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何も手がかりが得られないまま何度か月が満ち、そして欠けた。
役所は相変わらず忙しい。
呉永思はあちこちから送られてくる木簡や竹簡を、延々とさばく毎日を送っていた。
遠くからバタバタと足音が聞こえてくる。
若い役人がお待ちをと叫んでいるが、足音の主は歩みを止める気配がない。
ついに部屋の前までやってきて、呉永思の許しも得ず戸を開け放った。
呉永思は寛大な人物だが、この暴挙を黙って見ていられるはずもない。
「お引き取りを。礼儀知らずに割く時間の猶予はない」
「俺はこれでも常識のかけらくらいは持ってるんですよ。窓口に呉永思さまに会いたいってちゃんと届け出た。それなのに全く取り次いでくれない。仕事が多すぎて呉永思さまがくたばってんじゃねえかと思って。無事ですか?」
動じる様子もないのんきな男の声に思い当たって、呉永思はそろそろと頭を上げた。
できのわるい泥団子のような、色の黒いごつごつした顔の男が笑いながら立っていた。
青い顔をしている若い役人に仕事に戻るように指示をし、呉永思はあらためて譚封月に声をかけた。
「譚封月。君は生きているのか?」
「ごらんの通りぴんぴんしてますよ。都の名所とかいう断崖絶壁に連れていかれて背中をぽーんと押された時にはどうしようかと思いましたけど。俺が産湯の代わりに海を泳ぎながら生まれたんでなければ今ごろここにはいませんね」
呉永思は頭を抱えた。
「君は……そうなることがわかっていて墨の製法を洗いざらい教えたのか?私は最初に会った時に言ったはずだ。それは門外不出にしておけと。人の欲にはきりがないものだ。君を亡き者にしても奪いたがる輩がいると思ってのことだ。いや、都へ行かせた時点で私たちに責任がある。すまないことをした」
「謝らないでください。わかっていますよ。呉永思さまと胡正さまが俺を守ってくれていたこと。俺は都に行けて本当によかったんですよ」
譚封月は事もなげに言ってのけ、さらに続けた。
「都で俺は最上級の紙を見てきました。それこそ人の背丈を超えるほどの大きさで、向こうの灯りが透けるほど薄いものです。筆も扱いやすい。そうなれば書も絵も大きくなっていくでしょう。俺が伝えた指先くらいのちっぽけな墨丸ではすぐに足りなくなる」
「譚封月。今度は何を考えている?」
譚封月の頭の中ではすでに、呉永思の考えが遠く及ばないことが形になっているのだろう。
「新しい墨の製法ですよ。都にもたくさんの松がありましたが、この土地のものが質がいい。そして墨を練るのは漆ではなく膠です。漆のようにかぶれもしないし安定してこうやってたくさんの松の煤を繋ぐことができます」
譚封月が懐から取り出した墨は見事な大きさだった。
見たこともないほど艶やかな黒い光を放っている。
「ただこいつにも欠点があって……」
「それはわかる気がする」
呉永思は譚封月からじりじりと離れた。
「言ってくれていいですよ。今俺ものすごく獣くさいですから。うっかり膠を腐らせちゃったんですよ。夏場に獣の死体を放置したみたいになって宿は追い出されるし役所にも入れてもらえないし。次は獣ではなく魚の膠を試すつもりです」
このずぼらな譚封月が魚の膠を腐らせないでいられるだろうか。
きっと無理だ。
獣くささを超越する、魚くさい大惨事が待ち構えている。
「そ、そうか。でも君の発明は大したものだ。すぐに予算を出すし、別室を用意させよう!」
「呉永思さまっ!」
感極まって抱きつきそうになる譚封月を何とか下がらせる方法はないかと考えつつ、呉永思は部屋の中をぐるぐると後退し続けるのだった。
【完】
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