体育祭の話

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午前中で全ての出番を終えた俺は結局午後はいつも通りそのまま例のベンチでだらだら過ごしてしまったのだが、それでも久しぶりの運動の影響は大きかったらしい。 夕飯を食べて風呂に入った後、テレビを見ながらうっかりうたた寝をしかけていたようで、携帯の着信ではたと目が覚めた。 俺よりも競技に出ていた小島はもっと疲れているらしく、ソファーの隣でクッションを抱えこみいつの間にか完全に寝息をたてている。 とりあえずテレビを消し、それから心持ち声をひそめて電話に出た。 「もしもし?」 『あれ、もしかして寝てた?』 「ちょっとだけ。もう終わりました?」 『うん、終わった、というか抜けたんだけどちょっと問題があって』 「問題?」 『同じ階でまだ続きやってて、結構人の出入りがあるから来てもらうの危ないかなと思って。俺がそっち行ってもいい?』 「あ、そうなんですか。俺は全然いいんですけど」 小島の気持ちよさそうな寝顔に少し悩んだが、結局起こすことにした。 肩を揺すると小島は眉を寄せ、そして小さく唸って俺の手を払いのけた。 「なーに、眠いんだけど。あと50分……」 「なげーよ。寝るならちゃんと部屋で寝なよ」 「動きたくなーい」 「じゃあいいけど、先輩呼んでいい?」 「先輩って?」 眠そうに目を擦った小島はしぶしぶといった風にうっすら目を開き、そして一拍おいてかっと目を見開いた。 「えっ、会長様?」 「うん」 「来るの? 今から? 僕どっか行ってた方がいい?」 「いやまあ、別にここで寝てていいけど」 「待ってやっぱどっか行く! 大谷の喘ぎ声なんか聞こえたら気まずすぎる!」 「喘っ、ぎはしないけど」 「いやいや嘘でしょ何その間!」 「ちが」 「すぐ出るから! ちょっと待ってもらって!」 ついさっきまで寝ていたのが嘘だったかのように機敏に身を翻した小島は、自分の部屋に飛び込んだかと思うと上着や携帯や何やらを掴んで出ていった。 「言っとくけどめっちゃ壁薄いからね! 隣から苦情来ないようにくれぐれもくれぐれも気をつけなよ!」 との忠告を置き土産に。 半分呆気にとられながらそれを見送り、そこでようやく繋がったままの携帯の存在を思い出した。 「あー……すいません」 耳に当てた携帯からは、押し殺しきれなかったらしい先輩の笑い声が漏れていた。 『ハハ、ごめん、小島くんに悪いことしたな。追い出しちゃったみたいで』 「いや大丈夫なので、あの、いつでも来てください」 『うん、じゃあ後で』 という会話を経て数分後にやってきた先輩は、パーカーのフードを深くかぶり、サングラスとマスクで顔を隠していた。ポンポンつきの帽子はやめたらしいが、やっぱりどこからどう見ても不審なことには変わりなかった。 「帽子どうしたんですか?」 「西園寺に取り返されちゃった。あいつやたら気にいってるから」 「へえ、西園寺さんが使うにもかわいすぎるような気もしますけど……あれ」 と思わず言ってしまったのは、サングラスとマスクを外した先輩の顔がほんのり赤かったからだ。 「飲んだんですか?」 だから尋ねると、先輩は手の甲で頬を触り、そして頷いた。 「赤い?」 「ちょっとだけ。初めて見た」 「一緒に飲んだりしないもんな。俺もそんなに強いわけじゃないし」 「へえ、なんか強そうと思ってました」 「そう?」 微笑んだ先輩は、さりげなく俺の肩を抱き寄せるとそのまま部屋の奥に歩き出した。 言われてみれば確かに、普段しないような接触やいつもより少しだけとろんとした目に酒の影響が見え隠れしていた。 「ごめんな、遅くなって。本当はもっと早く抜けようと思ってたんだけど断りきれなくて」 「いや全然、せっかくの打ち上げだったのに俺こそ邪魔しちゃって」 「邪魔なんかじゃないよ。俺が早く会いたかっただけ」 「……」 それからこのストレートな物言いもそうなのだろうか。いやどうだろう、いつもこんなんだったっけと思い返そうとしてみたが、先輩の甘ったるい表情や声にあてられてしまったのかうまく頭が働かなかった。 内心一人慌てているうち、先輩は俺の腰をするりと撫で、短く唇を押し当ててきた。 宏樹の部屋でいいの、と耳元で囁かれ頷くと、そのまま部屋に連れこまれ、性急にベッドに押し倒された。もう一度深く合わさった唇や舌からはいつもとは違って、かすかにアルコールの味がした。頬を両手で包まれ、熱を帯びた、でも優しい目で見下ろされる。 「かわいいなー……やっと触れる」 「ん……」 「宏樹がいつもここで寝てるんだと思うとなんかめちゃくちゃ興奮するなあ」 「うん……あの、もしかしてちょっと酔ってます?」 「酔ってはないんだけど、でも浮かれてはいる。宏樹が初めて誘ってくれたのが嬉しくて」 「ああ、そういう……」 「俺だけしたがってるんじゃないんだなって、一方通行じゃないんだなと思ったら嬉しくて、いややっぱ酔ってんのかな、浮かれてちょっと飲みすぎたかも」 先輩は赤い目元を擦りながら少し照れたように微笑んだ。 かわいいな、と思った。昼間見た格好いい生徒会長とは違う、いつもの、多分俺だけがひとりじめできる先輩だった。 思わず手を伸ばすと、先輩は嬉しそうに頬をすり寄せてくれた。 「一方通行なんかじゃないですよ。もっと早く言えばよかったですね。実は何回か失敗してて」 「え、そうなの? いつ?」 「この前将棋した時とか……本当は別に将棋に誘うつもりじゃなかったんですけど」 「ああ、そうか、そういうことか。結局俺から誘っちゃったんだっけ」 「自分からどうすればいいかも分かんなかったし、ちょっと慎二さんに相談したりもしたんですけど結局なんか言えなくて」 「高槻とそんな話してんの? ずいぶん仲良くなったなあ」 「仲良いというか、なんかつい色々話しちゃって」 「そっか」 先輩の声は、どことなくしんみり聞こえた。 もしかして気にしてますかと尋ねてみると、曖昧に首が振られる。 「ううん、大丈夫」 「本当に? 何かあるならこの際全部言っといてください」 「うん、……」 多分少し悩んだのだろう。 一拍置いた先輩は、結局小さく頷いた。 「気にしてるかどうかと言われればまあ、やっぱり気にはしてるよ。高槻も小島くんも、あと安田くんと上野くんのことも」 「え、全員? 誰とも何もないですよ」 「それは分かってるんだけど。でもやっぱり、何だろう羨ましいのかな、皆堂々と宏樹と仲良くできるし。俺も人目を気にせずにイチャイチャしたいなって。まあ隠さないといけないのは俺のせいなんだけど」 人目を気にせずにイチャイチャ、というのは俺の性格的にそもそもどうかとは思うが、確かにこそこそせずに例えば一緒に昼食を食べるとか登下校するだとか、そういう憧れはないではなかった。 多分それは先輩が生徒会長でなければ可能だったはずのことで、そう考えると少し惜しいような気持ちにもなったが、 「でも本当は誰にも知られなくても、こうやって宏樹が俺のこと好きでいてくれて一緒にいられるだけで十分幸せなはずで、そもそもそれ自体夢みたいなことだったのにな。何で贅沢になっちゃうのかな」 確かにその通りでもあった。 先輩と付き合い始めた時、それから夏休みに一度別れを覚悟した時のことを思い出してしまった。 その時のことを考えれば、今こうして先輩と付き合えているだけで幸せなはずだった。他人がどうこうなんて気にしなくても、先輩が俺を好きと言ってくれているだけで。 「……そうですね、本当に。なんか初心に返った感じ」 「俺も。初めて会った時のこと思い出した」 「そこまで遡るんですか」 「うん。宏樹あの時警戒心むき出しだったよな」 「そりゃまあ、風紀だったらどうしようと思ってたし」 つられて俺も思い出した。 一番最初、入学したての春に例のあのベンチで初めて先輩に声をかけられたときのことを。 一服中に突然現れた先輩が誰かなんて知らず、だからもちろんまさかこんな関係になるだなんて思ってもみなかった。そう考えると不思議な気分で、でも尚更やっぱり幸せだなと思った。先輩が俺を好きになってくれて、俺を見つけてくれて、本当に良かった。 「それが今じゃこうやって何でもさせてくれるんだもんなあ」 目尻を下げた先輩は、戯れるように頬に唇を押し当ててくる。 くすぐったくて思わず笑ってしまうと、先輩も笑って唇を追いかけてきた。 「やっぱり幸せ者だな、俺。なあ、今だけは独り占めしていい?」 「うん……あ、でも」 ふと思い出したのは、小島の言い残した言葉だった。 「お手柔らかにお願いします。壁薄いらしいし」 俺の言葉に、パーカーを脱ぎ捨てた先輩はすっかり霧の晴れたような顔で笑った。 「善処する。けど全然自信ないな」 「え、いやそこは自信持ってほしいんですけど」 「大丈夫大丈夫。多少なら誰も何も言わないって」 「えっ? ちょっと待っ……」 思わず待ったをかけようと思ったが時既に遅く、結局そのまま流されてしまった。 ただ、口ではそう言ったものの実際先輩はとても優しくしてくれて、俺はその晩も翌日の休みも思う存分先輩を独り占めしたのだった。
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