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「おや、正体がバレたかな」
外れクジを引いたと、そんな苦々しい思いが表情に現れていたのだろう。
チラと私の手元を覗き込んだ店主は、あっけらかんとそう言った。
「けど、もう注文したんだ。食べ終わるまで逃げられないぜ、姉ちゃん」
不敵にニヤリと妖しい笑みをこぼし、店主は麺の湯を切った。
いつの間にか準備されていた丼のスープに麺が滑り込み、瞬く間にチャーシュー、メンマ、ネギ、ナルト、海苔、そして煮卵で彩られていく。まるで私を逃さないとでもいうように、迷いない手つきだ。
「へい、お待ち」
ドンと目の前に一杯のラーメンが突き出される。
もうもうと上がる白い湯気に醤油とダシの香りが混じりあい、思わずむせ返りそうになりながらも、私はおずおずとレンゲを手に取った。
これが星1個半のラーメン。
一見何の変哲もなく、むしろ食欲をそそられるのにもかかわらず、掬い上げたスープにはどこか得体の知れなさが見え隠れする。
店主が、私をじっと見つめていた。
どこにも逃げ場などない。
私は唇を噛み、覚悟を決めてレンゲに口をつけた。
「……あれ、美味し、い?」
店主がふんと鼻を鳴らしたが、今の私にはそれすら気にならなかった。焦る手つきで割り箸を割り、麺を手繰りあげる。
どこの店にでもあるような中細の縮れ麺。
アツアツのそれを吹いて冷まし、口に含み、啜る。
絡んだスープに舌をヤケドしそうになりながらも、確かめるようにもう一口、そして更に一口。次第に箸が止まらなくなっていく。
やはり間違いない。このラーメン、美味しい。
私の貧乏舌ではとても評価しきれないけれど、少なくとも星1個半の味ではなかった。
「あの、このラーメン、すごく美味しいです」
「そりゃあそうだ。自信がなけりゃ、商売にはしちゃいないだろうが」
賛辞の言葉にニコリともせず、店主は隣の鍋の木蓋を開けた。
「ネタの種類は少ないが、おでんもある。欲しけりゃ言ってくれ」
それだけ言い放つと用事は済んだとでもいうように、カウンターの向こうで椅子にでも腰かけたのか、彼の姿はこちらから見えなくなった。
(あ、そういえば)
私はもう一度スマホを手に取った。あの辛辣なレビューは店主の人柄を散々にこき下ろしてはいたが、味の文句は1件もなかったような気がしたのだ。
記憶はやはり確かだった。それどころか、見落としていた唯一の高評価コメントには、「昔懐かしくもしっかりとコクのあるスープ」というタイトルで、つらつらと丁寧なコメントが書き込まれていた。
確かに客相手の商売とは思えないほど、壮年の店主はぶっきらぼうだ。
けれども、腕は立つ。それも確かだった。
ぞんざいな応対に最初は腹が立ったけれど、今はもう私の中の彼への評価は一変していた。
「――あの」
「ん、おでん?」
「は、はい。こんにゃくと大根、お願いできますか?」
「あいよ。こんにゃくと大根」
思ったよりも私はお腹が空いていたようだ。
あっという間にラーメンを食べ終わってしまい、スープに浮かぶネギを追いかけるのも何だかむなしくて、追加注文をしてしまっていた。
深夜にラーメン+αの罪悪感ときたら。
誰が責めるわけでもないのに何だか居心地が悪くなって、私は視線をさまよわせる。
そこでふと、カウンターの片隅に置かれた「ソレ」に目が留まった。
「へい、お待ち。……あん、どうした?」
「桜、ですね」
「桜って。あぁ、これか」
それはカップ酒の空き瓶に挿された一本の小枝。
緑の葉が少し目立つ、散り始めの桜花だった。
「さっき来た酔っ払いの兄ちゃんが置いて行ったんだ。俺はいらないって言ったのに、無理やりな」
「差し入れのつもり、とか?」
「嫌がらせの間違いだろう。俺は酔っ払いと桜が大嫌いなんだから」
「嫌いなんですか、桜」
おでんの皿を受け取りながら、私は驚き問い返していた。
桜が嫌いな人間なんて、この国で私しかいないと思い込んでいた。突然の同胞との邂逅に、声が上ずってしまう。
「……変だろう? 日本人のくせに、桜が嫌いなんて」
けれど、店主の表情は苦かった。何か余計なことを口走ってしまったとき特有の後ろめたさが、低い声音にもにじみ出ていた。
「そんなことありません!」
私はつい前のめりになった。
「実は、私もなんです」
「はぁ?」
「桜のことですよ。私も店主さんと同じで嫌いなんです、桜」
私の告白に、店主はしばし呆然としていた。
しかし、やがて意味を飲み込めたのだろう。ひどく乾いた笑い声をあげた。
「あははっ。そりゃなんだ、姉ちゃんも俺と同じく、日本人なら誰でも大好きなこの花が嫌いだっていうのかい?」
「ええ、そうです。世にも稀なるひねくれ者同士、今ここにそろったってわけです」
「なんとまぁ、そりゃあ傑作だ」
店主は笑った。笑いを抑えきれないようだった。
私もつられて笑った。くくく……と、喉の奥から笑いがこみあげてきてしょうがなかった。
「はぁ~あ、はぁ……、姉ちゃん?」
ひとしきり笑い、やがて店主は苦しそうに腹を抑えながら、途切れ途切れに訊いてきた。
「姉ちゃんはどうして、桜が嫌いになったんだ?」
「それは……」
私は言葉を探した。
「花のくせに生意気だからです」
「ほう、生意気?」
「そうです。だから嫌いなんです」
そうだ。私は桜が嫌いだ。
植物のくせに、別れと門出の季節を知っている。そんな生意気な桜が嫌いだ。
桜が咲くたび、自分が何者にもなれないまま空虚な一年を過ごしてしまった事実を思い知らされ、胸をかきむしりたくなる焦燥と苦悶とに駆られる。
それなのに、桜ときたら! ただ在るがままの姿で、誰からも望まれているじゃないか。
花に嫉妬するなんて、と。誰もが笑うに違いないのは分かっている。
それでも、私は桜が嫌いなのだった。
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