But, Blossoms aren't so Bad.

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 その夜も、筆がピタリと止まった。  筆というのはただの比喩に過ぎない。キーをたたく指先が、というのがより正確ではある。  いつものように、しばしの悪あがきをする。  数文字打っては消して、打ってはまた消す。3歩進んで2歩下がるどころの話ではない。  無益な堂々巡りの果て、私はついに観念した。先ほどまで書き綴ってきた部分さえ怪しく見えてきたら、もうどうしようもない。  体を起こし軽く伸びをして、パソコンの時刻表示に目をやる。  日付はとっくに変わっていた。  公募の締切日が頭の中でチラつく。また無為に一日をすり減らしてしまったことに、すっかりウンザリしていた。 (――気分転換でもしに行こう)  一度行き詰まってしまえば、その隘路から容易に抜け出せないのは経験済みだ。  私はパーカーを羽織り、玄関の戸を開けた。自室の淀みきった空気が、澄んだ夜風に吹き流されていくのを肌に感じる。  少し、寒い。無防備な首筋が鳥肌立った。  4月といえど、深夜ともなればまだ息が白むほどに冷え込むらしい。それでも、考えすぎた頭を冷やすにはむしろ好都合だった。  既に灯りもほとんど落ちた通りに、私の足音はカツカツとよく響いた。 行く当てもなくて、ただ何となしに土手を登る小径を選ぶ。  私のアパートは高く築かれた土手の真下にあった。土手の上には数百メートルにもわたって桜の木が植えられていて、この近辺でも有名な花見スポットである。  それで人に羨ましがられることもあるが、とんでもない。最近の花見客のマナーの悪さを甘く見てはならない。  まず、うるさい。朝から晩まで、シャレにならないくらい喧しい。  ペットボトルや空き缶、弁当ガラなどありとあらゆるゴミも落ちてくる。  酔客の立小便も日常茶飯事。県外ナンバーの迷惑駐車も道端にあふれかえる。  桜など関係なく、ただ平穏な日々を求める住人にとって、この季節は憂鬱そのものなのだ。  そういったこともあって、私は桜が嫌いだった。  日本人にあるまじきことかもしれないが、これはもうどうしようもなかった。  コンクリートの階段を登り切り、土手の頂上に出る。川の形に沿って続く、街灯がぽつりぽつりとだけ灯った遊歩道。頭上に連綿と連なる桜のトンネルが、少し不気味な色味を帯びて浮かびあがる。  息をひそめて見渡せば、おそらくは花見の場所取りなのだろう。なだらかな土手の斜面には点々とシートが広げられていた。中には一人用のテントを建て、夜通しの番をしている者もいるようだ。  他人事ながら、ご苦労なことだと思う。  ただ、思うのはそれだけ。こんなにも花見に傾ける情熱への共感を、私は残念ながら持ち合わせていなかった。  遊歩道には露店も並んでいた。  たこ焼きに、フランクフルト。ポテトに唐揚げ、ベビーカステラ。  色とりどりの暖簾の下は、昼間はきっと賑わっていたのだろう。しかし今は何もかもがブルーシートで覆われて、ひっそりと静まり返っていた。  と、眺めていくその中に一つだけ、煌々と明かりを放つ屋台が一軒だけあった。 『ラーメン 花月』、と。それだけが染め抜かれた暖簾がかかっている。  店の前に立つと、プンと醤油のいい匂いが鼻をくすぐった。  目ざとい腹の虫もいつの間にやら起き出して、私に反射的に暖簾を押させていた。 「いらっしゃい」  深夜の来訪に特段驚いた様子もなく、カウンターの奥で50代半ばと見受けられる男の店主が顔を上げた。 「……どうも。まだやってますか」 「お客さんには店じまいのように見えるかい?」 「いえ、そんなことは」 「だったらどうぞお座りなさいよ。ご注文は?」 「えっと、じゃあ」  まだ座らないうちから注文を促され、私はこの店主に少し腹が立った。  けれども、腹のことに関しては腹の虫に一日の長がある。催促するように腹を情けなくグウと鳴らされたものだから、私は慌ててメニューに目を走らせるしか手がなかった。 「ラーメン。煮卵付きで」 「へい、承知」  店主はのそりと立ち上がると、おもむろに麺を棚から取り出して鍋に投じた。  ラーメンを待つ間、私は手持ち無沙汰にスマホをいじった。  ただの暇つぶしのはずが、ついついネットで調べてしまったのは、この「花月」という店のこと。口コミグルメサイトで地域を絞り店名で検索すれば、この屋台もきちんと登録されて、レビューも5個ついていた。  しかし、店の詳細ページを開いた瞬間だった。 「……あっ、えっ」  私は驚愕のあまり、つい素っ頓狂な声を漏らしてしまった。  店名のすぐ下。そこに表示された星が1個半しかなかったからだ。  いくら私が普段スーパーの安売り弁当で日々を食いつないでいるとはいえ、その意味するところを知らないわけがない。星3つのうちの1個半ではなく、星5つのうちの1個半なのだということも、輝きを失ったグレーの星影を数えれば容易に知れることだ。  つまり間違いなく、この店の評判はどん底。  コメント欄も開けば、「接客態度がなってない」だの、「お釣りを投げ返された」だの散々に書きつけられている。
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