5人が本棚に入れています
本棚に追加
差し出された手を、振り払いたい気持ちはじゅうぶんにあったが、悪意は欠片もないことはわかっているので、俺はしぶしぶその手を取っていた。
そういえばこいつ、店なんてやってたんだ? と思いながらチリンチリンと音が鳴るドアをくぐったら、古めかしい、渋い緑色の椅子が並ぶ店内が広がっていた。
「……喫茶店?」
「うん。おじいちゃんの店だったんだけど、三年前に亡くなったから、僕が継いだんだ。あ、なんか食べる? フレンチトーストなら仕込みはすんでるから、焼くだけですぐに出せるよ」
奥の、一番ゆったりとしたソファに座らせてもらうと、犬山はすぐに水を運んできた。
昨夜は飲み屋にずっといたが、アルコールしか口にしていなかったので、水はずいぶんと新鮮に思えた。
口をつけたら、一気に飲んでしまった。
水がこんなにおいしいと思えたのは初めてだ。
「悪い。いま金持ってないから、代金はまた今度……」
「え? あはは。代金なんていらないよ。生き倒れてた友達からお金なんてもらえないって。待ってて、フレンチトースト焼いてくるから」
ひらひらと手を振りながら、犬山は厨房に引っ込んでいった。
(友達だったのか、俺たち……)
少なくとも俺は、友達だと思ったことは一度もない。
犬山は男女問わず誰とでも仲良くなるやつで、それなりに喋ることはあったが、連絡先も知らないし、休日に一緒に遊んだこともない。ただの同級生の一人だった。
なのに、向こうからは友達だと思われていたんだとしたら――うまく言えないけど、なんだかくすぐったい気分だ。
座っていたら、また眠くなってきた。
ソファに横になろうとしたけど、アンティーク調で趣のあるソファを汚すのは申し訳ないと思い、せめて汚れた上着だけでも……と脱ぐ。
上着は適当に丸めて、枕代わりにした。
どうせ安いスーツだ。あとでクリーニングに出せばいい。
「はい、おまたせ。あれ? 中島くん、寝ちゃってる?」
うとうとしていたところで、犬山が声をかけてきた。
ものすごくいい匂いもする。
反射的に、お腹がきゅう、と鳴った。
「悪い。二日酔いでだるくて……」
「あとで酔い止めの薬を持ってこようか?」
「一応言うがおまえ、乗り物酔いの薬は持ってくるなよ。二日酔いの場合は、胃腸薬系だ」
「あれっ? そうなんだ? 一応、万が一食中毒が出た場合に備えて胃腸薬は常備してるけど、それでいいかな?」
「万が一でも食中毒は出すなよ」
よく考えたらこいつ、高校の時、カレーを作る調理実習でなぜかホワイトシチューを作っていたが、店に出すような料理なんか作れるのか?
今さら不安になってきたが、テーブルの上に置かれたフレンチトーストは、とても美味しそうだ。
ぐぅ、とまたお腹が鳴る。
「食べなよ。あったかいうちが一番おいしいからさ」
犬山はにこにこしながら言う。
「……いただきます」
甘い匂いが空腹を刺激してくる。
一抹の不安はあったものの、俺は食欲に負けて、両手を合わせた。
最初のコメントを投稿しよう!