戦略的撤退

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戦略的撤退

涙が途切れてきたころ、外部活用のトイレを出る。空は、夕焼け色に染まっていた。 ...帰らなきゃ そう思い、長い長い坂を一人下る。やっとの思いで家にたどり着いた。 ドアの音で私の帰宅に気づいた由希ちゃんが玄関まで出迎えてくれる。彼女の表情は、分かりやすく「心配だ」と言わんばかりであった。 そんな由希ちゃんに、私は「ただいま」とだけ気まずそうに言い捨てて、自室に籠った。 ひとりでいたい。この惨めさは、由希ちゃんにすら共有することができない。 そう思ってベッドにうずくまっていると、これまでの由希ちゃんと過ごした時間が脳内に鮮明によみがえってくる。 私のちっぽけな悩みひとつひとつに真摯に向き合ってくれた。私に新しい世界を見せようと奮闘してくれた。 出会ってたったの2週間、血のつながりすらない、そんな中学生相手に彼女は真正面から向き合って、私が少しでもこの小さな世界で生きていたくなるように、思考をこらしてくれた。 だからこそ、由希ちゃんには話せない。 由希ちゃんは宝物みたいに私を大切にしてくれるけど、“学校の世界での私は、誰よりも優先順位が低くて大切にしてもらえません”なんて話せるわけない。 きっと彼女を悲しませてしまう。 そして、由希ちゃんに話せない“つらさ”と共に新たな不安が訪れる。というのは、市総体は二日間開催される。 一日目、つまり今日勝ち進んだ私のチームは、もちろん明日も試合に赴かなければならない。 私は、今日受けた屈辱と同等のものを明日も受けることが確定しているのだ。バスの席順ですら一喜一憂し、試合にも出られず、監督にもなじられる。 バスが事故って試合自体中止にならないかな。それか、高熱を出して休むこととかできないかな。いや、この初夏の時期に熱は“嘘です”と言っているようなものだ。 骨折でもして、本当に“来られなかった”ことを証明しなければ信じてもらえないだろう。 階段から落ちればうまい具合に骨折できないかな。 私の家の一階と二階をつなぐ階段は全部で12段、落ちても死にはしないだろう。 その考えの元、私は自分の部屋を出て一階へと続く階段を見つめる。 もうこれしかない。 私が意を決したとき――― ガラッ 由希ちゃんが、階段を下りた先にあるリビングから出てきた。 その瞬間、目線がかち合う。 この時の私はいったいどんな表情をしていたのだろう。私の顔を見るなり、由希ちゃんは鬼の形相で階段を駆け上がり、私のもとへ来ていた。 超至近距離で対峙すると、私と由希ちゃんの身長差が浮き彫りになる。彼女は私を見下ろしたまま、私の頬を両手ではさむ。そして、深呼吸をしたあと、優しい声で語り掛ける。 「一回落ち着こう」 由希ちゃんは私を自分の部屋へと連行した。そして、ベッドに座るようにと促される。 私たちは、二人で由希ちゃんのベッドの端に腰かけた。 少しの時間沈黙したあと、隣の由希ちゃんが切り出す。 「明日の部活、休むことはできない?」 休みたい。私だって休みたい。けど、休むためには誰もが納得する理由がいる。「それなら市総体を休んでも仕方ない」と部員・顧問を納得させるだけの理由が。 「...休みたいけど、休めない。私は、どこかを怪我しているわけじゃないし、明日高熱におかされることもきっとない。休むことを正当化できる理由がない。」 私の言葉を聞いて少し考えたあと、由希ちゃんが再び口を開く。 「確かにそうだね。琴子の気持ちも痛いほどよく分かるよ。“ズル休みをした”って思われてるかもって思うと、こう、その集団に対して居ずらさみたいなものを感じちゃうよね。」 そう。それに加えて、部活内での評価というものはクラス(学校)内での評価とイコールに等しい。きっとルールに厳しい唯・ララ、部活に全力投球の日向は “よりにもよって市総体を休むんだ” と、あきれ顔を向けて来るだろう。 それに、今日私をないがしろにした自覚があるであろう、ひよりは “その程度で休むんだ、弱っ(笑)” と、私をさらに見下しに来るだろう。 つまり、ずる休みをすればグループ内での評価はグンと下がることが予測できる。そして、このグループでの評価はクラス(学校)での評価と呼んでもいい。 行っても地獄・行かなくても地獄という袋小路にあっているのだ。 そんなことをぐるぐる考えていると、由希ちゃんがさらに言葉を続ける。 「行っても行かなくて地獄なら、まずそれぞれ分析してみよう」 「?」 私がよく分からない、という顔をしていると 「じゃあ、まず明日の部活に行った時に嫌だなって思うことを考えてみて。あ、大丈夫。言わなくていいからね。思い浮かべてみて。」 私は言われた通り、想像しうる地獄を思い浮かべる。まず、行きと帰りのバスで私だけ一人席になること、そして試合に出られないこと、監督に怒られること。 「いいかな?じゃ、次は、明日部活に行かなかった時に嫌だなって思うことを考えてみて。」 明日の試合をもし休むとしたら、それはほぼ確実にズル休みだ。ズル休みは、割と周りにバレている。 唯・ララ・日向・ひよりはきっと、ズル休みをした私に明らかな不信感を抱くだろう。そして、クラスで彼女たちと居ずらくなり、クラスでの居場所がなくなる。 「どうかな?二つの嫌なところを比べてみて、どっちのほうが避けておきたいと思う?」 直近で大ダメージを受けるのは明日試合に行くほうだ。けれど、明日休めばダメージは日々の生活にじわじわと侵食してくるだろう。 どちらをとっても地獄すぎて嫌になる。 「これは琴子の事情をほとんど知らない、ただの私の意見なんだけど、休んでほしい。 もちろん、休んだあとの部員の子とか、顧問の先生とかとうまくやっていけなくなるかも、とかあると思う。」 「けどね」と由希ちゃんはさらに言葉を続ける。 「けどね、階段の上にいた琴子の顔があまりにも、こう、死にそうな顔してたから。身体的には何ともないのかもしれないけど、心はきっと相当疲れてるんじゃないかな」 私、そんなにひどい顔してたのか、と少し驚く。由希ちゃんはそんな私の表情を見て、さらに語り掛ける。 「二宮尊徳って知ってる?こう、木の枝を背中にしょいながら本読んでる。二宮金次郎とも言うんだけど。」 私は昔見たことがあった、二宮金次郎の像を思い出しながらうなずく。 「その人ね、江戸時代に経済的に落ち込んでた農村を復興する仕事を引き受けてて、実際大成功して多数の村を復興させた。 けど実は、最初の村では大失敗したの。彼の策がぜんぜんうまくいかなくて、その村では割と厄介者扱いされたの。そしたらね―――」 一拍置いて、由希ちゃんが言葉を続ける。 「―――彼、逃げたの。その村から。仕事としてその村を復興させに来たのに、大失敗して居ずらくなったから逃げたんだって。 だからね、逃げるっていう選択肢も時には大切なんじゃないかなと思う。」 あの有名な偉人にそんな一面があったのか、と素直に驚く。が、しかし、この話は私にとって、すぐには同意できない問題点がひとつあった。 それは、逃げ場の問題である。 二宮金次郎には、復興を失敗した村から逃げたあとに、生活することができる別の村がある。 しかし、私が生きるこの田舎町は狭い。部活で失敗した私が逃げるのは教室しかない。けれど、教室の居場所は唯・ララ・日向・ひより。つまり部活のメンバーだ。 私には逃げたとて、逃げ場がないのだ。 ここで結論が出た。 私はどれだけ酷い扱いを受けようと、部活を続けて彼女たちとうまくやっていくほかないのだ、この狭い世界で生きていきたいならば。 それなら今私がとるべき選択は、“何が何でも明日の試合に行く“だ。 「由希ちゃん、ありがとう。でも、やっぱり私明日の部活行くよ。行かないっていうのは、やっぱりできない。」 そう、できるだけ明るく見えるように、精一杯の笑顔で告げて、私は部屋を出た。 由希ちゃんがどんな顔をして私の主張を聞いてくれていたのか、怖くて見れなかった。 階段を降りてダイニングテーブルを見やると、由希ちゃんが「琴子が市総体に行ったご褒美に」と約束してくれていたグラタンにラップがかけてあった。 お皿に触れてみると、もう冷え切ってしまっていた。せっかくの彼女の好意を無下にしてしまう自分が本当に嫌になる。 それでも自分がこの狭い世界でやっていくには、こうするしかないんだと言い聞かせて冷え切ったグラタンを食べた。 夜は、罪悪感に苛まれてなのか、明日の部活が不安でなのか、ほとんど寝付けなかった。 ―――翌日 試合会場へ向かうバスに乗車するため、学校に集合する。今日は悔しくも一番後ろの奇数席が、三年生の先輩によって占領されていた。 これは私たちが2-2-1を作るほかない事態である。 今日の私は少し好戦的だ。2-2-1になると予測できているなら、バスに乗る順番的に最前か、最後尾にならなければいい。 他の誰かが1の役回りになろうが関係ない。私は十分に頑張った。もう考えるのは疲れたのだ。 バスに乗車する順番は、唯・日向・私・ララ・ひより。 ひよりを1にしてやれるのか、と少し昨日の鬱憤が晴れる感覚で、ほくそ笑んでいた。 唯と日向が二人で座る。私も席につき、その隣にララが座ろうとした途端―― ――「ララ!試合のことで相談したいことがあるから、こっち来てくれない?」 そうひよりが言い放ったのである。 そして、その言葉に「何―?」と言って私から離れていくララ。 そうして、2-2-1の1の役回りが私にやってきて、バスは出発した。 私は呆れるやら悲しいやら腹立たしいやら、感情がぐちゃぐちゃで何も言えなかった。 一人で席に座りながら悶々と考える。 謎が解けた。なぜ私にばかり1の役回りが回ってくるのか。 要因は二つある。 ひとつは皆の中で私の優先度が低いこと。けれど、これだけでは私にばかり1の役回りが回ってくることはないだろう。そもそも、日向は何も考えていなそうだし。 ふたつめ、それはひよりの悪意である。彼女は明らかに私が1になるように仕組んでいる。いや、自分が1にならないように仕組んでいるのだ。 きっと、他の唯・ララ・日向にその矛先を向けると反撃されると分かっているので、私をターゲットにしているのだ。 なんで私こんな人たちと何年も一緒に居なければならないんだろう。きっと高校も一緒なんだろうな、下手したら就職後も。 私たちの中学校の生徒はほとんど同じ高校に通うことになる。なぜなら、ここはド田舎。 他の高校は遠くて登校だけでも、骨をおるのだ。 だからここらへんの中学生は皆、町にただ一つある普通高校に通う。 もちろん、クラスに一人程度は町を出てみんなと違う高校に通う人がいる。しかし、たいていその人たちは学年一の成績をとる優秀者だ。 そもそも、県内一の進学校レベルでないと、この町から出て、わざわざ遠い高校に通おうなんて思わないし、親も許さないだろう。 私の成績は中の上程度。町の外の進学校なんて恐れ多いレベルの成績である。 だから、少なくとも私は高校を卒業するまで、私を大切にしてくれない彼女たちと一緒にいることになるのだ。 ―――本当に? ふと頭によぎる。本当にあと、4年以上彼女たちと一緒に、この狭い世界で息苦しく生きていかなければならないのか? すると、意図せず昨日の由希ちゃんの言葉が思い出された。 『逃げるっていう選択肢も時には大切なんじゃないかな』 瞬間、私の思考はただ一つの選択肢に帰結した。 逃げなきゃ。 私はこのまま、こんな狭い世界で、こんなに苦しみながら青春時代を過ごしていたくはない。 もっと広い世界で生きていたい。 そう決断した私は、その場に立ち上がる。すると、女子バスケ部・男子バスケ部の視線が一気に私に集まる。 普段の私ならば、絶対にこんなことはしないしできない。 けれど、私は今“逃げなければ”ならないのだ! そのまま、運転席に向かい、「気分が悪いのでバスを降りたい」と伝える。 きっと運転手さんは驚いただろう。いかにも「何かに追われている」と言わんばかりの女の子が話しかけてきたのだから。 バスはその場で停車し、私はバスを降りた。直後、唯と日向がバスを降りて私の身を案じてくれたが、私は「大丈夫」だと告げ、そのままバスを見送った。 停車場所は出発したばかりだったこともあり、学校から徒歩20分程度の場所。私はそのまま、歩いて家に帰った。いや、走っていた、全速力で。 青空の下、私は全速力で走っていた。バスに乗る彼女たちから必死に距離を取るように。 家に帰るなり、私を見た由希ちゃんが驚く。彼女はアルバイトに行くための準備をしているらしかった。そんな彼女に私は高らかに宣言する。 「由希ちゃん、私部活辞める!戦うために、逃げる!」 靴も脱がずに玄関でいきなり決意表明をする私。傍から見れば実に滑稽なことだろう。 けれど、私の言葉を聞いた由希ちゃんは、どこか安心した表情で笑ってくれたのだった。 続く
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