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「家に帰ったらなに食べたい?」
母はぼくによくそう聞いた。
ぼくはたいてい「おかあさんのご飯」と答えていた。
本当はびっくりドンキーのハンバーグが食べたかったけど、びっくりドンキーに行ったことは母には秘密だったし、おかあさんのご飯というと母は満足そうにするからぼくはいつもそうしていた。びっくりドンキーにはパフェもあるしハンバーグも美味しかったし、他のファミレスと違ってウッディーな造りなのも気に入っていた。
母の作る料理はどれも繊細な味付けで几帳面に盛り付けられていた。
野菜は無農薬か減農薬のもの、添加物が含まれていないものを好んでいた。
「遺伝子がごちゃごちゃになっちゃうのよ。あなたの部屋のようにね」
母はそう言っていた。
「農薬とかに含まれる悪いものがね、悪さをするの」
「へえ」
ぼくは綺麗なトマトを咀嚼しながら「このトマトも?」
母は満足そうに肯いた。
「そのトマトは私が育てたの。我が子のようにね」
「美味しいね」
「ええ、とても美味しいわ」
母は微笑んでいたけどその目の奥は温もりはなく、暗く冷たいものだった。ぼくは幼いながらもその奥にある得体の知れない不気味な影に怯えていた。
ぼくは曖昧に笑みを浮かべて、無邪気を装いご飯を食べた。
いつも母は食べ終わるまでずっとぼくのことを観察していた。まるで不正のひとつも見逃さない監視官のように鋭い目で。ご飯の一粒でも残そうものならテーブルが叩かれた。
我が家の食事中はそれらに関すること以外はしてはいけないという絶対的なルールがあった。
食事とは関係ない話やよそ見をするのも駄目だった。
時計を見ただけで母はテーブルを叩いた。
「やめなさい」とか「集中しなさい」とか言葉にせず、ただ手のひらでテーブルを叩くのだ。
母がテーブルを叩く音がぼくは苦手だった。
圧倒的に無機質で、言葉よりも威圧感があり、それ以上のマナー違反をやめさせるのには効果的だった。
テーブルが叩かれても父は黙々と食事を口に運んでいた。
そして母は食事を摂らなかった。
少なくともぼくの前では食べものを口にしている姿は見たことがない。かといって頬がこけていたり、具合悪そうにしている様子もない。肌は大理石のように滑らかで、母親という生き物の中で誰よりも若々しかった。
「お腹すかないの?」
ぼくは一度母に聞いたことがある。
「お母さんはね、不食なのよ」
「不食?」
「ええ、なにも食べなくても生きていけるの」
母はその話をしている時、目がとろんとしており、どこか夢を見ているようだった。
「へえ」
その事について父に聞いても「らしいね」としか言わなかった。父はその手の話題を避けているようもみえたのでぼくは深く追求することはしなかった。
食事に関しては半ば強迫的とも言えるほどのこだわりがあったけど、それ以外に関してはとても良い母親であったとぼくは思う。
週末は三人でよく公園へ散歩しに行ったり、DVDをレンタルしてきてポップコーンを食べながら(母は頑なに食べなかった)映画を見たりしたいた。ぼくが怖くてトイレに行けないときも嫌な顔せずついてきてくれた。
いちばん辛かったのは学校の給食の時間だった。
食事中、みんながそれぞれ話しながら食べている様子を見てぼくは唖然とした。
ぼくは家でのことが染み付いていたので喋ることができなかった。
話しかけられても上手く言葉に出来ずに、よくからかわれたものだった。
それで仲間外れにされたり、四六時中意地悪されたりしたわけではなかったけれどもやはり給食が苦痛の時間ということに変わりはなかった。
別に母がいないのだからしゃべれば良いものの、喋ろうとすれば不思議なことに母がテーブルを叩くあの音が聞こえてくるのだ。
だからぼくは口にかきこむようにして食べていた。
母が倒れた、と聞いたのはちょうど小学生最後の給食を食べている時だった。
給食中に担任がまず呼び出され、そのあとにぼくが呼ばれた。
食事の途中で席を立つことは母に強く禁止されていたのでぼくは椅子に固定されたみたいにすぐには動けなかった。
担任が苛立つようにぼくを呼んだ。
他のクラスメイトはその様子を手を止めて見ていた。
ぼくは給食の残りの量と、それらを最速で食べ終われるタイムを頭の中で弾きだした。残りの給食を思いっきり口にかきこみ、みそ汁で強引に流し込んだ。
担任が食事を止めさせようとしてきたけど、ぼくは無視して食べていた。
母は「例え家に泥棒が来たり、家が火事になってもご飯を食べる手を止めたらいけないからね」と冗談なのか本気なのか分からないことをよく言っていた。
とにかく食事が運ばれてきてから食べ終わるまで食事以外のことは考えてはいけない。
それでも担任はぼくの肩を掴んで止めようとしてきた。
「やめろ!」
ぼくは自分でもびっくりするくらい大きな声を出した。
そしてすぐにしまったと思った。
食事中の私語は厳禁とされていたからぼくは戒めとして自分の頬を3回叩いた。
その様子を見て担任は身を引いた。
後退りしたと言ってもいいだろう。
クラスメイトのざわめきも静かになった。
それでいい、とぼくは半ばやけにすらなっていたのかもしれない。
すると担任が離れたところから「君のお母さんが倒れたんだ」と言った。
ぼくのおかあさんが倒れた?
ぼくはブロッコリーを噛みながら母が倒れている様子を思い浮かべたけどすぐに払い除けた。
母が倒れようが倒れまいが今は食事に集中しなければならない。
しかし一度想像するとそれは頑固な鍋底の焦げのようにしつこくその場に留まっていた。
担任は「とにかく、君のお母さんが倒れた。いま、君のお父さんが学校に向かっている」と言ってきた。
ぼくは給食を食べながら、舌打ちをした。
どうして食事中に倒れたりしたんだ?
食事の時間を邪魔された苛立ちを抑えつつぼくは残りの給食を口に詰め込んだ。
行儀が悪いとは思うけどそれどころではないだろう。
鞄に授業道具をしまい教室を出た。
クラスメイトから遠巻きに視線を感じたけど無視するようにした。
まあ、いいさ。
校門を出ると父がいた。
「母さんが倒れたんだ」と言った。
ぼくは黙って助手席に座った。
父が乗り込み、車を発進させた。
しばらく走っていると「もうだめかもしれん」と父が言った。
ぼくは運転している父の横顔を見た。
そこから父の感情を読み取るのはなかなかむずかしかった。
悲しんでいるようにも見えるし喜んでいるようにも見えた、
ただまっすぐ前方を見ているようにも思えるけど、 その視線はもっと遠くを見ていた。
ぼくは視線を戻し、父と同じようにまっすぐ向いた。
もうだめかもしれん。
その父の言葉をぼくは出来るだけ細かく分解して自分の中に組み込もうとした。
だけど体はそれを受け付けず、心にたどり着く前に 食い散らされてしまい、また元の形に戻った。
ぼくは病院に着くまでの間その作業に没頭していたけれど、結局最後までうまく体に取り込むことはできなかった。しかしぼくはそれでいいと思った。今は取り込めなくても仕方ない。
病院に入ると看護師が病室まで案内してくれた。
案内された病室は個室で、ドアの横には母の名前が記されてあった。
それを見てもぼくはまだ実感を伴った出来事として受け入れられていなかった。
看護師は中まで入らず、病室の前で深々と頭を下げて去っていった。
思ったよりも広い部屋で、大きな窓からはふんだんに西陽が入り込んでいた。
その陽射しのぬくもりの中にぼくの母は寝ていた。
ただ寝ているようにしか見えないほど安らかな表情をしている。
「もう二度と目を覚さないらしい」
父が言った。
あらゆる疑問がぼくの中を支配していた。
しかしぼく自身がなにに疑問を感じているのかもよくわからなかった。暴力的とも言えるほどの理不尽な奔流の中で、頼りない木にしがみついてそれが収まるのをずっと待っているようなそんな心細さがあった。
ぼくは母の細々とした手に触れた。
冷たく、少しがさがさとしていた。
人間というよりかは人形の手のようで、それは母が人としての役割を少しずつ手放していっているということを表していた。
母の指の第一関節を眺めていると母の手が動いた。
気のせいと思えるほど僅かではあったけど確かに動いた。
ぼくは父を見た。
父もぼくを見ていた。
「母さん」
母はゆっくりとまぶたを開けた。
ぼくと父は卵から雛が孵る様子を眺めているように母ののことを見つめていた。
「おなか空いた」母が言った。
「え?」
「おなか、空いた」
ぼくと父はお互い見合った。
起死回生後の母から出た言葉にぼくと父はひっくり返りそうになった。
ニワトリの卵からカラスが産まれた時のような思わぬ言葉だった。
あ、と思った時には母は目を閉じていた。
母はそれから一生目を覚ますことはなかった。
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