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ようやく少しだけ、本当にほんの少しだけ、結菜さんのことが分かった気がしていた。賑やかな人の輪を本当は少しだけ羨ましく思う俺の、こんな気持ちそのままに、その輪の中に飛び込んだ人。
──本当に、そう見えるかな?
まだ、その輪の中に、馴染めていないと思っている人。不安な気持ちを他の誰にも見せず、誰にも知られないよう秘密にして毎日を過ごしていたんだ。
「俺なんかと居るの、見られたら困るんじゃないの?」
俺なんかは、ただ人と関わるのが苦手で、面倒で、些細な話すら脈絡も繋げなくて低く流れてきただけなのに。そして、こんな俺は結菜さんにとって、無かったことにしたい過去だろうと、余計なことを尋ねてしまう。
ここまで同じ電車で来ておいてだとか、今まで散々話を聞いておいて、とかじゃなくて。結菜さんがどんな思いで数駅も離れた高校に通っているのかを知った今、改めて聞いておきたかった。
「大丈夫だよー。この時間に誰か来たのなんて見たことないし。相浦くんに、そんな迷惑はかけないから」
そして結菜さんは、俺の言葉をどう受け取ったのだろう。返ってきたのはきっと、この人の中にある不安の裏返し。
「それに……私、誰かに話したかったんだと思う」
結菜さんにとっての本音。どんな景色を見ているのかを、思う。
誰かに、話したかった。そんな言葉の揺らぎに、何かを意味を求めたいわけじゃなくて。
「相浦くんに聞いてもらって、良かった」
些細な言い回しに、何かを期待したいわけじゃないのに。思わず息を飲み損ねたことなんて、伝わらないって、分かっているのに。
「……その、結菜さんは」
見えもしない内心をごまかして、言葉の続きも用意できていないだなんて、きっと、どうでもいいことなのに。
「名前呼びとか、馴れ馴れしすぎて本当は嫌だよね?」
結菜さんが俺を見て、少し困ったような、もしかすると申し訳無さそうな表情を浮かべてみせるから。本当に何も言葉が続かない。きっと肯定として伝わった。
「ごめんね。この苗字、まだ慣れなくて」
みんなには秘密にしててね。そんな、弱さを隠さない表情だった。
この時間に誰か来たのなんて見たことない。そう言い切れるくらい、一人で、逃げ込んだ場所なのだろうか。誰の邪魔にならないよう生きてきたのだろう。
胸がザワザワする。何か、言ってあげないといけないのに。期待だ下心だなんて関係なしに、ちゃんと届いたんだって、伝えないといけないはずなのに。
「なんだか私、自分が喋りたいことばっか喋っちゃってる。こんなつもりじゃなかったのになぁ」
今、結菜さんがどんな気持ちなのか。本音に振り回されて、後で嫌気が差すくらい、弱いところを隠せなくなる気持ち、痛いほど分かるはずなのに。
「うまくやれてるつもり! だったんだけどなぁ……。結局私、なんにも変われてないや」
途切れた言葉に、どうすればいいか分からない。どうすれば、何か意味のあることができるのだろう。
「結菜さんは、凄いよ」
何か結菜さんのためになる意味を、選べない。これじゃダメだって分かっているのに。
「……そんなことないよ」
結菜さんが馴染めない言葉だって分かっていたのに。見え透いた否定に何も言い返せない。
「ほら。相浦くんになら、なんだって言えるのに」
身勝手に黙ったまま、なんでもない言葉に意味を求めすぎて溺れそうになる。相浦くんになら。俺になら。そんな、ただの言葉の綾に。
「肝心なこと、なんにも出来ないまま。こんなこと、もっと気軽に。そうじゃないのは、なりたい私じゃないのに」
勝手に『特別』を期待して、勝手に『その他大勢』だと思い知って、揺れる。望む自分を飼い慣らせていないのは、俺だって、同じだ。
このまま、誰でもよかった特等席に、甘え続けていたい俺もいた。
「結菜さんは、どうしたいの?」
だけど、全部壊れても構わない。終わっていた話を、もっと、もっとバラバラに。胸の痛みさえ心地良いような、答えの見え透いた問いかけ。階段から足を踏み外してみたくなるような、衝動を。
それでも心の何処かで、都合の良い答えなんかを期待していたりして、自分に嫌気が差すような内心が、顔に出ていないことを祈りながら。
「……うん」
結菜さんの言葉一つに、胸が潰れそうなほどの緊張感が伴う。いっそ楽になりたい。『諦められない』って聞いて、今度こそ、自分の心にとどめを刺したい。
ほんの少しだけ。『諦めたい』だなんて、終わりの続きを待ち望んでしまう自分を、殺して、殺して、押し殺して。
「ちゃんと……好きって、言いたい」
それでも、夜に溺れそうになる。小さな頃、親に叱られて歪んだ景色みたいに、世界の全部が胸に痛んで。
「応援してる」
それでも、それでも息を絞り出す。自分の声だけが世界の内側から吐き出されて、もう、水面がどっちの方にあるかすら分からなくなるほど、刺し傷の痛みに沈んでいるのに。
「やっぱり、相浦くんに話してよかった」
大人しく死なせてもくれない、声。夕焼けみたいな赤が滲んで広がって、熱を浴びるような声。
息を止めて、頷く。涙なんて浮かびもしないまま、俯き損ねて、顔を上げれば。
眩しいくらいの。
寂しいくらいの。
不安げな結菜さんの笑み。だけど、『大丈夫』だなんて簡単に言いたい気分じゃなくて、また頷く。目を逸らすみたいに。
気づけば辺りに虫の音が響いていて、遠く波音が肌寒い風に揺れる。足元が怖くなるくらいに真っ暗で。こんなにも近くにいて、触れられない。触れてはいけない。そんな、自分勝手な二人きり。夜が、これから始まる。
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