七月の相模湾

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 タンタンタンタンという、単発エンジンの長閑な音がしている。  おっさんが供出したオンボロ漁船は、ギシギシと軋んだ音を立てながら、相模湾を沖に向かって進んでいった。  ああ、あそこに見えるのは、高級ラグジュアリーに改装された、勘解由小路のミサイル艇だった。  その船尾にはロープが張られていて、高級そうなボートには、大きなパラソルが括り付けられていた。  日陰の中で、海パン1枚のおっさんと、マイクロビキニの嫁がイチャイチャしているのだろう。  水着の上に、シャツとホットパンツを羽織った私は、甲板に居並ぶ残念な男達を見つめていた。  操舵室には、この世の終わりのような顔をしたライルがいて、甲板の縁に立つ静也は、ウェイトリーと海パンで風を感じながら、何やら語り合っていた。 「マジカル皇女の斬獲劇でゲス!前の伊豆じゃあ酷え目に遭ったでゲスが!うっひゃあああああああああ!白いシャツがかえってエロさ倍増でゲス!」  心霊写真をバチバチ撮っていた、小鳥遊が私に言った。 「酷い目、って、何があったんですか?」  多分、警視庁怪奇課時代のことだろうとは思った。 「要するに、リアルインスマスに潜む影でゲス!ウジャウジャいた水棲人類は、諸共諫早さんに斬獲されてったでゲス。あん時ぁまだ、諫早さんが勘解由小路菌に感染する前でゲシた。白シャツに浮かぶおっぱいのポッチ、接写していいでゲスか?」 「結構です。ていうかやめて。蹴り落としますよ?」  にべもない私のコメントをスルーして、小鳥遊は続けた。 「いやあ。それにしても懐かしいでゲスね。あの頃、諫早さんは、旦那を何とも思ってなかったでゲス。思えば、伊豆からあの2人のストーリーは始まったんでゲスなあ。伊豆から帰って早々双子出来ちまうし、妊娠後期で諫早さんが旦那にデレッデレになるし。あそこでアチキは、屈辱的な扱いを受けてたでゲス。相模湾と聞いて、旦那もピンときたんでゲシょう。アホな夫婦のメモリアルプレイスでゲスよ」  でゲスか。正直ピンとこなかった。あの妊娠希望エロ妻が、かつてはそうだったのか。 「旦那に孕まされてから、アチキは言ったでゲスよ。結婚してから始まる恋愛だってあると。正直今は見るに堪えねえでゲスが、諫早さんは、旦那が最初の男でゲス。25すぎても男がいなかった残念な過去の末に、あんなおっさんに食われちまって、散々としか言えねえ人生だったでゲス。まあ、旦那に惚れちまえば、乾燥しきった人生が肯定されるでゲス。それ故に、妄信的にあんなゴミ野郎にベタ惚れになっちまっているでゲス。挙句の果てにはお前消えろ小鳥遊、とか酷え言われようで、アチキはとんだ嘘吐き女扱いでゲス。コティングリー村の偽妖精写真女みてえに」  うるせえよ。ぼつりとライルが呟いたのがかすかに聞こえた。  ホントに本調子ではないようだった。何があった?皇居で。 「おい。そろそろだぜ。もうちょいで予想圏内だ」 「でも、船影が全くないわね?」 「祓魔課が、海洋封鎖中でゲス。さながらバミューダトライアングルみてえに、船影消えちえちまって漁業も観光も大打撃でゲス。とりあえず沈んだ船はまだ1隻でゲスが、そこで動いた祓魔課は流石でゲス。逆に抗議してきた農林水産省は、あとでホエ面かくことになるでゲス。こうして祓魔官は、邪魔者扱いされながらも頑張ってるんでゲスなあ」  確かに。それが祓魔課の仕事だろうとは思う。  それでも、やはり海は静まり返っていた。  おや?向こうのパヤオには、シイラが跳ねる気配すらなかった。  パヤオって、浮き漁礁のことで、風の谷の偉大なあのおっさんじゃないし。 「おかしな匂いがする。紀子、何か感じないか?」  妙にハアハアしていた静也がいきなり言っていた。  何度か思っていたことがあった。こいつを甲板から蹴り落とすと、犬かきするのか?と。 「え?私はまだ、何も感じないけど?」 「そんなシャツ着ているからだ。脱げ。まず扇情的なホットパンツから先に」  脱がされそうになったので、甲板から思いっきり蹴り落としてみた。ボチャンっつった。 「あー酷え。プリンセス裸にするくらい簡単だって言ったでしょうよ。前面に出しすぎるから」  小鳥遊が、ウェイトリーを甲板から蹴り落とした。やっぱりボチャンっつった。 「ああああああああああああああ!どいつもこいつも!7月に頭春爛漫か!」  蹴り落とされた男共が、バシャバシャとした水音を立てた。  その時、漁船が震撼し、船体が突如真っ二つに裂けてしまった。 「ぎゃああああああああああああああああああ!何にぶつかったの?!氷山?!ここはタイタニック号か?!」 「魚探には影しか見えなかった。まあいい。俺みたいな奴は、海の底がお似合いだ。海底にはきっといねえ。ババアは」  またけったいなトラウマをこいつ。  海水が足を浚い、胸までが水に浸かっていた。  沈没によって発生した渦は、私を海底に引き込んでいった。  水没前の、小鳥遊の「あああ。懐かしいでゲス」という声が、いつまでも残っていた。
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