一幕

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 美しい庭園や池、豪華な装飾が施された橋、いくつもそびえ立つ大きな宮殿、鶴や虎などの動物の像――紅花にとって見たことのない光景がそこには広がっていた。暗く湿っぽい、長く滞在するだけで気分が落ち込んでくる八大地獄とは大違いだ。後宮内は紅花が想像していたよりもきらびやかだった。  武官や侍女、下女や鬼たちが定められた着物を纏い、様々な仕事に従事している。鬼に運ばれながら、横目にその様子を見てわくわくした。  冥府の後宮は、大きく十個の区域に分かれる。十個の区域の中にそれぞれ王の私室である養心殿があり、その周りに王の複数の妻や女性を住まわせる宮殿がある。後宮は基本的に王以外の男子禁制なのだが、男色家である現宋帝王・飛龍のために、宋帝王の区域のみは男も沢山いるらしい。  飛龍は紅花たちのことを気にも留めず、飽きたようにさっさと私室である養心殿に向かってしまった。紅花と玉風は鬼たちに拘束されたまま、冷宮と呼ばれる質素な物置小屋のような場所に連れてこられた。  冷宮の入り口の前で紅花たちを降ろした鬼は、「魑魅斬(ちみぎり)様、連れて参りました」と誰かに呼びかける。すると冷宮の扉が開き、中から筋肉質な男が出てきた。  扉が開いた途端、うっと隣の玉風が口を手で押さえた。  ――酷い悪臭がする。 「ここは鬼の死体を処理する宮だ」  魑魅斬と呼ばれた、筋肉質な男が淡々と説明してくる。小麦色に焼けた肌と、顔の傷跡が印象的な男だ。彼の手の中には鬼の血で汚れた桃氏剣があった。 「嬢ちゃんたちにはこれから、ちと酷だが、後宮の汚れ仕事〝鬼殺し〟をしてもらう」 「鬼殺し……」  玉風が絶望の表情を浮かべる。  鬼は、死ぬ時に独特の異臭を放つ。それこそ、気分が悪くなるだけでなく、嗅げばその後数日は体調を崩すほどの異臭だ。そのため、寿命が近付き狂った鬼の処理や、死体の片付けは、冥府で最も忌み嫌われる仕事である。 「後宮には鬼が多いんだよ。鬼は優秀だが、ふとした瞬間に狂う。毎日数体は殺さねばならぬ鬼が出てくる。そういう鬼を狂鬼と呼ぶ。――そして、後宮にしか現れない鬼もいる」  魑魅斬が冷宮の天井を指差した。ゆらゆらと白い靄のようなものが蠢いている。確かに、紅花は見たことのないものだ。しかしあれが鬼の一種であることは分かる。先程から何度も――呼びかけてくるから。 「あれは、地獄で苦しみ続ける死者の恨みが具現化したもの。幽鬼と呼ばれている」 「そんなものが……」 「地獄に落とされた人々は、自身を裁いた十王が余程憎らしいんだろうな。あのような生霊を日々飛ばしてくるくらいだし。いや、死者なんだから、生霊とは言わねーか?」  何がおかしいのか、魑魅斬がくっくっと笑った。  その時、玉風が床に向かって嘔吐する。鬼の死体の異臭に耐えられなかったのだろう。既に顔からは血の気が引いており、体調も悪そうだ。 「……玉風姉様は別の場所で休ませてくれないかしら。私の方がこの臭いには強いようだし」 「なんだ、弱っちいな。ま、使い物にならないなら仕方ねえ」  魑魅斬がつまらなそうに桃氏剣を持ち直すので、紅花は慌てて玉風を庇うように立ちはだかった。 「殺さないで」 「おいおい、嬢ちゃん、後宮では仕事のできない奴は殺されるんだぜ。この場所はそう甘くねえよ」  後ろで苦しんでいる玉風をちらりと見た紅花は、覚悟を決めて言い切った。 「なら、玉風姉様の体調が治るまで、私が玉風姉様の分の仕事も引き受けるわ」 「……初心者が、最初から十分に殺しの仕事ができると?」 「死者の魂を苦しめ続ける獄吏の仕事より、ひと思いに殺せる殺しの方がよっぽど心が楽よ」  本当はやりたくない。でも、玉風をこんなところまで来させてしまったのは自分だ。その責任は取らねばならないと思った。
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