悪夢を食む

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月下くんは、今年から血液内科に配属された3年目の研修医だ。 血液に特化して学びたいと自ら志願してうちの科に入ってきた。私のように“特殊な”事情もないのに、難しいばかりで分かりやすい結果がなかなか出ない血液内科を選ぶ研修医は珍しい。いるのは研究好きで血の病の研究に憑りつかれた変人ばかりだ。 そんな変人たちの巣窟にやってきた彼は、人好きのする全方位型の好青年で、謙虚で勉強熱心、頼まれごとも嫌な顔ひとつせず引き受けるので、医局全体から可愛がられていた。しかも高身長のイケメン、笑うと子犬のような人懐っこい笑顔を見せる甘え上手で気配り上手。だからモテないわけがない。どうやったらこんなにいい子が育つのか、機会があったら親御さんに聞いてみたいと看護師長と毎回盛り上がるくらいに完全無欠の好青年、それが月下奏だ。 しかし、イケメンの形見本的な彼にも唯一の欠点(?)があった。それは、特定の彼女(彼氏)を作らないこと。これは大学時代から近隣の医療関係者界隈では有名な話で、金太郎飴のようにどこで切っても好青年で性格もいいのに何で特定の相手と付き合わないのか、かなり長い間大きな謎として語り継がれてきたらしい。 「先生は《何》ですか?」 彼の声がひどく遠い。 いっそ気を失えたらいいのにと思うのに、倒れることのない頑丈な己の体を恨みながら、何と答えればいいかと思考を巡らす。 今日は《お仲間》に連れられて初めてこの場所にやってきた。 “性癖が合う”男性がいるから紹介したい、身バレもないし後腐れなく遊べるからという誘いについ魔が差した。普段は絶対にこういった場所には足を運ばないが、新月の晩にひとりで《衝動》を抑えるのは不可能だった。 私は200年生きている吸血鬼だ(“生きている”というのは、屍なのでおかしいが)。 吸血鬼としては若くないので、体を維持する血液はひと月500mlペットボトル1本で事足りる。《食料調達》のために医者をしているのだ。がしかし、必要とする血液は少なく済む一方、その反動で新月の晩だけ、ある《衝動》に悩まされていた。 それは、“人間の男性の首に噛みついて牙を立てること”。弾力のある肉に牙を立て食い込ませる、あの快感は何にも代えがたく、流れ込む血の味は甘美だ。 噛みついて血を吸っても、こちらの細胞を相手に与えなければ吸血鬼になることもなく、行為の後は記憶を消してさよならすればいいだけ… それでも、普段は人間との関わり合いを避けるために、鉛入りの特殊な睡眠薬をアルコールで流し込み、強制的に意識を失くすことで衝動を抑えていた。ただ、この方法では一時的な仮死状態になり、意識を失った直後に解毒剤を入れてもらう必要があるため、ひとりでやることは不可能だった。いつもは、同居人の林田に解毒剤の注射を頼んでいるのだが、今日に限って不在だった。 遠方に住む孫が事故に遭ったと連絡が来て、大慌てで急行したのだ。それが今から3日前の話。幸い命に別状はなかったが、両親が共働きで日中面倒を見る大人がいないというので、退院するまで休暇を取ってもらうことにした。新月の晩が迫っていることをすっかり失念していた。 そして、悩んだ挙句、数少ない《お仲間》に今回だけ《調達》を頼ることにしたのだ。 新月の晩をやり過ごすことだけに全集中して、知り合いに合う可能性を全く考えていなかった。 見つからないよう声をかけずに避けることもできたはずなのに、久しぶりの《狩り》の高揚感に気が大きくなって、思わず声をかけていた。本当に迂闊だった。 …でも、唇が触れた瞬間に、彼も私が人間じゃないことはすぐに分かったはず。 隠し立てすることはもはや不可能…私は腹を括った。 「ご明察。そうよ。私は生身の人間じゃない。吸血鬼って言えばわかるかしら?」 できるだけ早口にならないように、焦りを見せないように、自分の中の一番の微笑みを浮かべながらゆっくりと答える。流れるはずのない汗が背中を伝うような錯覚に襲われる。 悪魔には恐らく催眠は効かない。対価に何を求められるか全くわからない状況で、絶対に弱みを見せるわけにはいかない。 「今日は、知り合いの紹介で《食事》をしにきたの。《食事》の意味は分かるわね?」 「…はい」 「あなたと同じ。だから、今回の一件はお互いなかったことにして忘れましょう。私は二度とここに来ることはないし、口も堅いから安心して?今日私たちは会わなかった。そういうことにして、お互いこのまま別々に《食事》を続けましょ?絶対に言わないから」 「…いや、言っても誰も信じないっしょ…」 気の抜けた返事が返ってくる。 「それでも!!私たちは会わなかった。わかった?一切口外しない。だから、あなたも今日のことは忘れるって約束して」 「…わかりました」 少しだけ不服そうな声で同意する。不服でも何でも、正体をお互いに明かしたところでイーブンだ。 働くのが難しい状況に陥るようなら、数十年海外に身を隠してやり過ごすしかない。覚悟を決める。 「わかりましたけど。なかったことにはしたくないかも」 耳を疑うような答えが返ってくる。あまりのことに幻聴が始まった? 「…え?」 「いや、お互い正体がバレたわけだけど、周りに言う言わないで脅したところで、俺にも先生にも何のメリットもないじゃないですか?」 「……?」 「黙っている見返りに求める物もないなら、いっそお近づきになれたら…と思いまして」 「はぁぁぁぁぁ?あなた、何を言っているの?」 月下くんが満面の笑みを浮かべて楽しそうに答える。 「俺、ずっと先生のことが気になっていたんです。でも、指導医で上司だし、先生のガード鉄壁過ぎて全然近づけないから困っていたんですよね、実は」 「困っていたって…」 「だから脅します。黙っていて欲しいなら俺と付き合って」 「……っ」 返す言葉が出てこない。 「全部、俺のせいにしてくれて構わないから」 チュッと音を立てて、月下くんが私の額にキスをした。 何て嬉しそうな顔して笑うんだろう。 喉の渇きも衝動も空腹も、いつの間にか全てどこかに吹き飛んで消えてしまっていた。 極上ディナーになるはずの夜が、とんだ波乱の幕開けになってしまった。
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