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 目の前で倒れ、気を失った女を放っておくわけにもいかず、枢は女を家に運んだ。  抱き上げた女の首筋から、優しい花の香りがした。ああ、この香りは何の花か……。思い出せないが確かに知っているはずだと思った。  粗末な住居の、薄い布団の上に女を横たえ、枢は女の手足についた傷の手当てをしてやった。右足は(くじ)いたのか紫色に腫れ上がっていたので、擦り潰した薬草を布に塗って貼った。  しばらくすると、女は目を覚ました。 「ああ、ここはどこだい?」  女はしばらくぼおっと虚ろだったが、枢の顔に焦点が当たるとはっとした。 「俺の住まいだ。あんたが俺の前で意識をなくしたもんだから、しかたなくここに運んだ」  枢は答えた。 「助かったよ」   「飯盛女か?」  何かに追われているように見えた。宿場から逃げてきたのだろう。 「ああ、まあそんなもんだね」  女は否定しなかった。  それから女は土間と、囲炉裏のある狭い板敷の、殺風景な住まいを見回した。 「あんたは、ここに一人住まいかい? 家族は?」 「いない」 「そんな偉丈夫で男前なのに、嫁さんもいないのかい?」 「ああ。悪かったな」   「ふふ、まあいいさ」  女は何が可笑しいのか笑って言う。 「そんなら、しばらく(かくま)っておくれよ。飯炊きくらいはやるからさ」    見ず知らずの男の一人住まいに豪胆なと思ったが、枢はこれから忙しくなる身だからそれもいいかと拒まなかった。  女の年齢(とし)は枢と同じが少し上だろうか。豊かな黒髪を一つに結び、粗末な木綿の着物の衿は大きく抜いていた。陽に灼けた肌は健康そうだ。 「昔どこかで会ったことはないか?」  女の姿に過去の誰かの記憶が手繰り寄せられてきそうだった。 「さあて、どうだろうね?」  女の方には、思い当たる節はないらしい。 「そうだ」  枢ははっきりと思い出した。 「さっきの桜の前で、俺が子供の頃の話だ」  十の頃、神桜の前で花見をしていた女のことを思い出した。 「さあてね、そんな昔にあたいがこの村に来た覚えはないがね」  それもそうか、気のせいだと枢は思い直した。女の年恰好はあの時のまま、そんなわけあるはずもない。 「人違いか……」  枢は得心した。  女との共同生活は、こうして始まった。  住まいの横に作業場にしている小屋があった。  枢は日中は作業場に籠っていたので、女はその間好きに過ごしているようだった。  女は文句も言わず、朝、昼、夜と簡単な炊事や洗濯をしてくれた。 「誰かに追われているのか?」  一度だけ、夕餉のときに聞いた。  女の足はもう治っていたが、出て行く様子はなかった。 「いや、そういうわけじゃないが、もう少しだけここに置いておくれ」  女はそれ以上何も話そうとしなかったので、枢も聞かなかった。  枢は女の名さえ知らないし、枢も名乗っていない。まあ、二人しかいないのだから、お互いの名前なんてどうでもよかった。  夜は狭い板の間の端と端に薄い布団を離して敷いて寝た。若い男女が狭い家に二人きり。間違いが起きてもおかしくなかったが、枢は御神体を彫る大切なお役目の最中だし、女の方は床に入ればすぐに眠ってしまうので、起こるはずもなかった。
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