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「最初は従業員に店の金を持ち逃げされてな。そこがケチのつきはじめさ。足りない金を借りたらそこが悪徳金融だったり、うまい儲け話に乗ったら投資詐欺だったり。そんなこんなで店の評判まで落としたもんだから、とうとう大将を怒らせて暖簾も召し上げになっちまったよ」
店主は笑うでもなく怒るでもなく、どこか遠い目で懐かしむように紫煙を吐いた。
「そのときには家内も子どももいたんだ。家内なんか、毎日口酸っぱく小言を言ってな。やれうまい話には気をつけろだの、やれ人を信用しすぎるなだの。俺はそれを全く聞いてやらなんだ。結局、愛想を尽かされたよ。後から考えてみれば全部その通りだったのにな」
「……奥さんと子どもさんって、今は?」
「さあ、わからんね。俺も生きるのに必死で、探してやることもできなかった。あっちとしても、その方が面倒に巻き込まれずに良かったんだろうけれどもな」
私は冷めたおでんを見つめ、必死に言葉を探していた。
けれども、人生のおよそ半分を物書きに費やしてきたというのに、今この時にふさわしい文章はちっとも浮かんでこなかった。
「それでも、ラーメン屋なんですね」
「くくくっ。ああ、結局ラーメン屋さ」
口をついて出たのはそんな愚問だったが、店主は笑ってくれた。
「屋号も変えて、屋台からもう一度やり直し。俺はさっき言った通り、酔っ払いも苦手でな。屋台のラーメン屋なんて酔っ払いばっかり来るってのに、全くバカみたいな話だろう?」
「いえ、そんなこと」
私は思わず顔を上げた。視線が、柔らかな店主のそれとぶつかった。
「姉ちゃんは、俺が苦労していると思うか?」
「お、思います。私なんかよりもずっと苦労されてるのに、すごいなって……」
「そいつは違うぜ」
「え?」
「人には人それぞれ、他人には分からない苦労があるってことさ。それは俺だって姉ちゃんだって同じ。姉ちゃんが四苦八苦しながら文章を絞りだすのも、俺が汗だくになってスープを煮込むのも、そこに見かけの違いこそあれ、当人にとっての重みは変わらない。俺はそう思うんだ」
私は戸惑う。そのうちに店主は、カウンターの隅にあった桜の枝を瓶ごと引き寄せた。
彼の手の中で、枝がくるりと半回転する。
「俺がこの花を嫌いなのは、そこなんだよ。春に綺麗な花を咲かせるために、冬の寒さに耐えて蕾を精一杯太らせる。そのくせ花が散れば、緑を一杯に茂らせていかにも普通の木ですという顔をしやがる。そんなふうに、咲き誇るための苦労を全くもって感じさせないところが、一向気に食わないんだ」
けれど、大したものだとは思っている、と。彼はそう言った。
その言葉に私はうなずいて、散り始めの桜の枝に目をやる。
私は、果たして本当に桜が嫌いなのだろうか?
あるいは、桜を好きと臆面もなく言える人々の無邪気さ。それこそを本当は嫌っているのではないだろうか?
その答えは、すぐには出そうになかった。
「逆に、みんなはどうして桜が好きなんだろうな」
店主にそう問われ、私の中でひとつの単語が像を結んだ。
「『魔性』なんじゃないでしょうか」
「魔性?」
深く考えもせず、それだけが口をついて出た。
それはしかし、次第にうすらぼんやりと、私の中で意味を成していく。
もしかすると本当にそうなのかもしれない。そう思えてくる。
桜が咲くたび、人は何の疑問も抱かず、その姿に見惚れる。咲き誇る花とともに酒に酔い、理性のタガを外す。
美しくも滑稽に、魔が差すほどに魅入られる。それが悪魔の仕業でなくて、何といえばいい?
「魔性、か」
店主は、かみしめるようにそう呟いた。
カップ酒の瓶に挿してある一枝の桜を、二人そろって見つめる。
ひねくれ者どもにしてみれば、これくらいがかえってちょうどいいのかもしれない。
「あの、お酒ってあったりしますか?」
私は店主に訊いた。
「どうしたんだい急に」
「花見酒というのを一度、やりたくなりました」
返事も待たず立ち上がり、私はカウンターのグラスをふたつ手に取った。
「よければ、ご一緒しませんか」
「本気かい?」
「それはもう、ぜひ」
「……しょうがねぇなぁ」
店主が引っぱり出した安酒を酌み交わし、互いのグラスをチンと突き合わせた。
「カンパイ」
自ずと声が揃う。
桜の枝に一瞥をくれて、ぬるい酒に口をつけた。
私はどうしてしまったのだろう。酒なんて、いつもは飲まないのに。
そんな問いさえ、今は刹那に掻き消える。
小憎たらしい魔性の味。それはどこまでもひりつき、私の喉を心地よく焼いた。
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