山神様

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山神様

 枢は乾燥させた神桜の、割れが入りやすい芯を除いた部分で、一番木目が美しいところを角材に仕立てて作業場に用意していた。  これを彫れば、二尺弱の山神像が現れる計算だった。  しかし枢は(のみ)と金槌を手にしても、最初の一打がなかなか打てなかった。迷いに迷い、木と睨み合う状態が幾日も続いていた。 「なんだか、大変そうだねえ」  声に振り返ると女が腕を組み、作業場の開いた木戸に寄りかかっていた。いつからそこにいたのか、気付かなかった。 「あんたが修業してきたのは、このためなんだろ?」 「ああ。親父も祖父もできなかった御神体造りだ」 「悩むことなんてないんじゃないかい? それはあそこにあった御神木なんだろ?」  女は角材を顎で指し示した。 「そうだ」 「だったら簡単じゃないか。既に木の中に山神様は宿ってるんじゃないのかい? それをあんたが木を削って取り出してやればいいだけの話だろ」  女がなんでもないという風に言った。  そんな簡単なことではない──と反論しようとして、枢はふと小さい頃の、父との会話を思い出した。ご神体造りの話を聞いていた時のことだ。 「山神様ってどんなお姿なの?」と枢が聞き、父は確かこう答えてくれた。 「なあに、その時が来たらわかるのさ。木の中にもう山神様はいらっしゃる。それをお前の鑿と小刀で彫り出してお迎えすればいいんだ」 (そうか!)  迷いが消えた枢は、最初の一打を鑿に加えた。  それから枢は寝食も忘れ、一心不乱に作業を続けた。作業場には夜遅くまで蝋燭の火が灯され、鑿を打つ音が聞こえた。女が用意してくれた握り飯が作業場の扉の内側に置かれていたが、食べないまま朝を迎えることもあった。  そうした夜が何日も続いたあと、山神様の姿が大まかにだが現れた。これからは小刀や丸刀、平刀、三角刀などを使って細かな細工を彫っていくのだ。 「ねえ、こんなの続けていたら、あんた死んじまうよ。今日はこっちに来て、一緒に夕餉を食べようよ」  ある晩、作業場の木戸が開き、女がそう声をかけた。 「ああ、わかった」    先が見えて余裕ができ、枢は素直に従った。  枢が作業場から住居に戻ると、土間に(たらい)が置かれ、そこにお湯が張られていた。 「あんた、何日もそのまんまだから臭いんだよ。お湯に浸かって綺麗になっておくれ」  女は有無を言わさず枢を下帯一枚にして、そのまま盥に腰まで浸からせる。ちょうどよい湯加減に、枢はふうっと声を漏らす。 「御神体を彫るお役目なんだ。もうちょっと身綺麗にしたらどうだい」  本当なら(みそぎ)をしてから始めるもんだろうにね──などとぶつぶつ言いながら、女は枢の背中を手拭いで洗ってくれた。(たくま)しい背中を女の手が優しく動く。  疲れが消えていくようだった。  湯浴みをしたあと、枢は女が用意してくれた夕餉の席についた。  その夜、少し離れて休んでいた二人だったが、お互いを意識して眠れず、やがてどちらともなく抱き合った。 「枢」  女が枢の名を呼んだ。名前を知っていた。 「やはりお前はあの時の……」  名前を教えたのは、十の時、神桜の前でだった。 (あの時と姿も年恰好も変わらないこの女はいったい──?)  一瞬、そんな疑念が()ぎったが、そんなことはどうでもよかった。 「本当はいけないんだよ。こんなこと……」  枢の腕に抱かれながら、女は耳元でそう切なげに呟いた。  翌朝──。  久しぶりにぐっすりと眠った枢が目覚めると、女の姿は消えていた。  朝餉が用意され、女の布団は綺麗に畳まれていた。  枢は驚いて辺りを探したが女の姿はなかった。  しばらく茫然と日を過ごした枢だったが、やらなければならないことがあった。  作業場に籠り、無我夢中で山神様を彫り続けた。  彫り進めて現れて来る顔の表情、豊かで艶やかな髪、凛とした立ち姿、すべてが誰かの面影を宿していた。 ※一尺…約30センチ
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