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後宮で過ごすようになってしばらくが経った。
紅花は、隙を見て閻魔王の区域に入りたいと常に計画している。しかし現段階では、鬼殺しの仕事が忙しすぎてとてもそれどころではない。玉風の分も仕事をすると言った手前、獄吏の仕事のように放棄することもできないのだ。
起きている間は、ほぼ一日中鬼殺しを行っている。狂鬼も多いが、幽鬼の数はそれ以上に多い。
後宮の治安維持のため身を粉にして働いているというのに、鬼殺しという職業は後宮の娘たちからは敬遠されている。紅花が通る度、歩いていた下女たちはぎょっとして鼻を袖で覆う。鬼の悪臭はやはり紅花にも移っているようで、中には紅花が近付くと「くっさ!!」と大きな声で叫ぶ者もいた。
紅花の日々の情報源は、御花園の花たちだ。宋帝王の后たちには花を愛でる趣味があるらしく、植えろと指示したのも彼女たちらしい。紅花にとっては仕事をする上でとても有り難いことだった。
「狂った鬼はどちらへ向かった?」
こうして追いかけている鬼の情報を花から聞き出すことができる。花から聞いた通りに進めば、簡単に狂鬼の居場所を特定することができた。
仕事が終わった後は、冷宮付近を流れる川で体や髪を洗う。本来身を清める頻度は身分に比例するものだが、鬼殺しはあまりに臭いため、後宮の侍女たちよりも高頻度で体を濯ぐ決まりがあるらしい。冷宮付近の川には特別な薬剤が含まれており、狂鬼の返り血も洗い流してくれる。
しかし、水の温度はあまりにも冷たい。毎度入る度に身震いするほどだ。黒縄地獄の付近にある温泉が懐かしい。後宮で温泉に入れるのは、王や皇后たちだけである。
「はぁ~……今日も疲れたぁ……」
川に浸かりながら空を見上げ、思わず弱音を呟くと、後ろから男の声がした。
「どう? そろそろ帰りたくなった?」
久しぶり、と言える程久しぶりでもない。養心殿の近くで会った以来の飛龍がそこに立っていた。
紅花は暗い川から頭と肩だけを出した状態で言う。
「見れば分かると思うけど、私今、体を清めているところなの。裸だから離れてくれない?」
「俺は妻以外の女性の裸には欲情しないから安心していーよ」
「そういう問題じゃなくて。私が見られるのが嫌だって言ってるの」
「なんだ。君にも恥ずかしいという感情があったんだ」
飛龍がよく知らぬ生物の新たな生態を発見したかのような顔で見つめてくる。
どうやら退く気はないようだ。紅花は大きな溜め息を吐いた。
「身分が低いとこんな冷たい水にしか入れなくて可哀想だね」
「馬鹿にしに来たのかしら」
「いや? そろそろ音を上げる頃かなと思って様子を見に来たんだ」
宋帝王の座にいながら、暇なのだろうか。
紅花は呆れながら答える。
「魑魅斬に褒められるくらいにはうまく仕事をこなしているつもりだけど?」
「魑魅斬が褒めた? 冗談だろ」
「私、結構見込みがあるみたい。一日の仕事をより早くこなせるようになれば時間ができて、閻魔王の区域に向かうこともできるかもね」
悪巧みを打ち明ければ、飛龍はははっと乾いた笑いを漏らす。
「まだそんなこと言ってるの? 例え会えたとしても、帝哀は君になんて見向きもしないよ。皇后や皇貴妃のことも放置しているような色恋の分からない男だからね。遊び相手にもなれないんじゃない?」
「へえ、帝哀様は皇后様にもご興味がないのね。良いことを聞いたわ」
帝哀が誰かを寵愛しているのであれば付け入るのは難しかっただろう。まぁ、例えそのような状態だったとしても、どんな手を使ってでも振り向かせるつもりではあったが。
紅花は水から上がり、木にかけてあった毛巾を手に取った。いきなり素っ裸で隣に立たれた飛龍は面食らったのか凝視してくる。
「……恥ずかしいんじゃなかったの?」
「恥ずかしいけど、こんなところで足止めを食らい続ける程暇でもないわ。この後魑魅斬が夕食を用意してくれているしね」
そう言うと、少しむっとした様子で腕を引っ張られた。紅花は濡れたまま、間近にある飛龍の整った顔を怪訝に思いながら見上げる。
「……何?」
「随分危機感がないんだなって。俺は男が好きだけど、女もいけるってこと、忘れてない?」
「〝宋帝王様〟は冥府の最下層である獄吏には興味ないんでしょう」
わざと王としての名を呼んで煽ると、飛龍の笑みが深まった。
「強気な女は嫌いじゃない。鼻っ柱をへし折ってやりたくなる」
――その時、冷宮の方から魑魅斬の声がした。
「おーい、紅花嬢ちゃーん。いるか~? 今日は浴が長いな。文思豆腐が冷めちまうぞ」
飛龍にちらりと目線をやると、飛龍は黙って紅花の腕を離した。林の向こうの魑魅斬に向かって「今行くわ」と声を張って伝え、髪を絞って水分を落とす。
「残念。また今度ね、紅花」
飛龍がひらひらと手を振って去っていく。
あの人私の名前知ってたのか、と思った。
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