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「『水あげ』って……お前……」  確かに昔は半玉が芸妓になる『衿替え』の際に男と床入りをする、つまりは旦那と呼ばれる謂わばスポンサーになる男と関係を持つ慣わしがあったと聞いている。  けれどそれはずっと昔の話で、今は無い筈だ。 「今はそんなこと、していないはずだろ?」   ましてや志信は男だ。  俺の問いに志信は皮肉めいた笑みを浮かべて、吐き捨てるように言った。 「表向きは、な」  形の良い爪が、また一本、煙草をしおれかけたパッケージから摘み出す。 「制度として廃止されただけだ。実質は自由恋愛だってことにはなってるけどな」   芸妓は芸を売るのであって身体を売るのではない。そのスポンサーであり後ろ盾である、旦那はその芸の向上・精進に勤しむ女性を『支援』する。  だが、そんな綺麗事だけで、花街が成り立っているわけではない。  客の男が芸妓に金を注ぎ込む、その見返りに芸妓が男と身体の関係を持つ。当たり前に行われているそれは互いの自主的な行為で、誰に強制されているわけでもない、ということらしい。 「でも、それは本職の話なんだし、『衿替え』だって形だけなんだろ?……第一、お前は男なんだし」 「まぁ披露目の席じゃ、俺の旦那は矢来町の養父(おやじ)が務めてくれるという話だから、ヤバいことは無いだろうけどな」   俺は志信の言葉にホッと胸を撫で下ろした。能役者の志信の養父は純粋な芸能の探究者だし、そこそこいい年齢になっている。青臭い無分別な振る舞いをするような人間ではない。  「だが、女将は信用できない」  志信の表情がふと険しくなった。 「あいつはこの見世だけが大事だからな」  それは俺にも否定は出来なかった。客の受けが良い、と言って男の志信に半玉の姿形(なり)をさせて座敷に侍らせるような(ひと)だ。 「太い客のなかには俺とヤリたいって迫ってきた奴もいるしな」  ズキリと俺の胸が急に痛くなった。知らなかった。 「そんな顔をするな。ここの若旦那が、……お袋の連れ合いが追い払ってくれたから」  心配するな、と志信が微笑った。 「まぁ、この先はそうもいかないだろうな……」  狼藉者が大人しく引き下がったのは、それは志信が『未成年』だったからなのは俺にも察せられた。今だって俺たちは社会的には『未成年』には違いないのだが、だがこの街ではそれは通らない。 『衿替え』をしてしまえば、志信は一人前として扱われてしまう。  俺は掛ける言葉が見つからなかった。志信も口をつぐんで押し黙った。重苦しい沈黙。部屋の中に仄かに立ち昇る煙草の煙。遠くから微かに祭囃子が聞こえてくる。  どれだけの時間が流れただろうか。いや、もしかしたらほんの一瞬かもしれない。  志信が無雑作に煙草を灰皿に揉み消し、じっと俺を見つめた。 「なぁ、啓介。俺、お前が好きだ」  志信の問いに俺の心臓がドキリと鳴る。いつも淡々とした志信の縋るような眼差しに俺はコクリと頷いた。 「だから……お前が『水あげ』してくれ。せめて最初はお前がいい」 「し……の……ぶ……」  柔らかな唇がまた俺の唇に触れ、カラカラに乾いた口の中に志信の唾液が流れ込んできた。  甘い。苦いはずのそれがヤケに甘く感じられて、俺は軽い目眩に両の瞼を閉じていた。
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