十三

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十三

 俺がいわゆる共産主義、社会主義に関する本を目にしたのは、他ならぬ志信の部屋だった。  高学生の頃、本当に必要最小限しか学校に顔を出さなくなった志信と会うは、茶屋の奥深く、ほんのりと灯りのともった志信の小さな部屋がもっぱらだった。 『学校からの課題を持ってきたから……』  という半ば嘘で半ば本当の話を口に、検番の親父の前をすり抜けて、志信のいる茶屋へ走る。  暮れ始めて慌ただしく蠢き始めた花街の細い路地、着飾った姐さんたちの白粉の艶めいた匂いと嬌声を掻き分けて、路地の奥へと急ぐ。  夜の帳が降りるとともに喧騒に包まれる街の中で、志信が彼方をぼんやりと眺めているそこだけが、シンと静かだった。 『志信いるか?』  ガラリと開け放った障子の向こうから、気怠るそうに白い面差しがこちらを見上げた。 『座敷……か?』  高校生になっても、芸妓として度々座敷に呼ばれる……いや、むしろ引きが増えたと苦笑いする志信はこの日も島田の鬘をつけていた。芸妓になり、牛込の師匠について能の舞台にも度々出るようになっていた志信は、高校進学を機にバッサリと髪を切っていた。地毛で結わなくても良くなって、短くなった髪に、『せいせいした』と笑ってなでていた項に、白い白粉が妖しげに曲線を描いている。 『親父が、来るらしい』  赤く紅を掃いた唇を僅かに歪ませる志信に、俺は内心に湧き上がったモヤがほんの少し収まるのを感じた。  親父……というのは志信の実の父親だ。どこぞの党の議員で、志信の母が隠れて産んだ私生児の息子に責任を感じてか、度々会いに来るのだという。 『別に俺はあの人に何もしてもらう気は無いんだがな……』  表立って会えない父子は、花街の茶屋の人目につかない座敷でしばしの語らいをする……今日の小手毬の黒留袖の衣装も、そのためのなのだと思うと、少しだけ心が楽になった。 『すぐに済ませてくるから、少しだけ待っててくれ』  志信は読んでいた文庫本を無雑作に机の上に投げ出し、カチリ……と咥えたタバコに火をつけた。 『共産党宣言……?』  ふと目をやった文庫本の見慣れないタイトルに俺はつい言葉を漏らしていた。 『今日びの学生の合間で流行っているそうだ。……まぁ別に面白くは無いけどな』  デモとかをやっている連中はたいがい読んでいるらしい……という志信の言葉に俺は思わず眉をしかめた。 『そんな本、どこで……』 『士郎さんに借りた』  士郎さん……というのは最近、志信の母の連れ合いになった若い男で、氏素性は知らないが好感の持てる人……ではあった。  そんな彼が、大学の講堂に籠り、機動隊と遣り合ったという志信の話に俺はさすがに驚いた。 『公安に目をつけられてて、逃げて、ここに転がり込んできたらしい』  花街というのは、昔から官警の手が届きにくい。 『お袋に惚れて、ここに隠れている間に革命とやらに対する考え方も大分変わったらしいけどな……』  わずかに持って逃げた荷物の中身は本ばかりで、その本だけはまず捨てられなくているという。 『知識としてはあっても悪くばないだろうから……てな』  知らずに他人のアジに巻き込まれるよりは、まず知っておけ……というのが士郎さんの弁らしい。 『客のなかで、そういう話を持ち出してくる奴もいるしな……』  花街の客には政界財界絡みの客が多い。社会主義の政党の大物も来る……という。 『俺もちょっと読んでみるかな……』  何気なく呟く俺に、志信は途端に眉をしかめ、そして大きくため息をついた。 『読むのはいいが……読むならここで読んでいけ』 『え?』 『親父さんに殴られたくないだろ?』  遣り手の呼ぶ声につぃ……と立ち上がり、こちらをチラリと振り返った。 『それに、ここに来る口実にもなるだろ?』  背中越しにクスリと小さく笑う声に思わず頬に熱が上がるのを感じていた。  そして、しばらくの間、志信の部屋でのマルクスの秘密の勉強会は続き……それは俺と志信の新しい『秘密』になった。
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