フレンチトーストには甘い魔法がかかっている

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 差し出された手を、振り払いたい気持ちはじゅうぶんにあったが、悪意は欠片もないことはわかっているので、俺はしぶしぶその手を取っていた。  そういえばこいつ、店なんてやってたんだ? と思いながらチリンチリンと音が鳴るドアをくぐったら、古めかしい、渋い緑色の椅子が並ぶ店内が広がっていた。 「……喫茶店?」 「うん。おじいちゃんの店だったんだけど、三年前に亡くなったから、僕が継いだんだ。あ、なんか食べる? フレンチトーストなら仕込みはすんでるから、焼くだけですぐに出せるよ」  奥の、一番ゆったりとしたソファに座らせてもらうと、犬山はすぐに水を運んできた。  昨夜は飲み屋にずっといたが、アルコールしか口にしていなかったので、水はずいぶんと新鮮に思えた。  口をつけたら、一気に飲んでしまった。  水がこんなにおいしいと思えたのは初めてだ。 「悪い。いま金持ってないから、代金はまた今度……」 「え? あはは。代金なんていらないよ。生き倒れてた友達からお金なんてもらえないって。待ってて、フレンチトースト焼いてくるから」  ひらひらと手を振りながら、犬山は厨房に引っ込んでいった。 (友達だったのか、俺たち……)  少なくとも俺は、友達だと思ったことは一度もない。  犬山は男女問わず誰とでも仲良くなるやつで、それなりに喋ることはあったが、連絡先も知らないし、休日に一緒に遊んだこともない。ただの同級生の一人だった。  なのに、向こうからは友達だと思われていたんだとしたら――うまく言えないけど、なんだかくすぐったい気分だ。  座っていたら、また眠くなってきた。  ソファに横になろうとしたけど、アンティーク調で趣のあるソファを汚すのは申し訳ないと思い、せめて汚れた上着だけでも……と脱ぐ。  上着は適当に丸めて、枕代わりにした。  どうせ安いスーツだ。あとでクリーニングに出せばいい。 「はい、おまたせ。あれ? 中島くん、寝ちゃってる?」  うとうとしていたところで、犬山が声をかけてきた。  ものすごくいい匂いもする。  反射的に、お腹がきゅう、と鳴った。 「悪い。二日酔いでだるくて……」 「あとで酔い止めの薬を持ってこようか?」 「一応言うがおまえ、乗り物酔いの薬は持ってくるなよ。二日酔いの場合は、胃腸薬系だ」 「あれっ? そうなんだ? 一応、万が一食中毒が出た場合に備えて胃腸薬は常備してるけど、それでいいかな?」 「万が一でも食中毒は出すなよ」  よく考えたらこいつ、高校の時、カレーを作る調理実習でなぜかホワイトシチューを作っていたが、店に出すような料理なんか作れるのか?  今さら不安になってきたが、テーブルの上に置かれたフレンチトーストは、とても美味しそうだ。  ぐぅ、とまたお腹が鳴る。 「食べなよ。あったかいうちが一番おいしいからさ」  犬山はにこにこしながら言う。 「……いただきます」  甘い匂いが空腹を刺激してくる。  一抹の不安はあったものの、俺は食欲に負けて、両手を合わせた。
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