一幕

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一幕

 離れていても、山の熱気がこちらまで来ている。  黒縄地獄は、生前殺生や盗みをした者が落ちる地獄だ。代表的な八大地獄は王たちが住む後宮の階層の地下にあり、その中の一つである黒縄地獄は地下二階に存在する。ここで罪人たちは獄吏によって熱鉄の縄で縛られ、熱鉄の斧で切り裂かれる。大釜で煮られることもある。  紅花は今日、その大釜の準備を頼まれたのだが、適当に他の鬼に頼んで抜け出してしまった。 (何が楽しくて人が煮込まれるところを見なきゃいけないのよ)  黒縄地獄の横にある獄吏専用の温泉に浸かって溜め息を吐く。この階層で趣味の悪い罰に使われている熱鉄の山。あの山のおかげでこんなに良いお湯に入れるのだけは喜ばしいことだ。  湯でほかほかになった紅花は、後宮のある上層階にさっさと戻ることにした。  後宮の近隣には獄吏専用の版築工法で造られた家屋が並んでおり、紅花もその内の一つで玉風と一緒に住んでいる。  今日もうまく仕事から逃げることができた。しかし、いつまでも人を苦しめずに獄吏として地獄にいることは難しい。 (後宮入りできたらなあ……)  紅花は少し離れたところから後宮の大きな門を見上げた。  冥府の長い長い歴史上、地獄の十王が獄吏を見初めて後宮入りさせた例がないわけではない。というか、むしろかなりある方だ。  後宮入りさえすれば獄吏としての仕事はせずに済む。そこに僅かな希望を持ちたいところだが――今の代の王たちは裁きの仕事以外では滅多に後宮の外に出ない。  それこそ、お会いできる機会があるとするならば、昨日のような移動時のみだ。  そこで紅花ははたと思い付いた。 (移動中の王様の目に留まることさえできれば、今よりは可能性があるのでは)  紅花は容姿に自信がある。水に映る自分の顔を見てもなかなかの美形だと思うし、獄吏たちの間で美人だが仕事のやる気がないと噂されているのを知っているからだ。それ故、顔さえ見てもらえればきっと王に気に入られることができるという根拠のない自信が湧いてくる。  悪巧みを考え気分が良くなった紅花は、鼻歌を歌いながら家の戸を開けた。  明らかに帰るのが早く、仕事をしていないであろう紅花を玉風が叱りつけたのはまた別の話である。
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