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二
俺の父は、この街からほど近い場所で開業医をしていたため、この街にもよく往診に呼ばれた。心配性の母はそのたびに俺に父の鞄持ちをして、一緒に着いていくように命じた。
父は検番の前を通り花街に入るとすぐに志信の祖母に俺を預け、診察が終わるまで俺はお茶屋の離れで志信と遊んでいた。
初めて会った時から志信はこの花街の女性の誰よりも美しかった。選りすぐりの美少女達が妍を競うこの街でも、志信の愛らしさは群を抜いていた。
成長するにつれ、美貌には益々磨きがかかり、すらりと伸びた手足にスッキリとした面差し、絹のような射干玉の髪をなびかせた姿は、まんま美人画から抜け出てきたようだった。
とりわけ透けるように白い肌と高い整った鼻筋は欧米人との混血という実父から受け継いだものらしい。
実際、女性というには少々上背があったが、均整の取れた長身の背中には他の女性には無い色香のようなものがあり、俺はただ見惚れてしまって、志信に怪訝そうな顔をされてしまうこともしばしばだった。
志信の戸籍上の父親になった能役者は近くにある稽古場でよく志信に舞いの稽古を付けていたが、姿形の良さと所作の優雅さに、相当に志信に入れ込んでいた。
俺は素人だから才能の有る無しなどは全くもってわからなかったけれど、『羽衣』を舞う志信が本当に天女のように見えて、凄く不安になったこともあった。
それからはしばらく志信が天に帰ってしまわないか本気で心配になって、父や母に黙って志信の家まで行き、垣根から覗いては検番のオヤジに怒られたのを覚えている。
教師や学校に言い含めてあったのか、志信は小学校には女の子として通わされていたし、それもギリギリの出席日数で放課後まで学校にいたことの無い志信が男子だと気がつく者は殆どいなかった。
かく言う俺も、だいぶ後に離れの庭先で志信がいわゆる立ちションをする姿を見せてこなかったら、志信が男だということに気付きもしなかっただろう。
正直、朱色も鮮やかな花篭の着物の裾をあっけらかんとたくし上げられ、顔を赤らめる俺の前で、ニヤリと笑ってせいせいと池の鯉に向けて放物線を発射された時には、心底呆気に取られた。
『啓介には本当の俺を知ってもらいたくなったから、さ』
嘯く志信の悪戯っぽい笑みが何故か寂しげに見えて、俺は微かに胸が痛くなった。
『女でも男でも志信は志信だろう?』
それは紛れもなく俺の本心だったのだが、何故か志信は少し涙ぐんで、ギュッと俺に抱きついた。
『ありがとう』
そう呟く志信からはほのかに甘い花の香りがした。
その頃になってもう一つ気付いた事があった。
日常の志信の周りには彼の母親の姿は無かった。いつも女将の祖母と仲居の中年女性が世話をしていて、他には見世の下足番の男と出入りの着付師が様子を伺いにくるだけだった。
後から知ったのだが、本来、花街では子どもとは言え、未婚の男が一ツ家に同居するのはタブーなのだそうだ。他にも芸妓が夫や子持ちだと知れると興が覚めるからだ、と志信は祖母に言い含められていたらしい。
だから女の子の姿でいても、母と暮らすことは出来ないのだ、と。
だが、女将の、志信の祖母の思惑はそればかりでは無かった。志信が十歳になると、芸妓に付けて、半玉として座敷に上がらせていたのだ。
伸ばした髪を桃割れに結わせて、顔に白塗りをさせて客の酌をさせていたのだ。
本当の女子より背丈のあった志信は、十歳でも十二、三才には見えたし、白塗りで化粧を施した顔は、他の半玉よりもはるかに美しく、妖しげな色香さえ漂わせていた。
粋人を気取る客の中には女装の美少年に酒を注がせる趣向を気に入り、足繁く通ってくる客もいたらしい。
斜陽で客足の遠のいた見世に客を呼び込む苦肉の策ではあったろうとは思う。
それを知った母親は初めは女将に抗議をしたそうだが、病がちで色々と世話を掛けた女将に強く出ることは出来ず、渋々と口をつぐんだ。
ただ、志信の言うには同じ座敷に呼ばれても最初は優し気な眼差しだった母が日を追うごとに志信を睨み付け、邪険に扱うようになった。志信は何よりそれが辛かった、と溢していた。
そういうせいもあってか、歳を経るごとに志信の顔からは屈託の無い笑顔は消え、代わりに憂いを含んだ物思わし気な表情が増えていった。
中学校に入る頃には流石に性別を偽るわけにもいかず、志信も長かった髪を肩に着くあたりで切り、私立の名家の子弟が多く通う中高一貫の学校に進んだ。
俺はと言えば、本音を言えば地元の学校で良かったのだが、志信のことが心配で、親に無理を言って同じ学校に通わせてもらった。それなりに名のしれた事業家だった母方の祖父の後押しがあり、志信の祖母からも頼み込まれていた事もあり、勉強は大変だったが、あまり反対はされなかった。
中学生になって志信は以前よりも学校に来なくなった。体調を崩して寝込む日も多くなり、宿題や課題が出ると、俺が茶屋の離れまで届けに行った。
それでも志信の成績は学年のトップクラスで、おそらくは座敷から引けた後に必死で勉強していたであろうことは、部屋に無造作に積まれた本の山から見て取れた。
この街で、閉鎖された空間の中で際物として金と欲望を持て余した男たちの好奇の視線に晒され続ける日々が思春期の少年にどれだけ苦痛を与えていたか。
志信はいつも早く街を出ていきたい、と呟いていた。
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