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六
「『水あげ』って……お前……」
確かに昔は半玉が芸妓になる『衿替え』の際に男と床入りをする、つまりは旦那と呼ばれる謂わばスポンサーになる男と関係を持つ慣わしがあったと聞いている。
けれどそれはずっと昔の話で、今は無い筈だ。
「今はそんなこと、していないはずだろ?」
ましてや志信は男だ。
俺の問いに志信は皮肉めいた笑みを浮かべて、吐き捨てるように言った。
「表向きは、な」
形の良い爪が、また一本、煙草をしおれかけたパッケージから摘み出す。
「制度として廃止されただけだ。実質は自由恋愛だってことにはなってるけどな」
芸妓は芸を売るのであって身体を売るのではない。そのスポンサーであり後ろ盾である、旦那はその芸の向上・精進に勤しむ女性を『支援』する。
だが、そんな綺麗事だけで、花街が成り立っているわけではない。
客の男が芸妓に金を注ぎ込む、その見返りに芸妓が男と身体の関係を持つ。当たり前に行われているそれは互いの自主的な行為で、誰に強制されているわけでもない、ということらしい。
「でも、それは本職の話なんだし、『衿替え』だって形だけなんだろ?……第一、お前は男なんだし」
「まぁ披露目の席じゃ、俺の旦那は矢来町の養父が務めてくれるという話だから、ヤバいことは無いだろうけどな」
俺は志信の言葉にホッと胸を撫で下ろした。能役者の志信の養父は純粋な芸能の探究者だし、そこそこいい年齢になっている。青臭い無分別な振る舞いをするような人間ではない。
「だが、女将は信用できない」
志信の表情がふと険しくなった。
「あいつはこの見世だけが大事だからな」
それは俺にも否定は出来なかった。客の受けが良い、と言って男の志信に半玉の姿形をさせて座敷に侍らせるような女だ。
「太い客のなかには俺とヤリたいって迫ってきた奴もいるしな」
ズキリと俺の胸が急に痛くなった。知らなかった。
「そんな顔をするな。ここの若旦那が、……お袋の連れ合いが追い払ってくれたから」
心配するな、と志信が微笑った。
「まぁ、この先はそうもいかないだろうな……」
狼藉者が大人しく引き下がったのは、それは志信が『未成年』だったからなのは俺にも察せられた。今だって俺たちは社会的には『未成年』には違いないのだが、だがこの街ではそれは通らない。
『衿替え』をしてしまえば、志信は一人前として扱われてしまう。
俺は掛ける言葉が見つからなかった。志信も口をつぐんで押し黙った。重苦しい沈黙。部屋の中に仄かに立ち昇る煙草の煙。遠くから微かに祭囃子が聞こえてくる。
どれだけの時間が流れただろうか。いや、もしかしたらほんの一瞬かもしれない。
志信が無雑作に煙草を灰皿に揉み消し、じっと俺を見つめた。
「なぁ、啓介。俺、お前が好きだ」
志信の問いに俺の心臓がドキリと鳴る。いつも淡々とした志信の縋るような眼差しに俺はコクリと頷いた。
「だから……お前が『水あげ』してくれ。せめて最初はお前がいい」
「し……の……ぶ……」
柔らかな唇がまた俺の唇に触れ、カラカラに乾いた口の中に志信の唾液が流れ込んできた。
甘い。苦いはずのそれがヤケに甘く感じられて、俺は軽い目眩に両の瞼を閉じていた。
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