1人が本棚に入れています
本棚に追加
黒穴[こっけつ]
雨上がりの森の中に立つ、一人の侍。
蒸し暑く湿った大気の中、額に汗が滲む。
彼の名は慶次。年は二十に満たないが、その目には数々の戦いを経験した深い落ち着きが宿っていた。
薄く擦り切れた紺色の着物姿、手には刀を構えている。長い刃は夕日を反射し、妖艶な光を放っていた。
森の奥から不気味な音が聞こえてくる。ずるずると地面を這う音。
突如、視界が一変した。
彼の目の前には、途方もない大きさの「何か」が現れた。
体はドロドロとした液体状で、動くたびに形が変わった。
「噂どおりの化け物だ。いや、それ以上か」
慶次は、一瞬たりとも怪物から目を離さない。
彼の精神は、このあとの戦いに向け鋭く研ぎ澄まされていた。
小山のように大きな体躯の中央に、赤く光る二つの点が現れた。
慶次は視線を感じる。
「黒穴、覚悟!」
力強く叫んだ慶次は、剣を両手で握りなおし、怪物に向かって掛けた。
近付く侍に反応して、怪物は液体状の腕を伸ばした。
「おっと、危ねえ」
慶次は動きを見切り、軽やかに空中へ跳躍した。その高さは、身長の三倍を超えていた。
「見た目より素早い」
空中で黒穴を睨みつける。
「くらえ!」
刀に落下の勢いを乗せ、怪物の頭上から突き刺す。
手ごたえがない。
刃先が怪物の身体を切り裂くが、勢いはドロリとした質感の中に消えていった。
切りつけた部分はすぐ元通りになり、まるでダメージを与えていない。
慶次は間髪入れずに、次の攻撃に移る。
怪物の攻撃を巧みに避けながら、幾度も刀を繰り出した。
最初は二本だった怪物の腕は、六本に増えていた。これでは、かわすのがやっとだ。
慶次は怪物の周りを素早く動き回り、注意を散らした。
素早さは勝っている。
防御が手薄になっている部分に刀を振るった。
黒穴の動きが鈍くなってきたことに気付く。
息を切らしながらも次々に攻撃を繰り出した。
ドロドロとした液体が地面に飛び散る。再生が追いついていないようだ。
――俺もそろそろ、体力の限界か。
「おい、化け物。体が小さくなってるぞ!」
皮肉な笑みを浮かべて威嚇する。
黒穴はゆっくりと慶次へ近付く。
「オマエ、ツヨイ」
赤い目の下がパックリと開いた。それは、口のように見えた。
「ハングリーーーーー!!」
黒穴の口が大きく開いた。
「オレ、クウフク、オマエ、イタダク」
口腔は、怪物の名のごとく黒い大きな穴に見えた。
「やってみろ――」
言い終わる前に慶次は、周囲の空気が吸い込まれるのを感じた。
強烈な吸引力に抵抗しながら、必死に立ち位置を保つ。
「こんなの、聞いてないぞ!」
岩、草、木々に至るまで、周囲にある物を見境なく吸い込み始めた。
慶次は刀を地面に突き立ててしがみつく。
大きな口で何でも飲み込む怪物。
旅の途中で聞いたことがあった。多くの人間が餌食になったことも。
慶次は覚悟した。
幾度となく危機を乗り越えてきたが、今回は無理かも……いや、諦めてはいけない。
死の恐怖と戦いながらも、冷静さを保つことに集中する。
心に閃きが走った。彼は思いつきに賭けることにした。
体を固定する拠り所である刀を地面から抜いた。
その瞬間、勢いよく化け物の口へと吸い込まれていく。
慶次は空中で最後の力を振り絞り、手にしていた刀を投げつけた。
刀は空を切り裂き、慶次の狙い通り黒穴の赤い瞳へと突き刺さった。
「グギャーーー」
怪物は、激しい痛みで体をばたつかせた。
吸引力が弱まった瞬間を見逃さず、慶次は黒穴の頭を蹴り上げて背後に逃れた。
刀を失った今、次の一手がない。しかし、心配にはおよばなかった。
黒穴は、目から刀を抜き捨てると、体を引きずって森の奧へと消えていった。
最初のコメントを投稿しよう!