十一

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十一

 俺が依子に出会ったのは大学ニ年の春だった。  慣れない古都の暮らしに半ば辟易し始めていた頃だった。     俺が世話になることになった祖父母の家はやはり古い町医者で、花街近くにさり気なく建っていて、毎夜、漏れ聞こえる三味線や嬌声に俺が育ったこの街が懐かしくなることもあった。  美しく着飾って街をゆく舞妓や芸奴に水を向けられることも少なくはなかったが、俺はその女性たちの誰もが志信よりも色褪せて見えた。  偽りの笑み、偽りの美辞……古都には当たり前に溢れているそれの裏に隠された冷ややかな眼差し……。  余所者の俺には立ち入れない、立ち入りたくない世界だった。  俺の育ったこの街にも、偽りの恋は幾つもあったけれど、この街には真実があった。志信という真実の存在の前では偽りの美姫たちの誘惑は煩わしいばかりだった。  いやむしろ、志信の母の末路を知っているだけに、恐ろしい忌まわしい影をいつもその背中に見ていた、と言ってもいい。  依子はそんな女性とは程遠く、大学内でも異色だった。 はんなりとした手弱かな風情が良いとされるあの街でぐいと顔を上げて、スッピンで大股で学内も大通りも早足で闊歩していた。 『私も余所者だから、さ』  カラカラと笑い飛ばす彼女は決して見映えが悪いわけではない。高めの身長はたしかに目立つものではあったが、顔立ちは整っている方だったと思う。  黒目がちの大きな目ときゅっと引き結んだ口元が理智を際立たせていた。が、笑うと妙に子供っぽい部分もあった。  古都に生まれ育った人間に言わせれば、『色気も素っ気も無いガサツな』依子のほうが、東育ちの俺にはよほど付き合いやすく、気兼ねなく言葉を交わすことができて、彼女の学問に対する情熱や真摯な姿勢には好感が持てた。 『東京か〜。いいなぁ……』  西日本の雪国で、お嬢さま扱いで育った依子は閉鎖的なその環境にイヤ気が差して家を出たいとの切実な思いから、学問に邁進したのだという。  なぜ医学部を選んだのか、という俺の問いに依子は少しばかり顔を曇らせて答えた。 『私の育った辺りは、女の人は碌に医者にも行けないの……』  旧弊な地域で、妊産婦が臨月近くまで働いていて、妊婦健診にも行かず、出産には町の助産師が立ち合うのが常だという。当然、産褥に理解も無いに等しい。 『それだけじゃないの……』  感染症で高熱を出しても碌に寝込むこともできず働かされ、手遅れで生命を落としたり、外傷ですから怪我をした方が悪い……と言われることもあるという。 『じゃあ、女医なんてもっと嫌がられるだろうに』 『だからなるのよ、それにね……』  女性の自分のところになら、悩みや病気を抱えた人も来やすいはず、と依子は強い眼差しで語っていた。  四年になって臨床実習が開始されてグループを組んだ仲間達の中でも依子はひと際際立つ存在だった。  患者や教授たちの中には依子の率直な物言いに眉を(ひそ)める者もいたし、仲間うちで衝突することもあったが、そのたびにやんわりと場を収めるのが、指導補助としてグループの面倒を見てくれていた院生の菅生(とおる)だった。  彼と依子が懇意になるのに、さして時間はかからなかった。菅生先輩は本当に面倒見の良い人で、俺たちによく飯を食わせてくれた。  グループの友人たちが俺が花街近くの住まいだと聞いて押しかけようと言い出した時もやんわりと止めてくれた。 『下宿じゃない。お身内の家なんだから失礼だろう』  そう言って真剣な表情で窘めてくれた。そして、不服気な友人のひとりが、 『先輩は色街に興味は無いんですか?』 と尋ねる言葉にもきっぱりと 『無い』 と答えていた。  後で知ったのだが……先輩の実家はあまり裕福な家庭ではなく、歳の離れた姉は中学を出てその地域の花街に芸奴として奉公に出たのだが、早くに亡くなったのだという。 『俺はたまたま学校の成績が良かったんで、たまたま成功していた叔父が出資してくれてね……』  だから医者の道に進んだ、と先輩は言った。  成績の優秀な先輩が外科や脳神経科を選ばずに精神科を選んだ理由がおぼろげながら解った気がした。  菅生先輩と依子はきっと同じ思いを持っているり依子の意志の強さと屈託の無さに惚れただけではなく、惹かれ合う運命なんだろうと思った。 『俺は……』  俺はただ、志信を救いたかった。それだけだった。
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