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* * *
「ただいま」
「おかえりなさい、あなた」
マンションの玄関で靴をぬぐ夫のもとへ、エプロン姿の妻が迎えに出てきた。
「慶次は?」
「ソファーで寝ちゃった。パパが帰ってくるまで寝ないって、がんばっていたんだけど」
「小学三年生には、夜の十時は深夜だからな」
昼間あったことを語りながら、二人はリビングに移動する。
「晩御飯の準備をするので、お風呂でも入ってて。あっ、慶次に毛布を掛けてくれないかしら」
夫はソファーで眠る息子の頬にそっと手を当てた。目に入れても痛くない愛しい息子。
「本を抱えて寝てるよ」
「この前の日曜日に言ったプラネタリウムが気に入ったみたいで。その本を持ち歩いて説明するの。私には、さっぱり分からないけれど」
夫は息子の抱えている本をそっと手に取った。表紙には『ブラックホールの謎』とある。家族で行った博物館で買ったものだ。
「最初は、全てを吸い込むブラックホールにビビッてたのに」
「そうそう。家族もお友達も、みんな食べられちゃうって泣いてたわ」
しかし、人間が生きている間にはそれが起こらないと知って、安心したのだった。その後、プラネタリウムの映像を見て深く興味を持った。
「ブラックホールって永遠に吸い込み続けるのかしら?」
キッチンの向こうから妻の声がする。
「ホーキング放射というプロセスで徐々に質量を失って、最終的には消滅する可能性があるそうだ。完全に蒸発するまでには10の64乗年以上かかるそうだけど。これは、宇宙年齢、138億年よりもはるかに長い時間だよ」
「うーん、良く分からない。何でも食べちゃうブラックホールも、食べないと痩せていくって感じかしら。理系の話は難しい。私じゃなくて、慶次に教えてあげて」
「もう、教えたよ」
妻がお盆に晩御飯を乗せて運んできた。
「……知ってる?」
「知ってる? 何だよ、思わせぶりな」
夫はテーブル脇の椅子に座り、食事を開始した。
「最近、慶次、彼女が出来たんだって」
「好きな子が出来たとかでなく、いきなり彼女か!?」
夫の声には嬉しそうな響きが含まれていた。その反応に、妻は眉をひそめる。
「まだ早すぎるわ。おませすぎ」
「彼女にヤキモチか? ハハハ」
妻は「そんなんじゃないって」と夫の腕をグーで押した。
「彼女は俺が守るって、気合い入れていたわ」
「何て名前の子だ?」
「カナとか、カヨとか言ってた気がする」
「息子がとられないように頑張れ。お前、まだ二十代で通用すると思うぞ」
「揶揄わないで」
妻はそう言ったあと、冷蔵庫からビールを取り出して戻ってきた。一本を夫に渡すと、もう一本の封を開けて飲み始める。
「やけ酒か? 俺という、愛しの相手がいるだろ?」
「愛しの夫は最近、お腹が緩んできてる。引き締めてから言ってよね」
妻は顔を赤くして「べー」と舌を出した。
将来、子離れができなくなるのではと心配になる。
「どんな子なんだ?」
「クラスの学級委員。黒髪が綺麗な、可愛い子らしいわよ」
夫はビールを開けて、グビグビと半分ほど一気に飲む。
そして、ソファーで眠る息子に視線を向けた。
息子はむにゃむにゃと、意味不明な寝言を口にしていた。夢でも見ているのか。
「ブラックホールに飲まれるくらい長生きできたら、彼女を守ってやれ」
長生きといっても、宇宙レベルの時間軸だとほんの一瞬の出来事だけどな。
そんな事を考えながら、夫は残りのビールを飲み干した。
(了)
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