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『エイプリールフールにつく嘘』のポイントは、絶対にありえない嘘をさも真剣に面白おかしく語り、いかに周りを笑わせるか。それに全てがかかっていると思う。
「あ、やべ。今日エイプリールフールじゃん! 嘘つかなきゃ」
本当は『エイプリールフール』4月1日の午前中だけを指すらしい。だがそんなこと、つい夕方の今さっきに起きて、これから夜勤に入るための申し送りを聞く私には何も関係ない。
そして今日の夜勤の相手である、御年56歳の吉村さんは鬼気迫る顔でひと言、
「妊娠しちゃった!」
「ちょ!」
私も含め、その場にいた同僚がみんな揃ってゲラゲラ笑う。佐藤さんなんて笑いすぎてゲホゲホむせ込んでいる。
そんな和気藹々とした申し送りの場。部屋の一番隅っこで、技能実習生のユアンちゃんだけが曖昧な笑みを浮かべている。
私は彼女に、
「ユアンちゃん、『妊娠』は分かる?」
私はお腹が膨らんでいるジェスチャーをし、
「ア、ハイ。分かりマス」
「吉村さん今いくつよ? もうとっくに生理上がってんじゃん」
「っつーかヤル相手いんの? ひょっとして再婚⁉︎」
「まさかぁ」
吉村さんの受け答えに、一同はまたドッと爆笑した。エイプリールフールの嘘。絶対にありえないこと、真剣に面白おかしく、いかに周囲を笑わせるか。
私は隣であやふやな微笑みを続けているユアンちゃんに、この冗談の何が面白いか教えてやる。彼女はやっと満足に破顔し、それを機に申し送りは終了する。私たちは三々五々に散り、各々の仕事へと戻っていく。
違う部署へと分かれていくユアンちゃん。私は大声で呼び止めた。
「ユアンちゃん!」
「ハイ」
「最近、元気?」
「元気、ゲンキ」
彼女は力こぶを作って『元気』のポーズをするが、力がなくて説得力がない。
「本当に? なんか顔色悪くない?」
「悪くナイですヨ。元気ゲンキ。私頑張ってお金いっぱい稼ぎマス」
ネイビーのポロシャツ。そろそろ動けば暑くなる時期なのに、近日、彼女はいつもダボダボした毛入りのカーディガンを着込んでいる。
「暑くないの?」
「ちょっと暑いカナ。デモ大丈夫ネ」
汗を掻いてスポーツドリンクをがぶ飲みしても、ここ数ヶ月、彼女は決して愛用のカーディガンを脱いでいなかった。
「そっか、じゃあまた後でね」
「ハイ、また後デネ」
私は気づくべきだったのだ。私だけではない、吉村さんだって、佐藤さんだって。みんな気づくべきだったのだ。エイプリールフールの嘘なんて、そんな面白いことを言っている場合ではなかったのだ。
それから二週間後の明け方、鬼のような着信の嵐で目が覚めた。グエン・ティー・ユアン。
ユアンちゃん? こんな時間に一体何事だろう? 私は慌てて、
「ああ、ユアンちゃん? どうしたの?」
電話の向こう、彼女はしばらく泣いていた。異常な空気に私はすっかり目が覚めて、気づいたら身支度を整えていた。
カーテンの隙間から、朝日が昇ろうとしている。靴を引っ掛け、鍵を開ける。扉を開けた瞬間、ユアンちゃんは鼻水を啜りながらこう言った。
赤ちゃん産まれちゃった、と。
どうしていいから分からなかったから、首を絞めて殺した、と。
その後、私が駆けつけた時には、彼女も赤ちゃんも息がなかった。赤ちゃんはユアンちゃんが殺し、ユアンちゃんもまた、出血多量で死んでしまった。
私を含め、誰も彼女の妊娠に気づかなかった。御年56歳の吉村さんにとってはエイプリールフールの冗談でも、ユアンちゃんには目を背けたくなる現実だった。
私と吉村さんは、彼女が住んでいたアパートの前で手を合わせた。彼女の好きなコーラとリンゴと蒸したさつまいもを供える。
「吉村さん、気づいてました?」
吉村さんは肩をすくめて、
「ぜーんぜん。あんたは?」
「私も全然。もっと彼女と話をしておけばよかったって思っています」
最近元気? 顔色悪くない? もっと突っ込んで訊けばよかった。何でそのカーディガンを脱がないの? と。
「あのカーディガン。お腹のライン、隠すためだったんでしょうね」
「だろうね。……ところであんた、父親の話聞いた?」
「いいえ」
「どうも相手の男、国に帰っちまったらしいよ。ユアンちゃんのこと置いて。ったく、サイテーだね」
「……そうですね」
私は彼女に何をしてやるべきだったのだろうか。
「あんた、この後用事あるの?」
「用事って……。これから夜勤ですよ、私。ユアンちゃんの分」
「あ、そっか」
私と吉村さんはアパートの前で別れた。吉村さんの車が走り去るのを見送って、私も自転車のスタンドを蹴り上げる。どこからか飛んできたカラスが、お供えのさつまいもを咥えて飛び去っていく。きっとこの先、毎年エイプリールフールの度に、ユアンちゃんのことを思い出すのだろう。
「さ、行くか」
彼女が穴を開けたシフトを埋めるために、私は自転車を職場へと漕ぎ出した。
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