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 高校に入学したばかりだというのに、志信は学期の半ばから学校に来なくなっていた。  授業のノートを届けに行っても、志信の住む離れに続く裏木戸は堅く閉ざされ、仕方なく不機嫌な女将に手渡しても、志信の様子は一向に知れなかった。 志信が母親の睡眠薬を盗んで大量に飲んで自殺を図り、その自殺未遂から体調を崩して伏せっていたのだと聞いたのはかなり後のことだった。  夏休みになり、ますます志信の家に行く機会を失っていた俺の元にふいに茶屋の下足番が手紙を持ってきた。  手紙といっても、ノートの紙を破って折り畳んだ、いわゆる走り書きのメモのようなものだった。  ーー皆が祭りに出払った頃を見計らって来てくれーーと短く書かれたそれを、俺は安堵と不安の入り混じった目で見ていた記憶がある。  その日は、今日と同じ毘沙門天の祭り、宵祭りの夜だった。門前町として栄えたこの街では、妓女や囃子方が祭を盛り立て花を添えるのが常だった。  俺は下足番に、わかった、とだけ伝えてくれるように頼んだ。  日が落ちて、門前の街のあちらこちらに吊るされた提灯に火が入り、辻々に賑やかな声が溢れ始める。俺は祭に行くと両親に告げて家を出た。  そぞろ歩く人々で通りは埋め尽くされ、あちらこちらから響く甲高い嬌声と酔漢の下卑た笑いを掻い潜るようにして、俺は志信の家へ急いだ。  灯りで煌々と照らされた表の見世とは違い、志信の住む離れに続く裏木戸のあたりはシンと静まり、満開の夏椿の花がしらしらと揺れているばかりだった。  俺はそっと腰を屈めてその静謐の中に潜り込んだ。暗闇の中にぼうっとした明かりが浮き上がって見える。  俺はそろそろとそちらに歩み寄った。 「志信?」  声を掛けると、淡い影がゆらりと揺れる。 「啓介か? 入れよ」  ひそ、と漏れる声に外と部屋とを隔てている障子をそっと開けると、志信の二つの瞳がこちらを向いているのが見えた。青白い、痩せた腕が力なく俺を手招きした。 「志信……」  俺は縁側に靴を脱ぎ捨て、志信の方に近づいた。  志信は浴衣を着流して、片方の膝を立て、もう片方の脚を投げ出すように伸ばして、間仕切りの襖にもたれて座っていた。血の気の無い頬と唇。諦めきったような虚空を見ているような眼差しはつい先日まで俺が知っている志信とはあまりに違い過ぎて俺は言葉が無かった。  「そんな顔するなよ」  余程ひどい顔をしていたのだろう。志信は皮肉めいた微笑みをちらりと覗かせると、傍らの畳の上の小さな箱を手繰り寄せた。濃紺に金の鳩。俺も親父の書斎で何度か見た記憶があった。 「志信、お前なんでそんなもの……」  口籠る俺に志信はふんっと鼻で笑うと、パッケージの中からゴソゴソと覚束ない手付きで紙巻きを一本抜き出した。 「座敷にきた客の忘れ物だ。駄賃がわりに貰ってきた」  いっぱしの不良のように唇の端に咥え、志信は指をしならせて燐寸(マッチ)を擦る。硫黄の匂いが鼻先をかすめ、志信の形の良い唇の先に小さな火が灯る。  紫煙を深く吸い込み、ふうっと吐き出す手慣れた様は、初めての喫煙とは思えなかった。
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