かみさま

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 珍しい客人だ。このような山奥に人間が来るなど、久方ぶりではなかろうか。例えば、人間の感覚で言えば数年、いや数百年程前だったはずだ、最後に人間と(たわむ)れたのは。  その少年は私に気付かず、その丸太の上に座って足元を見詰めている。遠くから見るに、彼は村を追われたのであろう。でなければ、自分から抜け出したか。いやしかし、村から出るということはつまり、死の潜む森へ足を踏み入れるということ。そのようなことを、成人にも満たない(よわい)であろう少年が進んでそのようなことをするのか? 私には人間はわからない。  近くの村と言えば、人間の足で歩いて数日はかかるのではなかったろうか。その所為(せい)だろう、彼の身に着けるものは服とも言えない程に破け、汚れている。いや、これを服と呼んでも良いのか、そう呼べるのか。ただの布を一枚(まと)っているだけのようにも見える。私は人間の生活を知らない、今はこれが常識なのだろうか? それにしても、冬が近いと言うのに、私より遙かに非力な人間がこのような姿で居ては、()ぐに死んでしまうだろうに。  少し近付いてみる。すれば、顔や腕、脚にも腹にも、生傷が覗いている。未だ血が滲む箇所もあるようで、思わず笑む。おや、少年の足には纏うものがないらしい。もう少しだけなら、近付いても大丈夫だろう。よく見れば、この辺りの土に黒ずみ、爪が()がれかけている。それに、じめっと湿気の溜まったこの森の奥に、ふやけているようでもあった。人間はその足で歩むのだ、いちばん傷が多いのは当然のこと。しかし少年が足元を見たまま動かずに、人間の正しい感覚はわからないが、しばらくが経っているように思う。体力や痛みの限界なのだろうか。  しかしまあ、本来なら小綺麗な少年だったのであろうことは容易に見て取れる。数日間の彷徨(ほうこう)による髪や服の乱れに加え、傷や汚れのことを考えても、此処まで整った人間を見たことはなかった。それに布一枚のみと言えどあれは、記憶が正しければ、高価な布だったように思う。ということはつまり、少年はそれなりに恵まれていたのではなかろうか。村の中でも高貴で裕福な家の生まれ、家や村を追われたのではない、ということになろう。まあ、私が見たことのある人間の数のことを思えば、その中でどうあろうと実際の人間の基準には程遠いのかもしれないが。もしそうならば何故このようなな場所まで、しかもその足を使って来てしまったのであろうか。  ふと、少年が顔を上げた。想定外だった。考えごとに夢中で隠れるのが遅れ、少年と目が合ってしまった。まずい、人間にこの姿を見られるのは。折角(せっかく)のご客人を楽しむことなく、逃げられてしまうかもしれない。もしかすると逃げようとすることすらもできず、その場に(くずお)れるだけかもしれないが。  しかし、少年は微笑んだ。この姿を見たというのに、その座った丸太から立ち上がろうともせず、こちらにその美しい笑みを向けている。この、人間とは全く異なる、(おぞ)ましい私を見ても尚、震え上がるでも腰を抜かすでもなく、ただ微笑み続けているのだ。 「あなたは、だあれ?」少年は舌っ足らずにそう聞いてきた。「ほんものの、かみさま?」  いつぶりだろうか。私は、人間たちにそう呼ばれていたことがあった。今の今まで忘れていた、昔の話だ。  私は(いく)らかある腕のうちの一本をすうっと少年に伸ばした。それを……どうすべきかもわからず、少年の身体に巻き付ける。自分で何を考えてそうしているのか、全くわからなかった。腹の奥底で何やら音が鳴ったような気がして、数年程ちゃんとした肉を喰っていなかったことを思い出す。喰うのか、この少年を?  彼は私を「かみさま」と呼称(こしょう)した。本当に私を神だと思っているのだろうか、そんな過去を知っているのか。そもそも、少年は何の(ため)に此処まで歩いてきたのだろう。まさか私に会う為ではあるまい。近隣の村の長にすら忘れ去られているような私だ、よもやこのような六つにも満たない少年が私のことを知り、そして会いに来るなどと、どうしてそんなことがあろうか。 「これは、かみさまの、て?」  少年は問うた。客人と話をするなど、数百年ぶりなのだ。上手く声を出す方法を思い出せない。そもそも、私に声などという代物(しろもの)が備わっていたかすら、記憶の彼方深いところに仕舞われている。  答え方を思い出そうと力を入れていたらしい、少年が小さく(うめ)いた。そうだった、人間はその辺りにいるような者共とは全く異なる存在だ。少し力加減を間違えるだけで殺してしまうことになろう。それでは興が冷めるというもの。 「あなたも、ぼくを、いじめる? ぼく、ぼくは……」  少年がそう言ったのは、手を離そうとしたときだった。ひゅっと空気を飲み込んだ少年は、微笑んでいたときとは打って変わって、綺麗に整った顔を恐怖に歪ませていた。  つまりは、村で(いじ)められていたのだろう。それから逃げる為に、態々(わざわざ)このような場所まで歩いて来たという訳だ。全身の力が勝手に抜けていった。情が沸いた訳ではない、私にとっていつぶりかの客人――食糧となる予定だったのだ。喰うべくものに情などあってはならない、飢えが進むのみだ。  しかしただ、この少年を今喰おうとも肉付きも悪ければ不味そうだ。 「ぼく……」少年は涙を流しながら、言葉を繋げていく。「ぼくには、いてもいいばしょなんて、ないんだ」  少年は先程とは全く異なった笑みを浮かべた。安堵(あんど)ではない、期待でもない。そこには感情などない。自身の考えや思いを、自我を潰すような。感じてしまった恐怖を強いてなかったことにしようとする、無理から発する表情だ。およそ、人間らしからぬもののように思う。かつて私と戯れた人間たちは、そんなものを見せたことはなかった。しかしどうだろう、この少年には慣れた動きがあるように見えた。いつものようにやって見せた、というような何かを感じた。私の勘違い、だろうか。  彼に巻き付けていた腕を全て遠ざけ、私の元に戻す。同情などはない、哀れみも憐憫(れんびん)もない。そんなものを感じられる程、人間との関わりを持ってはいない。いつかの私であれば、そのような感情を思い出せたのかもしれないが。  まだこんなにも味のなさそうな、喰える部分もないような少年に手を出す程、腹が減っている訳ではない。  まずは少年に何か(えさ)をやることにした。が、長らく人間の生活について学ぼうともせず、人間と関わろうともしてこなかった私には、何一つ知識がなかった。少年は何を求めているのか、何をどうすることで美味くなるのか、幾ら考えても思い付きそうになかった。  何でも良い、手が届く範囲の様々なものを少年の前に出して選ばせてやろう。そう考えた私は、手当たり次第、森の中にあるものを握りしめた。近くの幼い樹からいつか設置され腐りきった橋、川を流れていた魚や石、ついでにその水や近くに生えた草花、そこらを飛び回る蝶々や地の底に眠る虫共まで。全てこの手の中だ。  ずらっと少年の前に並べて見せてやる。 「かみさま、これ……」感謝でもするのかと思えば、少年は首を傾げて問うた。「これなぁに?」  親切で探してきてやった――手を伸ばしてその場にあるものをぎゅっと握って持って来ただけだが――というのに、見てわからぬものであろうか。 「喰わぬのか」 「ごっ、ごめんなさい」少年は少し驚いた顔を見せてから、慌てて勢いよく両手を振った。「ぼくに、たべものをくれようとしたんだね。でも、ぼく、こういうのはたべられなくて……本当に、ごめんなさい」  ぺこりとお辞儀をした少年は、自重に耐えきれずそのまま前に倒れてしまった。脚を見れば骨が浮き出ており、此処に来た数日前より明らかに痩せ細っている。私の知る人間とは程遠い見た目に、弱っていることは容易にわかった。どうにかせねばなるまい。もちろん、少年の為ではない。いつか私の腹におさまるときの為に、だ。  仕方なく私は、少年に幾つかの腕を貸した。 「では、お前たち人間はどのようなものを喰って生きているのだ」 「そうだなあ……。ぼくはいつも、お米をたべてたよ。お米とかくだものとか、それとお肉とか。みんなはね、あれはシカさんのお肉だって」 「ふむ、そうか」  辺りを見渡してみれば、私から少し離れた場所にいくつかの動物がある。(きつね)(たぬき)、熊や兎に猫又――あぁ、これは動物とは言わないのだったか――、それに少年の言った鹿もある。仕方ない、動物狩りは趣味ではないが少年の為、いや、少年が太るまでの辛抱だ。捕ってやることにしよう。  そこらにいる小動物を狩るのは容易(たやす)いことだ。私が、というより私の腕を近付ければ奴らは勝手に動かなくなる。私の気配に(おく)するのだろう。狩りとは無縁の私に、その楽しみを理解することは難しい。  私の手に鹿が何頭かおさまったとき、やっと少年の前にぼうっと(あかり)(とも)った。「見てっ、かみさま!」などと興奮しているから何かと思えば、ただの火起こしだった。そんなもの、私に任せれば時間を掛けずに済んだこと。ただまあ、少年が初めて会ったときのように晴れやかで綺麗な笑みを浮かべるものだから、悪い気はしなかった。  獣たちをさっさと捌き少年に渡してやれば、既に笑んでいる顔をより崩して、それらを火に投げ込んだ。私でもこれくらいは知っている。何故だかわからないが、人間は肉を焼いて食うのだと、それだけは知っていた。 「おいしいよ、かみさまもたべたらいいのに」 「私には要らぬものだ、お前が全て喰えば良い」 「ふふ、ありがとうかみさま!」  腹の奥だろうか、どこからか温かな何かを感じた。まだまだ、腹が鳴りそうもない。  幾つかの季節が過ぎ、少年も初めて会ったときよりかはしっかりしてきたように思う。この前少年が眠っているときに、全身に腕を巻いてみたことがある。初めてこの手に握った少年とは見違えた、要する長さが倍程にもなっていたのだから。  それなら、と思った。それなら、ここまで成長させ太らせることができたのだから、もう喰ってしまっても良いのではなかろうか、と。しかしどうしてだろうか、この腕に力を入れることはできても、少年を潰してしまうことはできなかった。きっと、少年が呻いたからだ。私が握ったことで、少年が夢の中で似たように(さいな)まれたのだろう、思わず力を緩めてしまった。 「うーん、また寒くなって来たね」少年はこちらに笑みを向けて言う。「冬が近づいて来てるのかな、かみさま」  私が否定しないからだろうが、少年は私のことを未だに「かみさま」と呼称する。そう呼ばれると、心臓を撫でられるような不快感と、いつかを思い出す懐かしさと嬉しさが不思議に混じるのだった。  しかし私は、少年の名を知らない。呼ぶ必要もないし、知る意味もないからだ。此処には私と少年しかいない、私が「お前」と呼べば少年のことを指すしかない。 「ふむ」一本の腕を空に向け、感覚を研ぎ澄ます。「冬はもう、すぐそこまで来ているらしい」  ついでに下の方、どこかの村の騒がしさをも感知したが、そんなことは今はどうでも良いだろう。 「うれしいけど、やっぱり寒いのは苦手だなぁ」  いつか、秋が終わる頃に布一枚でここまで歩いてきた者が何を言う、思いはしたが口にはしない。  ふと、少年に目をやれば小さく震えているのに気が付いた。少し近付いてよく見ていれば、顔が青白いようだ。ああ、可哀想(かわいそう)に――可哀想? 私が、人間の少年に、今そう感じたと言うのか? 信じられない。初めは客人として、私の腹におさめる為の者として受け入れたのだ。それにしては細すぎるからと、美味くなさそうだからとこうして育ててやっていたのだ。それが今ではどうだ、私は少年に、情を持っているのか?  私の腕を切り落とし、それを獣に変化(へんげ)させ、近くの村へ行かせた。食糧を調達したり、少年の着物を用意したり、時には少年が喜びそうな娯楽の品まで手に入れてきた。今思えば、少年を喰う為だけなら必要のないことまでしていた。私は、何を考えているのか。  少年の全身をまじまじと見詰める。最後に人間を喰った記憶だけでなく人間を本当に喰ったことがあったのかも思い出せない。どれくらいの人間であれば美味いのかすらわからない。だが、これくらいなら問題はないように思えた。 「かみさま? ぼくのことじっくり見て、何かあった?」  それなのに、喰ってやろうという気にならない。美味そうだとも思わない。 「いや、どうということもないさ」  腕のうち数本で少年を包み込んだ。 「わわっ、……本当にどうしちゃったの?」 「こうしていれば、温かいか? 何もしないよりかは、少し良くなるだろうか」  少年は目を見開き、この上なく幸せそうな笑みを(たた)えた。それから私の腕に抱きつき、目に涙を溜めながら、こう言うのだ。 「ありがとう、かみさま! ね、大好きだよ……」  私の腹は、しばらく空きそうもない。  下の方が騒がしい。村で人間が暴れでもしているのだろうか。少し前――少年曰く、半年程前のことらしい――にも村の方から何やら音を感じたが、ここまでではなかったはずだ。私はそれが心配でならなかった。  何百年も前のことを思い出し、私に会おうと画策しているのだろうか。それとも、この少年を探しに来るのだろうか。  そもそも、少年は何故このような森の奥までやってきたのか。今まで気にもしなかったが、この際はっきりさせるのが良いかもしれない。少年はまだ、私の手の中で眠っている。  初めて会ったとき、少年はこう言った。あなたもぼくをいじめるの、と。村の中で彼は、毎日のように酷いことをされてきたのだろう。だが、本当にそうだろうか? 私の最初の印象はこうだ。村の中でも高貴で裕福な生まれ、家や村を追われたのではないだろう。つまり、虐めとは無縁だと感じたのだ。そして少年はこうも言った。あなたが本物の神様かと。  全てが繋がりそうになっては、それぞれが離れていく。私の考えが正しいのであれば、やはり村の騒がしさは少年と関係があろう。  どん。  銃声が響く。 「えっ、な、なに……? 何かあったの、かみさま?」轟音に驚いた少年は飛び起きた。「りょ、りょうしさん、かな……、なわけないよね」 「少年よ、お前の名を聞かせてほしい」 「どうして?」 「名を、教えてはくれぬか」 「……ないよ、そんなの。ぼくには名前なんてない、みんな変な呼び方をするもの」  もう一つ、銃声が鳥を飛ばした。私は慌てて手の中の少年を包み込むようにしようとしたのだが、それは(くう)を掴むばかりだった。少年は手の中から飛び出し、森の奥へと走っていた。 「待て、そちらへ行ってはならない!」  どうにか少年を引き戻そうとしたが、成長した少年の足は速く、私の腕では追いつけない。いや、それもあるが、第一は目の前にやって来ようとしている村人の群れが原因だった。十数人が塊となり、それぞれが銃や槍などの武器、もしくは(くわ)(すき)など戦闘にも使えるような道具を持っていた。私は、動けなかった。ここまで近付かれては、気付かれるのも時間の問題。私の速度では逃げ隠れすることなどできまい。  だから腕を一本切り落とし、夜の闇に似た黒の兎を創り出すと、そいつに少年を追わせた。すぐに必要なかったと気付くことになる。つまり、少年は崖から滑り落ちたか、地面が崩れたかして底に横たわっていたからだ。既に手遅れだった。もう、何もできない。しようとも思えない。腹など最初から空いていなかったのだ。  私にできないことなど何一つないと思っていた、そう信じて疑わなかった。そうだ、私は神だったのだから。村人に忘れ去られるそのときまで、本物の神様だったのだ。天候を(あやつ)ることも、腕から生命に似たものを生み出すことも、人間と戯れることだって、できた。(にえ)など――食糧など必要としたことがなかった。人間の傍に居られるだけで良かった。毎日のように感謝をされ、話しかけてもらえる、それだけで良かったのだ。  しかし私は忘れ去られた。そんなところに現われた少年を、どうして愛さず潰すことができよう。私にできないことはないと思っていた、生命を(よみがえ)らせること以外。  私は、無力だ――。  目の前まで迫ってきていた武装村人集団が、私を見つけた。 「ばっ、バケモノ! 総員構え!」そうだろう、私は(みにく)いに違いない。私は、村人を(おびや)かす怪異に違いない。神だったなどとは、誰も思うまい。「撃て! 殺せ!」  重い攻撃が私を襲う。それを横目に抜けていく村人たちは、口々に言っていた。私たちのカミサマを、早く連れ戻さねば。その意味を解することができぬ程、痛みと苦しみ、悲しみが襲ってきた。  それでも、ああ、腹は幸せでいっぱいだった。
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