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回数が分からなくなるくらいには互いに達して、ようやく人心地ついた頃。
さすがに疲れた様子の有栖川が、どさりと俺の上に倒れ込んでくる。
「おもい」
クレームを無視して、有栖川は俺の首筋に鼻先を寄せてきた。
「いい匂いが、するな」
酔っ払ってでもいるみたいな、どこかぼんやりした口調で有栖川は囁く。Ωである彼にとって、俺のそれは本能を刺激するような香りではないはずなのに。
――もしも。
もしも俺かこいつか、どちらかがαだったなら、俺たちは今頃どうなっていたのだろう。
そんな詮無いことを考えていたのが伝わったみたいに、不意に項に歯をたてられた。
「いった」
普通に痛くて声をあげる。それでもしつこく急所を甘噛みされて、「やめろ」と怒りながらも、力尽くで引き剥がす気にはどうしてかなれなかった。
「あんたがそんなことしても、意味ないだろ」
告げると、有栖川は俺の首筋に顔を埋めたまま、「うん」とだけ囁いた。その短い声が震えて聞こえたのは――きっと気のせいだろう。
「……心臓が止まるかと思った。お前が、無事で良かった」
有栖川は言った。
今言うのか。
さんざっぱら嬲った後でしんみりされてもな、などと心の片隅で思いつつ。
「うん、ありがと」
艶やかな黒髪を撫でると、有栖川は毛繕いされた猫のように、心地よさそうに目を閉じた。
その後俺は、家に保管してあった抑制剤を飲んでみた。
どうせ効かないだろうと諦め半分だったのだが、不思議なことに服用後数十分もすると、身体の倦怠感も熱も拭ったように消え去ってしまった。夢から覚めたような妙な気分だ。
何故、二週間前から飲んでいた調整剤や今朝飲んだ抑制剤は効かなかったのだろう。抑制剤は今飲んだのと同じ種類のもので、持ち歩き用のピルケースに入れていたか、薬箱にしまってあったかの違いだけだ。訝しく思うが、考えたところで答えは出そうになかった。
床に散らばった服を拾い上げて検分し、変な汚れなどがついていないことを確かめる。
俺たちはまだ二人ともパンイチの状態だった。親が帰ってくるまでに服を着て、換気をして、有栖川を帰し、痕跡の残らないように部屋を片付けなければならない。
「そういやさ、どうすんの、藍染のこと」
俺はクローゼットからシャツを引っ張り出しながら問いかけた。
藍染に、有栖川がΩだと知られてしまったのだ。ヒートに溺れて頭から抜け落ちていたが、冷静になってみれば、一刻も早く対処しなければならない問題だった。
「聞いてる? とにかく口止めしないと……俺もあんたも思い切り暴行受けてんだし、それを不問にする代わりに口外しないって約束させるとか」
考えを口にしてみるが、有栖川からの反応は返ってこない。不審に思ってベッドを振り返ると、
「――もういい」
ベッドに腰掛けた有栖川は、床の辺りを見つめて言った。
「は? なにが?」
「もういいんだ。俺が、全校生徒を騙してきたのは事実だろ。そのツケが回ってきたのなら、仕方がない」
いつまでも皆を騙し続けるなんて、土台無理な話しだったんだ。有栖川はそう続けた。
「なに言ってんだよ。αとして生きて親父さん見返すんだろ、そうしないとどっかのαと結婚させられるんだろ。そんなの、ありなえいだろ!」
「だが……」
「だがじゃない。大体寝覚めが悪いだろ、これでバレたら俺のせいみたいで」
「お前?」
顔を上げた有栖川は、ピンとこない様子で目を瞬かせる。
「俺を助けに来たから、ああなったんだろ」
「いや、そもそも俺が番のふりをさせたことが原因だ。全ての責任は俺にある」
有栖川は思い詰めたような表情をしていた。
「あれ、もしかして落ち込んでんの?」
「みなまで言うな。デリカシーのない奴め」
「散々やった後に思い出したように落ち込まれてもなー」
「……うるさい」
反論出来ないとすぐ「うるさい」でねじ伏せようとするんだこいつは。
ともかく。藍染の件は、明日早く学校に行って対処するしかないだろう。有栖川自身にその気が薄そうだから、俺が動いた方がきっと早い。
どちらにしろ俺も、藍染とは話をつけなければならなかった。彼が香我美を連れてきたのはあらかじめグルだったからに違いないし、何を考えて何をしたのか、どこからどこまでが仕組まれていたのか。確かめなければならないことはたくさんある。
薬がしっかり効いた俺は、翌日何事もなかったかのように学校へ向かった。
いつもより数十分も早い登校だったが、朝の学園はいつも通りの雰囲気で、昨日の一件や有栖川についての噂が出回っているような様子はない。
俺はすぐに藍染のクラスへ行って、教室の前で待ち構えた。彼の方も昨日はヒートを起こしていたが、ああいった薬を使った強制発情の場合、通常のヒートのように何日も持続することはない。普通に登校してくる可能性は高いだろう。
案の定、暫くすると藍染は姿を現した。俺を見つけるなりぎくりとしたように足を止める。
「ツラ貸せよ」
声をかけると、
「その言い方ヤンキーみたいだね」
と、微かに笑んだ。昨日は会話もろくに出来そうにない有り様だったが、一晩経って冷静さを取り戻したようだった。
しかし人を値踏みするような目つきと皮肉げに歪んだ口元のために、昨日までとはまるで別人のように見える。それでも愛らしい顔の造作故に、小生意気な美少年くらいの印象ではあるが……。こちらが猫を被っていない藍染の素なのだろうか。
「誰にも話してないよな? 有栖川のこと」
校舎裏に連れ出して前置きもなく用件を切り出せば、藍染は「まだね」と素っ気なく答えた。まだ、という言い方に含みはあるが、一先ず間に合ったことに安堵する。
「このまま、黙っててやってくれないか」
俺が言うと、藍染は「どうして」と、不思議そうに首を傾げた。
「どうしてって……そもそもお前は、有栖川のことが好きなんだろ?」
「そりゃね、好きだったよ。昨日までは」
藍染は校舎の壁に背中を預けながら、俺の方を見もせずに答えた。
「どういう意味だよ」
「どうもこうも。……騙されてた」
ひどく淡々とした、感情のこもらない口調だった。
「αだって、信じてたのに。よりにもよってΩだなんて」
「そんなの……関係ないだろ。Ωだろうがなんだろうが、あいつはあいつだよ」
俺は当たり前のことを言った。はずなのに、藍染はくだらない冗談でも聞かされたみたいに、ふんと鼻で嗤う。
「好きな人とは番になりたい。理屈じゃない、それがΩの本能だよ」
その言葉にふと、昨日の有栖川の姿が脳裏に浮かんだ。なんの意味もないのに、俺の首を噛んで泣き出しそうな声を漏らしていた姿が。
「そもそもΩ同士じゃなにも生まれやしない。非生産的だ。それにいつか本当に引きよせられる相手が――それこそ“運命”なんてものが現れたら、一瞬で崩壊するよ。常にαの影に怯える関係なんてご免だ」
何も生まれない、αの影に怯える関係……。
俺は咄嗟には言い返せなかった。藍染は自身の気持ちを吐露しているだけの筈なのに、その言葉は刃となって俺へと向けられているかのようで、息が詰まる。
気がつくと藍染は、黙り込んだ俺を観察するような目つきでじっと見ていた。そして、
「君は、あの人がΩでもいいの?」
と、静かに言った。
「いいもなにも……。俺たちは利害の一致で番のフリをしてただけだし」
「君たち本当に、付き合ってすらいないわけ?」
「ただの同級生だ」
「ふうん、そう。じゃあ僕が会長の秘密をバラしたって、君には関係ないね?」
「それは……それとこれとは、話が別だろ」
何がどう別なのか俺自身よく分からないまま、言葉を続ける。
「あいつはただ、頑張っただけなんだよ」
「……なんの話?」
「あいつが、成績がいいのも、スポーツ万能なのも、生徒会長として慕われてるのも全部、“αだから”じゃないんだ。あいつは――」
唐突に声が震えて喉の奥に詰まり、代わりに別のものが溢れ出しそうになった。一呼吸置いて、込み上げてくるものを押さえ込みながら言葉を続ける。
「あいつはただ、バカみたいに、ひたすら努力しただけなんだよ。なにも悪いことなんかしてない、自分の力だけで今の場所に居るんだ。だから、頼む。壊さないでやってほしい」
俺は深く頭を下げた。
有栖川がαとして振る舞ってきたのには理由があるのに、Ωだとバレたら全て水の泡だ。
生徒たちだって。これまでに有栖川の成し遂げてきたことが、Ωだったからといって無になるわけではないだろうが、藍染のように失望を露わにする者も少なくはないだろう。今まで通りではいられない。
周囲の自分を見る目が変わり、築いてきたものが崩れ去る。その辛さを俺は少しだけ知っている。しかし、
「壊すもなにも、騙してた方が悪いんじゃない。僕は真実を伝えるだけなんだから」
頭上から降ってきたのは冷めた声音だった。
俺は地面を見つめたまま考える。
一体どうしたらいいのだろう。
昨日のことを持ち出して脅す? しかし今藍染の神経を逆撫でしてはまずい気がする。敵愾心を強め、不都合な方向に背中を押す結果になりかねない。
――だめだ、賢いやり方なんて一向に思いつかない。
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