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 長い坂を汗を拭きながら、一歩ずつ踏みしめるように登る。  傍らを学生らしき若者たちが、はしゃぎながら走り抜けていく。  ふう、とひとつ息をついて、彼らの幼さの残る紅潮した頬に懐かしさと愛おしさがこみ上げる。かつて俺たちにもそういう時代があった。少し前にはひとり娘も、彼らのように屈託の無い笑顔で、ーーお父さん!ーーと俺に走り寄ってきた。  今はその頃よりもう少し大人びて、俺よりも好きな男が出来て、満面の笑みは俺よりも彼のほうに向けられるようになった。  そして俺は、父親としての役目を終え、やっとひとりの男に戻った。ただのひとりの男に戻って、一歩ずつ夏を踏みしめる。  青年達の嬌声を背に傍らの寺の赤い楼門に深く頭を下げ、細い石畳の路地に足を踏み入れる。昔の妓楼の名残を残した造りの家並みは今はカフェやお洒落な雑貨を扱う店、或いは日本情緒を楽しみたい外国人向けの宿にと様変わりしている見世もある。が、露地の奥から幽かに流れてくる新内の三味線の音色が、僅かながらも花街としての姿を忍ばせる。  その一際奥まったところ、ベンガラ格子と唐破風屋根の仕舞屋には不似合いな夏椿の巨木が通りの間際まで白い花を零れさせている家の前で足を止めた。  空を仰ぐように二階を見上げると、花よりもなお白い(おもて)が、所在無げに出窓の欄干に身をもたせて俺を見下ろしていた。 「遅かったな」 「悪い。野暮用があってな」 「上がってこいよ」 「ああ」  二言三言、言葉を交わして掲げられた暖簾を潜ると、臈長けた婦人がササと走り寄ってきた。嫌味の無い藍鼠の絽に露草の江戸小紋で小ざっぱりと身繕いをした姿は、女将然としていて、いつの間にこんなに貫禄がついたのかと内心舌を巻いた。  だが、三つ指をついて俺を見上げてニコリと笑う笑顔は半玉の頃のままのようにも見える。 「先生、お久しぶりです」 「久しぶりだね、佳世乃さん。元気だったかい?……志信は変わり無かったか」 「えぇ、兄さんは相変わらず。毘沙門天のお祭りが近付くとそわそわして……。先生との逢瀬を邪魔されるのが癪なのか、この時ばかりは原稿も締切りより早く上げて、編集の方も驚いてますのよ」 「佳世乃、余計なことは言わなくていい。……啓介、早く上がってこいよ」  クスクスと笑う彼女の背後から、少しばかり不機嫌そうなたずね人の声が漏れ聞こえた。 「今行く。そう急かすな」  答えて俺は上り框にボストンバッグを置き、彼女に軽く会釈をして、狭い階段に足を掛けた。 「どうぞ、ごゆっくり」  背中越しに苦笑いする彼女の声に微かな安堵感のようなものが漂うのも、いつもの事だ。  階段を登りきると、襖を開け放した座敷に柱にもたれるように志信が座っていた。  外の日差しがあまりに強いせいか、壁際の薄暗がりのせいか、その(おもて)がわずかに翳りを帯びて見えて、俺は一瞬、胸が苦しくなった。 「待たせて悪かった」  俺の言葉に形の良い口元がフッと小さく笑みを作った。 「馴れてる」  短い答えに再び俺の胸はきゅっと絞まった。 「でも……」  黒目がちの切れ長の目がじっと俺を見つめた。 「お前は俺を待たせても必ず来るから……。だから安心して待てる」 「済まない」 「そう言うな」  頭を下げる俺に志信がクスリと笑う。 「今日だって、祭り囃子が始まる前に来てくれたじゃないか……まあ、飲もう」  ふと見ると佳世乃さんと仲居らしき女性が膳と酒を運んできていた。 「兄さん、あまり啓介さんを困らせたら駄目よ。長旅で疲れてらっしゃるんだから」 「大丈夫ですよ」  気持ちばかり佳世乃さんに微笑み、銚子を手に取る。 「まずは一杯いこうか」  ぶっきらぼうに差し出された盃に酒を注いでいる間に佳世乃さん達は菜を並べ終わって、するりと姿を消していた。 「佳世乃さんも、すっかり女将が板についたな」  ひそと囁く俺に志信が小さく苦笑う。 「佳世乃ももう三十路だ。……お袋に段々似てきた」  素質があったんだろうな、と自嘲気味に呟いて、細い、長い指が盃を口に運ぶ。  
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