実話・教室のけむり

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 この話は、ほんとうにあった出来事を元に書いています。  教師生活を50年近く勤めた私の思い出の中で、N君の行動ほど私を爆笑させた生徒はいませんでした。  あれは男子校に赴任して間もない頃です。 一年生の担任になった私はその日もいつものように朝のホームルームを冗談を交えて明るく過ごそうとしていました。  その時です。 教室の後ろの方から煙が立ち昇ってきたのを見て、私は目を疑いました。  これから授業が始まるというのに、私が目の前にいるというのにタバコを吸っている生徒がいる。  右の窓側、最後部の席のNでした。 私は怒りで顔も頭も真っ赤になり、全身が震えながら大声で怒鳴りました。 「Nー!お前、教室でタバコを吸うとはどういうつもりだー」  私の叫びで教室の全員がNを見ました。全員に見つめられてもタバコを消すことなく煙はゆらゆらと上がっています。 Nが恐る恐る手を上げました。 「せんせー。オレ、タバコ吸ってないよー」  消え入りそうな声でしたが、しーんと静まり返った教室で全員に聞こえていました。 私は全身を震わせながらNのところに向かいました。そして見たのです。Nの後ろで炊飯器からもくもくと蒸気が上がっていたのを。 「こ、これはどういうことだ、N。なんでここに炊飯器が?」 Nは叱られた子犬のような目で私を下から見上げながら、 「母ちゃんが寝坊してご飯炊く時間がなかったから、これ持って行けって」 その言葉に私は息を飲みました。少しして、 「つまり、お前のお母さんは息子にひもじい思いをさせたくなくて炊飯器を持たせたわけか。で、お前は左手に炊飯器。右手に鞄を持って登校したってことなんだな?あ、左手に鞄かもしれないが」 生徒たちから一斉に笑い声が聞こえて、教室中に響きました。 「持たせる方も持たせる方だが、持って行く方も持って行くほうだ。そしてそれを炊くんだからなー。素晴らしい!俺はNのお母さんの愛に感動した」 と、言っている時に炊飯器のスイッチが「ピッ」と鳴ってご飯が炊き上がりました。 「Nちょっだけ見ていいか?ほんとは少し蒸した方が美味しいご飯になるのはわかっているけど、見たいんだ。良いよな?すぐに閉めるからさ」 Nは頷きました。 私が炊飯器の蓋に手をかけると、十数人の生徒が集まってきました。 蓋を開けると蒸気の中に黒い小豆が見えました。 「すげー。豆ご飯だよー。おかずを作る時間は無いからご飯だけでも美味しく食べられるようにって。N、良いお母さんだなー」  あの頃はコンビニもない時代ですから弁当を買って持たせることはできませんでした。  育ち盛りの息子にひもじい思いをさせたくないという母の愛は、今も昔も変わらないでしょうけれど今の時代、炊飯器と鞄を持って学校に生かせる親は皆無でしょう。 いや、あの頃だってそうでした。 Nの親だけでした。 もう一度思います。  持たせる方も持たせる方だが、持って行く方も持って行くほうだと。 Nは今、どんな大人になっているのでしょうか。
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