黒穴[こっけつ]

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黒穴[こっけつ]

 雨上がりの森の中に立つ、一人の侍。  蒸し暑く湿った大気の中、額に汗が滲む。  彼の名は慶次。年は二十に満たないが、その目には数々の戦いを経験した深い落ち着きが宿っていた。  薄く擦り切れた紺色の着物姿、手には刀を構えている。長い刃は夕日を反射し、妖艶な光を放っていた。  森の奥から不気味な音が聞こえてくる。ずるずると地面を這う音。  突如、視界が一変した。  彼の目の前には、途方もない大きさの「何か」が現れた。  体はドロドロとした液体状で、動くたびに形が変わった。 「噂どおりの化け物だ。いや、それ以上か」  慶次は、一瞬たりとも怪物から目を離さない。  彼の精神は、このあとの戦いに向け鋭く研ぎ澄まされていた。  小山のように大きな体躯の中央に、赤く光る二つの点が現れた。  慶次は視線を感じる。 「黒穴(こっけつ)、覚悟!」  力強く叫んだ慶次は、剣を両手で握りなおし、怪物に向かって掛けた。  近付く侍に反応して、怪物は液体状の腕を伸ばした。 「おっと、危ねえ」  慶次は動きを見切り、軽やかに空中へ跳躍した。その高さは、身長の三倍を超えていた。 「見た目より素早い」  空中で黒穴(こっけつ)を睨みつける。 「くらえ!」  刀に落下の勢いを乗せ、怪物の頭上から突き刺す。  手ごたえがない。  刃先が怪物の身体を切り裂くが、勢いはドロリとした質感の中に消えていった。  切りつけた部分はすぐ元通りになり、まるでダメージを与えていない。  慶次は間髪入れずに、次の攻撃に移る。  怪物の攻撃を巧みに避けながら、幾度も刀を繰り出した。  最初は二本だった怪物の腕は、六本に増えていた。これでは、かわすのがやっとだ。  慶次は怪物の周りを素早く動き回り、注意を散らした。  素早さは勝っている。  防御が手薄になっている部分に刀を振るった。  黒穴(こっけつ)の動きが鈍くなってきたことに気付く。  息を切らしながらも次々に攻撃を繰り出した。  ドロドロとした液体が地面に飛び散る。再生が追いついていないようだ。 ――俺もそろそろ、体力の限界か。 「おい、化け物。体が小さくなってるぞ!」  皮肉な笑みを浮かべて威嚇する。  黒穴(こっけつ)はゆっくりと慶次へ近付く。 「オマエ、ツヨイ」  赤い目の下がパックリと開いた。それは、口のように見えた。 「ハングリーーーーー!!」  黒穴(こっけつ)の口が大きく開いた。 「オレ、クウフク、オマエ、イタダク」  口腔は、怪物の名のごとく黒い大きな穴に見えた。 「やってみろ――」  言い終わる前に慶次は、周囲の空気が吸い込まれるのを感じた。  強烈な吸引力に抵抗しながら、必死に立ち位置を保つ。 「こんなの、聞いてないぞ!」  岩、草、木々に至るまで、周囲にある物を見境なく吸い込み始めた。  慶次は刀を地面に突き立ててしがみつく。  大きな口で何でも飲み込む怪物。  旅の途中で聞いたことがあった。多くの人間が餌食になったことも。  慶次は覚悟した。  幾度となく危機を乗り越えてきたが、今回は無理かも……いや、諦めてはいけない。  死の恐怖と戦いながらも、冷静さを保つことに集中する。  心に閃きが走った。彼は思いつきに賭けることにした。  体を固定する拠り所である刀を地面から抜いた。  その瞬間、勢いよく化け物の口へと吸い込まれていく。  慶次は空中で最後の力を振り絞り、手にしていた刀を投げつけた。  刀は空を切り裂き、慶次の狙い通り黒穴(こっけつ)の赤い瞳へと突き刺さった。 「グギャーーー」  怪物は、激しい痛みで体をばたつかせた。  吸引力が弱まった瞬間を見逃さず、慶次は黒穴(こっけつ)の頭を蹴り上げて背後に逃れた。  刀を失った今、次の一手がない。しかし、心配にはおよばなかった。  黒穴(こっけつ)は、目から刀を抜き捨てると、体を引きずって森の奧へと消えていった。
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