたはず。やっと死亡届が受理され、新たな戸籍で自由を手にできるはず。
「残念だよ」
落胆する先輩の声は女を混乱させた。どんな時でも感情移入はするな、と教えられたからだ。
「病弱な兄がいたろ?」
「はい。それで兄は保険に入ることができませんでした」
病弱な兄は入退院を繰り返していた。金銭的負担と時間拘束で疲弊していく両親に、『生きていてごめんなさい』と謝罪するような人だった。辛気臭い男が人生の全てになるなんて、女には耐えられなかった。
「詰めが甘いんだ。その兄が、ブライニクルを失ったことで一念発起し、仕事で大成功したんだよ。孤独な現実をつきつけられて焦ったんだろうさ。あいつは結婚し、子宝にも恵まれた。両親は海外暮らしだよ」
電話口で淡々と事実を伝える先輩に、女は問いかける。
「私の自由に関係がありますか?」
ハハハッ。
先輩の乾いた笑いが耳元で響く。
「わからないのか。病弱な兄は両親を追い出し、ブライニクルの戸籍を残したのさ。あいつは本物の悪魔だね。自分より暗殺者の道を選んだブライニクルに、自由を与える気がないんだよ」
「うそ……」
「嘘だと思うなら兄よりも生きてみろ。そうすれば自由だ。じゃあな」
電話を終えた女はバイクを脇に止め、真っ青な空を見上げて泣いた。
ーENDー
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