桜が咲く頃に

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「――えっ、ここ?」 着いた先を見て、彼は驚いていた。 「朝まで一緒にいてください」 「だって僕ら、さっき会ったばかりだよ?」 「そんなの分かってます」 初対面の男に、こんなことを言うのは初めてだった。遊びでしたことも、一度だってない。 「いや、でも……」 「嫌なら他を当たります」 ラブホテルの前での押し問答。ゲスな視線をいくつか感じる。 「わかったよ。でも僕は何もしないからね」 よくあるフレーズを無視して、建物の中に足を進めた。 部屋の暖房だけでは、冬の雨水に浸された服が、すぐに乾くはずもなく、手先や頬も凍えたままだ。 「早くシャワー浴びておいで。そのままじゃ、ほんとに風邪引くよ」 「はい」 蛇口をひねると、バスルームが湯気で一気に白くなった。 熱い放物線は、素肌にはまだ痛い。徐々に温度に柔らかみを感じて、やっと身体の感覚が戻ってきた。 バスローブを着た私は「次、どうぞ」と彼を促した。 「タオルで拭いたから僕はいいよ」 「あの、私は浴びてもらった方が……」 「言ったよね、何もしないって。それよりお腹空いてない? なんか頼もうか、ピザとかどう」 「ピザ……」 身体が暖まったせいか、急に空腹を感じた。それが表情に出ていたようで、彼はクスっと笑い、メニュー表を開いた。 ピザ以外のものも合わせて、彼はフロントに注文をし、電話を切った。 「僕の名前は(りょう)。呼び捨てでいいよ、君は?」 「冬華(ふゆか)」 「歳は?」 「二十五」 「なんだ、僕と同じだ」 「……そういえば、プレゼントなに買ったの」 「婚約指輪だよ」 「それって……プロポーズ」 「そう」 「なのに、前日にフラれたの?」 「うん」 「可哀想」 「言語化すると惨めになるからやめて」 「ごめん。でも喧嘩した勢いで別れて、すぐ復縁とか、よく聞くし」 「喧嘩じゃないし、復縁もありえない」 彼は、きっぱりと言った。 「彼女とは長い付き合いでね、いつか結婚しようと思ってた。彼女の気持ちも同じはずだったんだ、一年前までは」 「一年前?」 「浮気してたんだよ、職場の上司と」 「確か、前兆があったって言ってたよね。浮気に気づいてたのに、結婚するつもりだったの?」 「なんとなく違和感はあったけど、彼女を疑いたくはなかった。結婚すれば余計な心配はいらなくなると思ってたんだ」 「結婚してたって、浮気する人はするよ」 「そうなんだけど、彼女だけは違うって思いたかった。なのに突然、現実を突きつけられて」 「浮気現場を見たとか?」 彼は小さく首を振る。 「妊娠したから別れてほしい、って言われた」 「それ、亮の子供じゃなくて?」 「もう半年近くそういうのはなかったから。その男とは、一年前から関係があって、浮気が本気になったんだってさ」 「そんな……本気になった時点で言うべきなのに、酷い」 「ほんと、もう笑うしかないよね」 彼は肩を揺らす。この話が事実とは思えないくらいに、亮からは一切、暗さを感じなかった。 * 届いた料理がテーブルに並んだ。ピザ、チキン、ケーキとワイン。 「クリスマスっぽくていいでしょ」 亮は言い、こちらに笑顔を向ける。 ひとつしかないソファーに並んで、グラスを鳴らした。頬張ったピザは、普段の何倍も美味しかった。
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