幕間2:窮鼠猫を嚙む

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幕間2:窮鼠猫を嚙む

 ボクは姉が嫌いだ。確信できる。  張られてひりひり痛む頬が、蹴られてじくじくと痛むお腹が、胃から上ってくる吐き気が、吐き気で濁ってしまった中途半端な食欲が、全身全霊で訴える。ボクは、姉が嫌いだ。  そんな身体の文句を黙らせ、ボクは今日も姉に媚びる。狙いは彼女が、ボクの妹のために作ったオムライス。視線を姉の右手に固定して、甘えたような声で擦り寄る。彼女は金髪ポニーを揺らし不快そうに鼻を鳴らして、右手に持った皿を揺らす。苛立った様子で叫んで、ボクに何か指示を出している。でも──  「────、────だ、腹を────」  聞こえない。言う通りにしないとご飯は貰えないのに、聞こえない。ノイズが混じって、命令が聞き取れない。  あてずっぽうで寝っ転がって、お腹を見せて、舌を出す。  姉は不快に顔を歪ませ、ボクを見下ろして腿を上げると──わざわざヒールのついた靴を履いている──そのまま、ボクの腹を踏みぬいた。  一瞬息が止まって、内臓を巨人に握りつぶされたみたいな絶望的な痛みとともに、巣を突かれた蜂みたいな勢いで吐き気がやってくる。吐きそうになった。汚したらもっと痛い目に合う。寸前で堪えた。それに腹が立ったのか、顔を軽く蹴られた。折角止めた吐瀉物がちょっと漏れて、彼女の脚にかかった。  「────!!、────!!!」  聞こえないけど、怒っているのは分かる。ぞっとして、息を吸って、背中を丸める。予想通り、強烈な勢いで背中を蹴られた。床に全部出た。胃液のすっぱいニオイの水溜りができて、頬が半分浸かる。顔が踏まれ、ぺちゃっと音がして、床にぐりぐりと押し付けられる。  しばらくそうして、満足したのか、ボクの服で足を拭いて、姉は扉ひとつで繋がった、妹の部屋へ向かった。  胃液に浸かっていないもう半分の視界が、綺麗なままのオムライスを捉える。金色に輝いた卵焼きのカーテンが揺れ、深奥にチキンライスが見え隠れする。思わず唾液が出てしまう。それが腹立たしくて、悔しかった。    こんな性格が最悪の人間が作った料理でも、食べなくちゃ生きていけなくて。  自分で稼ぐ術は無くて、自分で作ることは許されなくて。  テレパスを覚えた。いろいろと伝えてみた。「痛い」「やめて」「叩かないで」「苦しい」と、伝えるたびに状況は悪化した。相も変わらず耳は聞こえないけど、姉の顔が真っ赤になって、肩がぐいっと吊り上がって、テレパスのせいでむしろ怒っているのがよく分かった。それ以降、使わないことにした。    腹を蹴られた。呼吸が止まった。初めのころはこれ一発でパニックになっていたのが、慣れたもので、呼吸が戻るタイミングまで待てばひきつけを起こさずに済む。それが気に食わないのかもう一発、もう一発。  扉の向こう、未だ見ぬ妹に助けを求めた。返答はない。こんな痛みに晒される事無くぬくぬく育っている妹は、ボクを助けてはくれない。  SOSが、扉に遮られているのだと思うことにした。聞こえていて無視しているのではなく、聞こえていないのだと思うことにした。心優しい妹を守って身代わりになっているのだと思えば、痛みにも耐えられる気がした。  笑っているのが気持ち悪いと、肩を蹴られた。  ぐちゃぐちゃになった自尊心が、歯ぎしりしながら暴れてるような感覚が、ずっと、ずっとあった。  それでも、ボクは生きていた。  こんな生活が、ずっと続くのだと思っていた。自分の命を永らえるために、誰かの顔色を窺い続ける生活がずっと続くのだと思っていた。  ──『もう、教えられることは無い。今日から、学校に行ってみよう』    姉の恋人に連れられて、久しぶりに学校に来た時は、怖くて仕方がなかった。  声が聞こえる『彼』と違って、ヒナ姉みたいに声が聞こえない人は、大概、最後には顔をしかめて敵になるから。  「ここは────だから、────」  「────、なんで────、なの」  先生が何か言っている。自分と同じくらいの子が何か言っている。やっぱり、何を言っているのか分からない。  分からなくなって、ボクは逃げた。動物に命令をしに外へ走った。輪の中から、勝手に怖くなって逃げだした。  だけど。  「────さん、─────が、たい」  そこにひとり、追いかけて来た男の子がいた。手作りの暗号表を抱えて、駆けよってくれた男の子がいた。兄妹だから、身内だから仕方なくというワケではなくて、もうすぐ疎遠になる男の子が、同じくらいの子供が、手間を厭わず来てくれた。それが何よりうれしかった。『彼』と違って声が聞こえないのに、味方だと確信できた。  将来のためとか、どうでもよかった。初めて友達から貰ったプレゼントだった。だから。  ──『────誰も────いないの』  あの日、ヒナ姉がインチョーにまで噛みついて。ボクに親切にしてくれたインチョーが、謝らせられて。  ──『ごめんなさい。余計なことして、ごめんなさい』  インチョーが何と言っているのか、聞こえないはずなのに、口の動きで分かってしまって。そのまま泣き出してしまったのを見て、胸がじくじく痛んで。  ──『ごめんなさ──おえ』  ついに蹴られたのを見て、溜まっていたものが一気に弾けた。  インチョーとの間に割って入って、本能のままに思い切り叫ぶ。  脳を揺らす大声は、姉の平衡感覚を破壊した。  倒れ蹲る姉を見下ろし、ボクは思う。  貴女がボクにしてくれたことが、何かあっただろうか。  言葉を教えてくれたのは、貴女の恋人の梶さんだ。  同年代と仲良くなる切っ掛けをくれたのが、インチョーだ。    貴女は痛みをくれるだけ。  いけしゃあしゃあと、その口で、ボクのためにと宣うのなら。  どうかボクらの知らないところで、車に轢かれて死んでくれ。
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