アリゾナ

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アリゾナ

 忍は、眠ると悪夢を見るから眠れなくなった。カラダの全ての細胞が、いやだ、いやだ、と言っているのに、それでも、眠らないわけにはいかないので、彼はどうしても眠ってしまった。 (なんで、楽しかった思い出は、決して夢に出てこないんだろう?)  忍は思った。  ある夢で、陽子は肩を震わせて泣いていた。シャツの下から、すっかり肉のそげ落ちた肩の骨のとんがりが、突き出ていた。 (僕のせいだ! 陽子ちゃんがこんなに痩せてしまったのは、僕のせいだ!)  申し訳なくて、可哀そうで、忍は、眠りの中で声を上げて泣き出した。  夢で、忍は、彼女の額の赤茶色のニキビを見た。 (ニキビ、どうしよう? ゴメン、痛いよね。僕のせいだ)  陽子は、ただ泣いているだけだった。忍は嗚咽した。 (本当にゴメン。僕は、キミになんてことをしてしまったんだ?)  別の夢で、二人はいつものように、玉川上水沿いを歩いていた。 「あたし達、もう会ってちゃいけない」  陽子が持ち前の真面目さで、あの大きな目で、真っ直ぐに忍を見て言った。 「だって、忍君の今の彼女は、東女の子だし」 (誰が僕の彼女だって?)  陽子は、首を横に振って、あとずさりした。 「違う! 違うんだ! キミだけなんだ。僕が好きなのは、キミだけなんだ!」  忍の叫びは、陽子には届かなかった。陽子は何も言わないで、くるりと踵を返すと、津田塾の横の玉川上水にかかる小さな橋を渡り、去って行った。 「待って! 陽子ちゃん! 待って!」  忍は、彼女の背中に叫んだ。 「僕にはキミしかいないのに!」 (僕のせいで、全部僕のせいで、陽子ちゃんが去って行く)  忍はいつものように、嗚咽する自分の声に目が覚めた。  忍は、東女の彼女の顔は、覚えていなかった。ただ覚えているのは、彼を時に誘惑し、時に罵倒する、彼女の真っ赤な、唇の動きだった。  忍は夢でそんな唇を見た。 (誰の口だ? 陽子ちゃんのじゃない。陽子ちゃんは口紅はつけない。陽子ちゃんはいつも言ってた。お茶碗に口紅の跡が付いちゃうの、凄く嫌なの、って)  忍の夢で、真っ赤な唇がささやいた。 「ずっと、欲しかった。あなただけを見てた」 「一度だけでいいの。彼女がいるのは分かってる」 「好きなの。抱いて。今ここで」 「津田の彼女には、黙っていればいいだけのこと」 「浮気なんてみんなしてる。学生なんだし。もっと楽しまなきゃ。見つからなきゃ、いいだけでしょ?」 「こんなに好きになったの、初めてなの。諦めきれないの」 「初めての相手とずっと一緒にいる確率って、どのくらいだろ? 分かるよね、忍なら。そんなの有り得ないって」 「あたしのこと、見てたんでしょ? 彼女とどこが違う?」 「あたしで試してみない? 自分の魅力」  夢の中で、彼女の真っ赤な半ば開いた唇が、忍の口を攻めた。  忍は、夢で、東女の彼女とセックスをしている自分を見た。それは、自分ではないようだった。本物の忍は、スーッとカラダから離れ、天井あたりで、性交している男女を、無関心に見下ろしていた。忍には、あの男は自分じゃない、という確信があった。  またある夢では、真っ赤な唇が怒りに震えていた。忍は恐怖に縮み上がった。真っ赤な唇に怒られ、罵倒された。怖くて怖くて、たまらなかった。 「じゃ、あたしをどうするつもりだったの?」 「まさか、最初から捨てるつもりで、あたしを抱いたの?」 「もう、始まっちゃったんだよ、あたし達。前のは終わらせなきゃ」 「彼女と別れて! もう終わりにして!」 「忍はもう、あたしのもんなんだよ。分かってるでしょ? もう、後戻りできないって」 「もう会わないで! 責任ある行動とって! 津田の子のためにも!」 「忍が優柔不断だから、彼女だって前へ進めないんじゃん!」  忍は、怒りに叫ぶ真っ赤な唇を夢に見る度に、眠りの最中にも自分のカラダが硬直し、心臓が握り潰されるような体感を覚えた。  夢で真っ赤な唇が、また忍に怒っていた。 「いい加減にして!」 「なんでまだ会ってんの?」 「もう別れたって言ってたじゃない!」 「許せない! 実験してるふりして、また彼女と会ってたんでしょ?」 「どうして下手な嘘ばかりつくの? そんなんで、あたしをだませると思ってんの?」  夢の中の忍は、頭をうなだれて、真っ赤な唇の罵倒を聞いていた。彼の頭上で、大きな真っ赤な唇が開いたり閉じたりして、優柔不断な彼を罵っていた。夢の中で、忍は、息苦しくなってきた。いつも、いつの間にか、か細い声で、真っ赤な唇の言うこと全てを、承諾していた。 (そうだった。あの頃、自分は、真っ赤な唇に怒鳴られないためならなんでもした。陽子ちゃんを地獄に落とすことさえも)  悪夢は、何度も忍を襲った。彼の脳は、彼を苦しめるのが楽しくて楽しくてたまらないらしかった。忍は、悪夢が怖くて眠れなくなった。  忍がM1の梅雨時、陽子が消えた。陽子は連絡先を全て変えた。忍は陽子の実家に問い合わせる勇気はなかった。その前の年、陽子がカラダを壊し、単位を落とし、休学したのは自分のせいだった。忍は、陽子のゼミ友達や及川に彼女の行方を尋ねたが、誰からも返信はなかった。真夜中に実験の後、車で陽子の下宿を訪れたが、人が住んでいる気配はなかった。彼女とコミュニケーションをとる手段はなかった。  二週間ほどが過ぎた。朝から雨がザーザーと降りやまぬその梅雨の日、忍は井之頭線の東大前駅で、吉祥寺行きを待っていた。東女の彼女と、吉祥寺で待ち合わせていた。  忍は、ホームを速足で通り過ぎる人々をぼんやり眺めながら、突然、理解した。 (陽子ちゃんは、僕から逃げたんだ。僕は陽子ちゃんに、捨てられたんだ。もう彼女は、僕を愛していないんだ)  忍は、何もかも、どうでもよく思えてきた。 (僕は、一体何をしているんだろう? なんで吉祥寺に行くんだろう?)  電車がホームに入ってきた。忍は急に息ができなくなった。彼の心臓が、飛び出しそうな勢いで鼓動した。忍は、ノドを両手でおさえながら、雨に濡れてツルツルのホームの床に倒れた。 (苦しい……! 陽子ちゃんも、同じくらい苦しかったにちがいない。息ができないほど。僕が彼女を地獄に落とした。幸せになるためだけに、生まれてきたような彼女を)  次第に、忍の意識が遠のいていった。忍は、雨に濡れた冷たいホームの床を、頬に感じた。彼はこのまま、死んでしまいたかった。  忍は救急車で病院に運ばれた。彼の初めてのパニック障害の発作だった。  忍の二度目の発作は、陽子が消えてから一ヶ月ほどたった初夏に起こった。未だに陽子は行方知らずだった。  忍は東女の彼女と、赤いトヨタのアクアに乗って走っていた。彼女の右手が、忍の左肩に触れた。 (陽子ちゃんが僕を去ったのは、この女が僕に触れたからだ。僕がこの女に触れたからだ)  急に忍の心臓が、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、と鼓動を速めた。彼は呼吸ができなくなった。 (また、来た!)  忍は、ゼイゼイと上半身で呼吸をしながら、辛うじて道路の脇に車を停めた。女の悲鳴が聞こえた。忍は彼女の大きく開いた真っ赤な口を見ながら、ああ、意識が薄れていく、と思った。  その夏の終わり、忍が、睡眠薬を大量に飲んで意識を失いかける前のほんの一瞬に、彼は自分と陽子を見た。いつものように、津田塾の横の玉川上水沿いを、腕を組んで歩きながら、二人は歌っていた。二人は少しずつ近づいて来るのに、歌声は少しずつ小さくなっていった。忍は、彼らが何を歌っているのか聞き取れなかった。 (何を歌ってるんだろう? 聞きたい!)  そう思っているうちにも、意識はどんどん、彼の手の届かない所に行った。  その秋の終わりに、忍はついに陽子を探し当てた。毎日のようにチェックしていた、陽子が塾講をしていた予備校の時間割に彼女の名があった。  忍は予備校の前で陽子を待った。  陽子は元気そうだった。額一面を覆っていた赤茶色のニキビはきれいに消えていた。  忍は、もう一度自分を受け入れてくれと必死に懇願した。もう二度と浮気はしないと、誓った。  陽子は、 「重い恋愛は、もうコリゴリなの」  と言い残して、忍を去った。それが陽子と言葉を交わした最期だった。忍は、そのままその場で朽ち果ててしまいたかった。  陽子が津田を卒業し、静岡に戻った頃、「#古川茶園」の写真や動画が、ネットに上がりだした。春の茶摘みの様子や、陽子が参加した茶会、展示会、「静岡祭り」や「全国お茶祭り」のレポートなどが載った。たまに、陽子の写真も載った。彼女は幸せそうだった。忍は、彼女のニキビ一つない広い額を見て泣いた。  忍は、日に何度も古川茶園を検索した。興信所に調べさせて、彼女に西城という恋人がいることも知っていた。忍との関係が崩れてから一年後に付き合いだしたらしい。 (でも、まだ付き合ってるだけだ。結婚したわけじゃない。まだ、希望はあるかもしれない)  彼はそう思い込もうとした。  忍は興信所に、一ヶ月ごとに二人の関係を調べさせた。 (もし少しでも、二人の関係に歪みが出たら、その時は……)  忍は、ほんの少しのチャンスも逃したくなかった。彼は、どうしても諦めきれなかった。忍は陽子の花香が恋しくて、息ができなくなることもあった。  そうこうしているうちに、SNSには頻繁に、お茶屋工事の近況が載るようになった。古川茶園は、自社の茶山に、レストランを建てるようだった。お茶屋の落成式のニュースの数週間後に、陽子と西城の結婚披露宴の写真がSNSに載った。  忍は、また眠れなくなった。忍は睡眠薬を飲み過ぎて、救急車で病院に運ばれた。彼に自殺するつもりは毛頭なかった。  病院で目を覚ました忍に、母親が叫んだ。 「忍、死なないで!」  以来、忍は、自殺だけはしてはいけない、と自分に言い聞かせてきた。両親と聡のために。ただ、忍は、どんなにそれを頭で理解していても、どうして自分が、陽子の花香のない世界で生きていかなければいけないのか、分からなかった。  忍は、軽い気持ちで応募していたアリゾナ大学で、ポスドク研究員として働くことになり、アメリカに渡った。彼は、これ以上日本にはいたくなかった。  忍は、ツーソンのアリゾナ大に二年間勤めた。  忍は明け方、四輪で、砂漠にサボテンの花のニオイを嗅ぎに行った。彼は、陽子の花香を自然に探し求めて、どこにでも行った。砂漠に、キャニオンのてっぺんに、ビュートの谷間に。彼女が恋しくて、泣きながら。忍がどこをさまよっても、陽子の花香は見つけられなかった。  忍は、ラボで幾度となく、陽子の花香を人工的に作ろうとした。成功しなかった。  忍は、学年末のパーティーの後、同じ学部の女性の准教に、言い寄られた。忍が彼女と二人きりになった時、彼女の体臭が急に濃くなった。彼女の声色も変わった。 (同じだ! 東女の彼女の時と一緒だ!)  女の自分への欲情を察して、忍はパニックになった。 (逃げなければ! また捕まる。一度捕まったら、僕はお終いだ。陽子ちゃんから、さらに遠くなる!)  忍は呼吸ができなくなった。彼は気を失い、病院に運ばれた。  この件の後、学部内で忍はゲイだと噂された。  忍のアリゾナでの二回目のパニックは、男性のポスドクと一緒だった時に起こった。忍は誘われるままに、ポスドクのアパートでビールを飲んでいた。忍は、その頃はもうやけっぱちで、男を愛せるようになれたらどんなに楽だろう、と思っていた矢先だったので、あまり抵抗しなかった。男が忍を求めだした。忍は息ができなくなり、目が覚めたらまた病院だった。  この二度目のパニック騒動の後、同僚達は忍を放っておいてくれた。忍は、男とも女ともできない男、と影で呼ばれていた。 (自分はここで、何をやってるんだろう?)  忍は、アリゾナではいつもそう思っていた。彼は、いつ、どこにいても、陽子が恋しかった。  忍は、陽子の花香を求めて、陽子を治す薬を求めてさまよった。  忍は、努めて考えないようにしていた。もし、陽子と別れていなければ、自分はどうなっていただろうかと。  しかし、忍は、想像しないわけにはいかなかった。陽子と一緒に過ごしていたかもしれない、自分の二十代を。  (陽子ちゃんは∙∙∙∙∙?)   忍は妄想した。 (陽子ちゃんは、茶園の経営を手伝いながら、僕らの子供を育てていたにちがいない。そんな未来も、あったのかもしれない。僕も父さんのように、幸せになれていたのかもしれない)  忍は、かなうべきだったのに、かなわなかった日常への憧れと、何年たっても消えることのない恋慕を胸に秘めながら生きていた。  忍が、古川茶園のSNSをチェックしない日はなかった。古川のSNSには、茶園のビジネス関連のニュースに、古川家の個人情報が、写真と一緒に効果的に織り混ざっていた。 「抹茶の初収穫。奥静のお茶畑で」 「西城、只今、当社の抹茶工場にて試飲中」 「若女将がOGの藤沢女子高合唱部、全国大会出場決定! 名古屋の東海地区予選にて」 「今日もお茶のお稽古。生徒さんたちと」 「お茶摘みが始まりました! 四時に起きて、母とみんなのお弁当を作ります」 「『マザーグース:幼児と親のための歌とお遊戯教室』葵公民館にて毎週火曜日、10:00-11:00。若女将が講師をしています。無料。英語と日本語で。赤ちゃん大歓迎」  忍は、ネットで彼女の写真や動画を見る度に、彼女の輝くばかりの笑顔に目を見張った。  忍は、学会では、気が付くと、つい静岡大学の研究発表に足が向いた。  彼が、静大でポスドクをしていたピーター∙シャードと出会ったのは、ボンでの有機化学の学会でだった。ピーターは金木犀に含まれるカロチンの研究をしていた。  忍はピーターに話しかけた。  ピーターはニュルンベルク出身の化学者で、ドイツ人の妻と赤ん坊の息子が一人いた。息子のマイケルは、去年静岡市で生まれた。  ピーターは忍に言った。  自分も妻も日本が気に入っている。もうすぐポスドクの期限が切れるが、ドイツに戻る気はない。息子が大きくなったら戻るかもしれないが、今は当分、妻と日本を楽しみたい。  学会が終わるまでの三日間、忍とピーターは親交を深めた。夜、忍はホテルでピーターの過去の論文を読んだ。ピーターは主に分析化学をやってきた。忍のように、植物から抽出される化学物質を研究してきた。  ぽっちゃり体型のピーターは、忍と並ぶと余計丸く見えた。忍は彼の朗らかな性格にも魅かれた。ピーターはいつも笑顔を絶やさなかった。そんな所が、陽子と似ていた。  学会の最終日の夜、二人は十人ほどのカロチンの研究者達と、ホテルに近いガストハウスでビールを飲んでいた。ふと、ピーターが言った。 「オレ、松の葉を折って、その折口の匂い嗅ぐの、スッゴイ好きなんですよね」 (分かる!)  忍の脳内に、いくつかのテルペノイドの化学構造が浮かんだ。忍も幼い頃から、同じことをしてきた。母親と小さな聡と歩いていても、忍が松の木の下を通るたびに止まってしまうので、よく母親に、早く来なさいと怒られた。 「他に、どんなニオイが好き?」 「そーですね。前にソールトレイクシティで学会に出た後、カミさんとユタのモアブでキャンプしたんですけど、夏だったんで、夕方なんて、もう町中にセージブラシの香りが充満してたんですよ。いいニオイだったな」 (凄い分かる!)  忍もアリゾナ、ユタ、コロラド、ワイオミングで夏場にキャンプをする度に、セージブラシの香りを満喫した。  忍は、ある初夏の週末に、ニューメキシコ州でキャンプをしていた時のことを思いだした。斜めに差し込んでくる朝日の光線が次第に強くなってきて、忍は暑くなり過ぎた一人用のテントからはい出した。辺りは低木のセイヨウネズに覆われていた。気温が上がっていくにつれて、少しずつ変化していく大気の芳香を、胸一杯に吸った。   自然は、一瞬でも陽子のことを忘れさせてくれるほど、パワフルだった。 「忍さんは、どんなニオイが好きなんですか?」 「僕?」  忍は、陽子の花香については言及しなかった。 「レッドシーダーの葉を折った、折口の香り。去年、ワシントン州の雨林に、デビルズクラブを採集しに行った時、初めて嗅いだんだ。いいニオイだったな」 「メチル∙ツジャートですね。オレも好きです」  二人は各自の脳内で、メチル∙ツジャートの化学構造を描いた。 「あと、僕は、天然樹脂の匂い全般がたまらなく好き。あとは香木。父の実家が、長野でお寺やってんだけど、小さい時は、香木でできた古い仏像の足元に、いつもしがみついて、ニオイ嗅いでたんだって。僕は覚えてないんだけど」 「Synthesizeしたくないですか?」 「したい。今までにない、新しい感じの香りをね」 「オレもです。あんまり役に立たない実験ですけどね」 「それでもやりたいよね。トイレの芳香剤にはなるかもよ。香水とかコロンとして、売れるかもしれない」 「金、儲かりますかね?」 「さぁ、どうだろう。やってみる?」 「やってみましょうか?」  二人は、近いうちに、共同で研究することを約束した。  日本を出て二年目の夏、アリゾナ大で、忍のポスドクとしての契約が切れつつあった。  彼に、テキサス大、タフツ大、そしてオレゴン健康科学大から、是非、准教授として働かないかとのオファーがあった。応募していない大学からも、いくつかのオファーがあった。中でもオレゴン健康科学大は、忍を熱心に勧誘した。忍は、とりあえずは、面接に来てくれないか、というポートランドの招待に応じることにした。  オレゴン健康科学大で忍を迎えたのは、ショーツにティーシャツといういでたちの、日焼けした男だった。医学部長だった。 「形式上ね、面接みたいなことはしないとね」  彼は笑って言いながら、忍にウィンクした。  コーバリスのオレゴン州立大の薬学部からも、何人かの教授達が、忍の発表を聴きにきた。大学の人事部長や教授組合の代表も出席した。学部長が構内を案内してくれた。大抵の教授陣は、大学のある丘に住んでいた。みんな自転車で通勤するから、太らないのだそうだ。 「でも、キミは、体重のことを心配することはなさそうだね」  彼は、クックックッと笑って言った。  その晩、忍は、学部長と三人の教授達から、ポートランドのダウンタウンにあるフランス料理店に招待された。学部長は黒いスーツに身を包んでいた。  忍は思った。  いい大学だ。ポートランドも住みやすそうだ。なによりも、この人達は自分の研究を支持してくれている。  忍は、隣に座っている薬学の教授に質問した。 「海辺に行くには、ポートランドから真っ直ぐ海に向けて、西に運転していけばいいんですよね」 「そうね。それもいいよね」  初老の教授は答えた。 「海が見たいの?」 「はい」 「どのくらい時間ある?」 「一泊できます」 「じゃあね、ちょっと遠いんだけど……」  教授は、ポートランド南西の、ニューポートという港町を勧めた。 「浜辺歩くのに飽きたら、ボート雇ってツナ釣りに行ってもいいし。もちろんね、時間がなければ、ポートランドからただ真っ直ぐ西に行けば、海に着くけどね。オレゴンの海岸沿いだったら、どこに行ってもいい思い出が作れるよ」  彼はそう言って、静かに笑った。  忍は、ニューポートに行くことにした。  忍は深夜過ぎに、レンタカーで海辺のホテルに着いた。彼はいつになく、すぐに眠りについた。  忍は、夢を見た。  青い月の夜だった。天空は、星でずっしりと重かった。忍は、海に面した崖の上の、高い木の太い枝に横たわって、スヤスヤと眠っていた。冬なのか、木に葉は一枚も残っていなかった。海に白波が立っている様子から、風が強いんだと分かった。辺りは濃い青に満ちており、耳をすませば、自分の規則正しい、安らかな寝息が聞こえてきた。  朝、部屋に斜めに差し込んでくる朝日の中で、忍は目覚めた。こんなに忍がぐっすり眠ったのは、陽子と上手くいっていた時期以来だった。忍はホテルのレストランで朝食を済ませ、素足で浜辺を歩いた。夏とは思えないほど寒かった。雨が降っていた。濡れた砂が足に冷たかった。波が素足にかかると、さらに冷たかった。  忍は思った。 (海。太平洋。この海の向こうに陽子ちゃんがいる。陽子ちゃんの誕生日に、二人で行った湘南の海がある)  突然、忍の心に音楽が響いてきた。陽子と歌った「Nulla in Mundo Pax Sincera」だった。  Nulla in mundo pax sincera  sine felle; pura et vera  dulcis Jesu, est in te  忍は、雨に打たれながら、海に向かって歌った。  忍は理解した。 (陽子ちゃんを失って以来、僕は生きていなかった。息をしているだけで、生きていなかった。いつまで、これが続くんだろう? 日本に帰ろう。陽子ちゃんのいる日本に。離れていたくない。離れていてはいけない。もう、一生会えない人だけど。それでも、こんなに遠くにいたくない)  忍はホテルに帰り、ピーターにメールを送った。 「名古屋大のオファーを受けることにした。自分のラボで、助手として働いてほしい。いつ、静岡から名古屋に移れるか?」
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