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里の桜
里の桜は美しい。山桜もそれなりに美しいが、里の、特にここの桜は美しかった。
山桜は開花の頃には若葉も開いてくるが、里の桜は葉が遅く、薄紅色一色になる。野原に一本だけのここの桜は、群れて咲く桜と比べ、凛として何にも代えがたい美しさがあった。
桜の根元に座り、まだ五分咲きの花を見上げて飽きずに眺めていた。
「そこに座っちゃだめだ」
子供の声がしてそちらを見ると、十を少し過ぎた位の男の子が立ってこちらを睨んでいた。
「そこは神様が座る場所だ。注連縄に気づかないか? 人が花見をする所じゃない」
桜の幹には立派な注連縄がかけられていた。ご神木なのだ。
「そうか、それは悪かった」
女は素直に立ち上がった。
「うん。わかればいい」
少年の大人びた口調が可愛らしい。
「この村の子か?」
「そうだ。姉さんはどこから来た。村の者ではないな」
女は長くつややかな黒髪を無造作に一つに結び、つんと上を向いた小ぶりの鼻に大きな瞳は意志の強さが窺えた。美しい顔立ちだったが、肌は日に焼けていた。村の女も農作で肌黒かったが、垢ぬけていて明らかに村の者とは違っている。
「町から逃げて来たのか? 飯盛女が時々この村に逃げて来るぞ」
飯盛女とは何者かも知らぬまま、少年は大人の言葉を混ぜて尋ねる。
「いや、違う。旅をしている」
「女の一人旅は危ないぞ」
ませた口調に女は微笑む。
「でも羨ましいな。俺も一度でいいからこの村を出て、外の世界を見てみたい」
「ほお。小さいながらもそんなことを考えているのか」
「小さくなんかないさ!」
少年は少しむっとして答えた。
「もう子供じゃない。お父の元で修業も始めた」
「修業? なんの修業だ?」
「お父は木工職人だ」
自慢げに少年は言った。
少年の父は若い頃、師匠について修業に励んだ腕のいい仏師だそうだ。しかしこんな田舎ではそんな仕事はそうそうなく、木工の腕を生かして大工仕事から指物師の真似事までいろいろやっているという。
「ではお前も木工職人を目指すのか?」
「ああ。お父みたいになりたい」
少年は肯いた。
「ふふふ。頼もしいな」
それから女はもう一度桜を見上げた。
「そうだ、教えてやる」と少年は改まって言う。
「この木は“神桜”と呼ばれている。満開になる頃、神様がここに花見にいらっしゃるんだ。その日は誰も邪魔してはならん」
「そうか。それならその前にここを立ち去るとしよう」
女はそう答え、立ち上がると、少年を見た。
「会えて嬉しかった。ときにお前の名前を教えてくれ」
「枢だ」
女に問われ、少年は答えた。
「枢か。覚えておこう」
そう言うと女は去っていった。
少年は女の後ろ姿を見送ってから、自分は女の名前を聞かなかったことに気付いた。
飯盛女…宿場の私娼
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