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とにかくおなかが空いていた。
一昨日食べ損ね、昨日も夜勤で食べられないまま今に至る。空腹の窮みだった。
誰でもいいから、今すぐありつきたい。選り好みしている余裕はない。それくらい切羽詰まっていた。
“キレイ”に遊びたい男女が集まる会員制のクラブ。厚くて重い扉を開く。顔なじみの黒服に上着を預けると、早速物色を開始する。味はこの際どうでもいい。空腹さえ満たせれば。
が、こういう時に限って、カップルだらけで一人でいる子がなかなか見つからない。
「…あれ?月下くん?」
背後から聞き覚えのある声がする。
「見城先生…」
振り返ると同じ科の指導医の見城仁奈が立っていた。
自分は《食事》を目的にここに来る常連だが、見城先生に会ったのはこれが初めてだ。
「どうしたの?大丈夫?具合悪い?」
綺麗な瞳に覗き込まれて、理性が弾ける音がした。
天の采配か、神の助けか、それとも罰か。
我慢のゲージが完全に振り切れて、強引に腕を掴んで、手近な個室の扉を開ける。
一度閉まると外からドアは開けられない「そういう目的」で使われる部屋だ。
「先生ごめん。でも、これは俺のせいじゃないから」
後先考える余裕もなかった。
歯をぶつける勢いで唇を重ねた。甘い。
隙間から無理やり舌をねじ込む。
お互い目は開いたまま。
「…っ?」「えっ?」
唇をぶつけた勢いのまま、磁石の反発のように体が離れる。
「月下くん…あなた…」「先生って…」
『…人間じゃない?!?!』
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
俺は夢魔だ。
人の夢に入り込んで、淫らな夢を見せることで精気を得て生き延びる下級の悪魔。夢に入り込む時には《粘膜接触》が必要になるからセックスをする悪魔が多い。
だから、一般的には「淫魔」とか「インキュバス」「サキュバス」とも言われるが、行為をするのは色々と面倒なので、手っ取り早くキスをして夢に入らせてもらい精気を頂戴するのが俺のやり方だ。
なのだが、お互いに気持ちが通じると“美味しい”から、好みの女性に出会った時には、できるだけ恋人に近い関係になるまで待ってから頂くことにしている。一昨日は《ご馳走》を目の前に彼女の元カレが現れて涙の再会劇に発展、見事に食べ損ねたのだ。間男にならないように慎重に事を運んで1か月近くも《食事》を我慢していたから空腹も限界だった。
しかも、昨日は昨日で宿直で《食事》に出ることも叶わず、今ここに至る。
このクラブは、ワンナイトを楽しみたい男女が出会いを求めて集まる場所で、会員制で身元がしっかりしていないとそもそも入れないので、軽く《食事》をするのにはうってつけだった。
が、そこで自分の指導医の見城先生に会うとは、夢にも思わなかった。
見城先生は血液内科のホープ。腕の良さと美貌で病院内で知らない人はいない有名人だ。まだ30代前半のはずなのに、もう何十年も生きているような年齢不詳で妖艶な雰囲気をまとっている。かと思えば、推しのグッズを一人の時に隠れてニコニコしながら眺めているような可愛いらしさも併せ持つ不思議な女性だ。
でも、彼女にはどことなく人を寄せ付けない目に見えない高い壁がある。笑顔を絶やさず、うわさ話や医局のおしゃべりも嫌な顔ひとつしないで楽しそうに聞いて笑っていても、彼女は自分のことは一切話さない。だから彼女自身のことを知る人は周囲にほとんどいなかった。メディアの出演依頼や本の出版の誘いも一切を断っていると聞いた。まるで人目を忍ぶ忍者のように思えるくらいのガードの固さだ。
……そんな先生が何故こんな場所に?
ふたりの間に重い沈黙が流れる。
先に沈黙を破ったのは彼女の方だった。
「月下くん、あなた、人間じゃないわね?」
全てを見透かす鋭い目で射抜かれる。嘘はつけない雰囲気だ。
誤魔化したところで、明日から無職になるかもしれない崖っぷち、腹を括って話すしかなさそうだ。
「どこから話せばいいですかね。端的に言えば、答えはイエスです」
「なんなの?私の意識の中に入ろうとした?」
「あぁ分かるんだ。そうです。夢に入ろうとしました。俺は“夢魔”です。人の精気を吸って生きる悪魔。」
「インキュバス?」
「そうとも言いますが、自分の場合、セックスはしないで夢の中だけで終わらせます。もちろん行為をした方が手っ取り早くたくさん摂取できるから楽ですけど、ほら、色々面倒くさいし」
「…私から摂取しようとしたの?」
「いや、何て言うか…色々とトラブルが重なって…空腹に耐えかねてと言いますか…とりあえず何でもいいから《食事》がしたかったんです。相手を探していた時に偶然…本当に偶然、先生に会ってしまって…我慢も限界に達して……つい…」
最後の方は息も絶え絶え、消え入りそうな声になってしまう。喉はカラカラ、背中から嫌な汗が流れる。
あれだけ切実だった飢餓感も全く感じなくなっていた。
気まずい空気が流れる。
…ふと、《あること》を思い出す。
焦りと緊張で気が遠くなりかけながらも、ちょっと待て、落ち着け、と意識を立て直す。
『見城先生には“精気が全くなかった”』
「…すいません。自分も先生に聞いてもいいですか?」
見城先生の大きな瞳が零れ落ちそうなほど大きく見開かれる。
「先生は《何》ですか?」
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