フレンチトーストには甘い魔法がかかっている

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 かじると、バターのしょっぱさと砂糖が絡んだ卵の甘みが口の中に広がる。 「……っ」  美味しい。  慎重にかじったのは一口目だけ。  あとは勢いよくガツガツと食いついていて、一瞬で食べ終わってしまった。  空っぽだった胃が満たされていく。  優しい甘さに、ついつい涙腺がゆるんでいて、俺はいつのまにか、ポロポロと泣いていた。 「はい」  フォークを皿の上に置いたのと同時にカップが差し出される。  中を見ると、熱々のコーンスープが入っていた。 「それも自家製なんだ。あ、コーンクリームは市販のやつだけど」  粉に湯をそそぐだけのインスタントとは違う、濃厚でまろやかな舌ざわりのするスープだった。  熱いので、フレンチトーストみたいに一気に口に押し込むことはできない。時間をかけて、ちびちびと飲んだ。  その間も、涙は止まることがなかった。 「……ねぇ、なにがあったのか、聞いてもいい?」 「そんな、人にするような話じゃねーよ」 「彼女にフラれたとか?」 「…………」  違うけど、女絡みであるのは事実だ。それも、彼女にフラれたとかよりもしょーもない事実である。  はぁ、と俺はため息をついた。 「…………推しが結婚して引退しちまったんだよ」  スープはまだ飲み終わっていないが、胃がある程度満たされて気分も落ち着いたところで、俺は口を開いた。 「推しって……アイドルとか?」 「そう。テレビに出てるような有名なグループじゃないんだけどな。曲がすごいよくて……みんな元気で可愛くて……ついつい応援したくなるような感じの子たちなんだよ」  だから地方での公演も必ず駆けつけたし、CDを大量に買い込んで毎回握手会にも並んだ。  部屋の壁にはポスターをたくさん貼ったし、ランダムのアクリルスタンドは、推しが出るまで買った。  仕事以外のすべては、そのアイドルを追いかけるために費やされていた。  むしろ仕事も、推しに貢ぐ金を稼ぐためにやっているようなものだった。  つまり、俺の人生のすべてだった。  昨日のライブ。最前列を取れた俺はご機嫌で参加していたが、待ち受けていたのは、推しの引退宣言だった。  突然のことだった。  今まで、浮いた話などひとつも聞いたことがない子だった。  あんなに可愛いんだから男がいても仕方ないよな、とか。別に俺と付き合ってくれるとか夢を見れるほどバカではなかったけど、とかいろいろ思いはあるが、ショックのあまり俺はライブのあとのチェキ会にも参加せず、飲み屋に入ってガバガバと酒を飲んでいた。  俺の推しのグループのメンバーは全部で七人。  彼女は一番人気というわけではなく、センターでもないから、グループ自体は今後も活動継続する。  後日、新メンバーのオーディションを行うとのことだった。  俺が選んでグッズを買っていたのは一人だけだが、俺はグループそのものが好きでファンをやっていた。  ただ、彼女がいないあのグループなど……正直、二度と見たくないと思ってしまった。  急に生きがいを失って、明日からどうやって生きていけばいいんだろう。  推しに貢ぐためにけっこう金を使っていたから、貯金はほとんどない。  おまけに財布まで盗まれてしまった。  次の給料日まではあと二十日。  絶望的だ。
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