【四】Ωの本能 

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「有栖川!」  力を振り絞って名前を呼ぶ。その微かな声が届いたのかどうか、扉を叩く音が激しくなる。 「どうしたんだ、開けろ!」  有栖川が叫んでいる。  藍染は俺の頭を抑えたまま、妙に冷静な目つきで扉の方を見つめていたが、やがて立ち上がり扉へ向かった。  どうするつもりかと見ていれば、意外なことにあっさりと鍵を解錠した。  即座に扉を開け放った有栖川が飛び込んでくる。 「仁平!」  倒れている俺を目にして、有栖川はすぐに駆け寄ってこようとしたが、 「ストップ」  藍染がその腕を掴んで制した。 「それ以上動いたら、あいつの首を切るよ」  改めて俺を見た有栖川は、首元に刃物が突きつけられているのに気付いて動きを止める。 「どうして会長がここに?」  藍染の問いに、有栖川は答えない。 「……まあ、いいや。会長がここに来るのは計算外だったけど、ちょうどいい」  藍染は独り言のように呟いたと思うと、有栖川に向かってすっと片手を差し伸べた。  その手にスタンガンが握られていることに気付いたのは、有栖川が呻き声を上げてその場に崩れおちた後だった。護身用の武器が裏目に出る事態に、俺は歯噛みすることしかできない。  脇腹を抑えながら有栖川が身体を起こそうとすると、藍染はもう一発、今度は背中の辺りにスタンガンを撃ち込んだ。  有栖川は今度こそ床に倒れ伏した。すると藍染は化粧台の前に設置されていた椅子を運んできて、抱え上げた有栖川の身体を無理矢理座らせる。背もたれごと、両腕をガムテープでぐるぐる巻きにして拘束してしまう。  その頃には、ほんの少しだけあちらの様子に気を取られていた香我美も動きを再開していた。しかし刃が生地に引っかかったようで進めなくなり、苛々と舌打ちをしている。乱暴な挙動のために何度も首が締まって苦しかった。 「ねえ会長、どうしてあいつと番のふりなんかしてたの?」 「なんのことだ」  会話は勝手に耳に入ってくる。有栖川の声に動揺はなかったが、 「今更しらばっくれても無駄だよ」  と、藍染は冷たく言い放った。 「僕はずっと、あなたのことが好きだった。それなのに、よりにもよってこんな奴と……」  こんな奴、と忌々しげに言われて横目を向ければ、こちらを睨む藍染と目が合う。  ――そうか。  藍染が好きだった相手とは、香我美でも他のαでもなく、有栖川だったのか。  藍染がこんなことをしている理由が、ようやく少し見えてきた気がする。 「でも、何か事情があって仕方なくついてた嘘だったんだよね? ねえ、僕の項を噛んでいいんだよ。あなたは僕の運命の番なんだ。初めて会った時から、運命だって分かってた」  運命だなどと、藍染は無茶苦茶なことを言っている。有栖川は紛うことなきΩだ。同じΩである藍染の運命のはずがないのだから、勝手な思い込みだ。  そうとは知らない藍染は自分のカラーを外して床に投げると、一本の注射器を取り出してみせた。  細い針先が電灯を反射して微かに光る。  有栖川に何をするつもりなのか。  息を呑んで見つめる俺の前で、藍染は自身の体操着の袖を捲りあげたかと思うと、その手首に躊躇なく針を突き刺した。   自分自身に刺すとは予想していなかったため驚かされる。しかし、それからすぐに藍染の様子に変化が現れたことで、その目的が察せられた。  あれは恐らく、即効性のヒート促進剤だ。  注射で接種するものとなると、病院で入手した医療用だろう。不妊治療の一環で促進剤を自己注射するケースがある。まだ未成年の藍染に処方されているのは疑問だったが、医者を丸め込んだか、裏ルートでも存在するのだろうか。いずれにしろ、香我美が持っていたような真偽不明の一般流通品とはわけが違う。  藍染はこちらに背を向けているので表情は窺えないものの、息は荒くなり、足下がふらついていた。強烈な甘い匂いが室内に広がっていく。 「……あれ? 反応してないね」  やがて有栖川の足下に跪いた藍染が、訝しげな声を上げた。有栖川の身体が、ラットどころかまるで反応を示していないことに気が付いたようだ。  藍染の手が有栖川の体操着を下ろしていく。 「おい、やめろ!」  激しく身を捩り抵抗を示す有栖川を抑え込んで、藍染は暫し足の間で怪しい動きをしていた。  しかしやがて、「え?」と声をあげ、凍りついたように動きを止める。 「――どうして? どういうこと?」  藍染が力なく手を下ろし、ぺたりと床に座り込む。彼が何に驚いているのかすぐには分からなかったが、次にその口から漏れた言葉で事態を察することが出来た。 「会長が、Ω……?」  有栖川の足の注射痕――Ωの印を見られたのに違いなかった。汗を掻いたせいで、痕を隠すためのシールが剥がれていたのかもしれない。  自分のことのようにひやりと背筋が冷えた。  が、俺は有栖川のことにばかり気を取られている場合ではなかったと、首元からぶちりと嫌な音がして気がつく。 「ははっ、やっと切れた」  笑い声に、自分の背に乗っている香我美へ視線を戻す。  首を締め付けていた感覚がふっと消えて、用を為さなくなったカラーの残骸が、床にぱさりと落ちた。保護を失った首が久方ぶりの外気に晒され、その心許なさはすぐに恐怖に育つ。  香我美が剥き出しになった首筋に顔を寄せてくるが、すぐに噛みついてこようとはしなかった。  行為中に精を注ぎながら項を噛むのが一般的だ。そうしないと番が成立しないというわけではないが、本能的にそうせずにはいられないものらしい。   香我美が俺の身体をひっくり返し、服を脱がせながらキスをしようとしてくる。首を曲げてそれを避けた拍子、焦った表情の有栖川と目があった。 「――そうだ。見ての通り俺はΩだ」  有栖川が口を開いた。 「騙していてすまなかった。仁平には偶然その秘密を知られたから、番のフリをしてもらうことになっただけだ。俺も彼もΩなんだから、互いに何の感情もない。分かるだろう?」  急に饒舌になった有栖川に対し、藍染は呆然としているばかりで、その言葉が耳に入っているのかどうかすら怪しく見える。有栖川がΩだという事実が、よほどショックだったようだ。 「仁平はただ巻き込まれただけの人間で、君が憎む理由はないはずだ。あのαが彼を噛んでも、君には何のメリットもない」  有栖川はどうやら、藍染を説得しようとしているらしい。切実な声色だった。  しかし首だけで俺を振り返った藍染は、何の思考も感情も働いていない、ガラス玉のような瞳をしている。 「ちょっと、こっちに集中してくださいよ」   香我美に顎を掴まれ、無理矢理正面へ向き直らされた。散々焦らされたせいもあってか、目を血走らせ何かに憑かれたような顔をして、ほとんど正気を失っているように見える。  熱い手が脇腹を撫でおろし、布越しに下肢に触れる。 「あっ! あ、」  身体は微かな刺激を貪欲に拾おうとして、腰が浮き勝手に声が漏れた。 「くそっ」  向こうから、舌打ち交じりの有栖川の声に続いて、ダンとかガンとか物音が聞こえた気がしたが、もうそちらに視線を向ける余裕なんてなかった。しかしすぐに、音の発信源の方から視界へ飛び込んでくる。  発信源――つまり駆けてきた有栖川の足が、香我美の頭を蹴飛ばす。その光景がスローモーションのように見えた。  香我美が俺の上から転がり落ちて床に倒れる。  拘束を自分で引きちぎったのだろうか、手足にガムテープの残骸を巻き付けたままの有栖川が、息を荒げて傍らに立っていた。 「逃げるぞ仁平!」  呆然としていた俺はその声にはっと我に返った。  手足を拘束された状態のまま、有栖川の腕に抱きかかえられる。また不本意な姫抱きをされているという考えがちらりと脳裏を過ったが、さすがに今はそれどころではない。  香我美は頭でも打ったのか、意識はあるようだがすぐに起き上がってくる様子はなく、藍染は相変わらず呆然と座り込んだままで、こちらを見てすらいなかった。  有栖川は俺を抱えてプール側の扉から飛び出すと、無人のプールを横切って、フェンスに設けられた扉から外へ出る。  そのまま人気のない路を選んで、裏門を抜けて学園の外へと脱出した。
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