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──君の居ない春が来た。二人で見上げた桜が今年も小ぶりな花をつけて咲っている事実が、君が居なくとも世界は回ることを暗に伝えている気がして舌打ちのひとつも零れそうになる。自分にとっては世界のすべてだったとしても、他者から見れば君は道行くひとびとのうちの誰かにすぎない。君が欠けたところで世界を揺るがすような出来事が起こるわけじゃないんだとこんな時に思い知らされる。
「……あーあ」
私は手に提げていたコンビニの袋を揺らす。乾いた音を立てて騒々しく喚いたその口のなかには、君が好きだった春限定のお菓子がこれでもかと詰め込まれていた。薄緑と桜の色合いに心を躍らせていた去年の春が遠い昔のようだ。今はこの二色も心なしか褪せて見える。『食べ物は何を食べるかじゃなくて、誰と食べるかが大事』──どこかで聞いたことのあるような台詞が頭を過ぎってとうとう我慢していた舌打ちが零れてしまった。慌てて辺りを見渡したが、幸い人の気配はない。
「これ、一人で食べるのかぁ」
袋の中身に視線を落とし至極当たり前のことを呟く。誰かに促されたわけでも無いのだから、買ったものはすべて自分が食べ切ってしまうのが当然のことだ。私は若干の情けなさを覚えながらも桜に背を向けて歩き出そうとする。もうこの場に用は無くなった、後は帰って本を読む時間に充てよう。
──と、そのとき。
「──……え?」
君と見慣れた背格好の少女を見つけて思わず刹那、呼吸が止まるのを感じた。髪の長さも服の好みも何もかも君と瓜ふたつの後ろ姿。なぜ、どうして、違う、彼女はきっと他人の空似。詰めていた息を吐き出し、浅い呼吸を繰り返して華奢な背中を見つめる。
背中に薄く冷や汗が滲むのを感じた。
少女が視線に気付いたのか、こちらを振り返る。
「……?」
──振り返った少女の顔貌は当たり前のことだが、君本人ではなかった。だが、よく似ている。血の繋がりでもあるのかと思うほどに。
少女は目を細めて不思議そうな顔をしながらも、私に会釈をしてから友達の元へと駆けて行った。ひとつに束ねられた長い黒髪が視界の端で揺れている。
私はその場に縫い止められたように動けなくなっていたが指先がじわりと温かくなる感覚を憶えてようやく、自分の手が春の陽気にそぐわず氷のように冷え切っていたことに気がつく。
「──」
──君の名残を見つけるだけで今でも畏れに似た感動が背筋を這い上がるのを感じる。数多幾千のひとびとに囲まれようとも、君の美しさは、街ゆく人の視線を残らず奪っていた。誰もに愛される君はまさしく春の桜に似ていた。人の手で散らされることを好まず、風に唄い春の陽に遊ぶようなひとだった。
自由なひとだった。奔放なひとだった。
誰かに深く理解をされることを嫌っていた。
「全く同じ価値観を持ち得ないのならば話し合う意義を感じない」──彼女はいつぞや、そんなことを私に言っていた。「話し合いは着地点を見失えば価値観のぶつけ合いになる。自分の考えが誰かを圧し潰すくらいなら、最初から誰とも分かり合わない方がいい」とも。極端な話ではあるが理解出来ないわけでもないのは事実だ。自分の考えを通して誰かの意見を潰してしまうのならば、最初からその場を設けなければいい。
本当に、自由を愛するひとだった。
自由を愛するひとはこの世のしがらみを嫌っていた。
肉体、こころ、他者との関わり。
すべてを疎んでいた。
──季節外れの桜はいつしか誰もが知らぬ間にひっそりと散っていた。それを知ったのは、去年の冬のことだった。冬にしてはあたたかい日のことだった。
「──咲ってるといいな」
私は桜を眺め独り言つ。
どうか、どうか。
世を疎んだ花に、あかりが灯るように。
応えるように風が、轟、と哭いた。
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