縛り、縛られ、囚われて~DomとSubの幸せな依存〜

2/33
前へ
/33ページ
次へ
 振り返る前にすぐに声の主に見当がついた。それは、親しくしている間柄だとかそういう理由ではなく、初対面の時の印象が強く不可抗力で顔を覚えたというだけのことだ。 「違うとは?その根拠は。今朝の採血データもバイタルも特に問題なかったように思いますが」  じろりと目線の圧を強くして振り返る。  へらへらしていると言っても差支えないほど、大らかな笑顔。こちらも男性看護師だが、看護師としてのキャリアの違いかもともとの性質の違いか(おそらく後者だ)、山瀬とは対照的に動揺する様子は全くない。  朝比奈伊吹、二十八歳。  二年前ここに来たばかりの頃、「佐々先生って二十六歳ってホント?じゃあ俺とタメ?」と驚くほど馴れ馴れしい自己紹介をされたから間違いない。なぜか内科部長や事務長など他職種のお偉方からも覚えがめでたく、不躾と紙一重のフレンドリーさや医療従事者としてはぎりぎりの明るさの髪色はいけすかないが、患者への対応はもちろん、緊急時の臨機応変な対応も的確な状況報告も伊吹の看護師としての仕事ぶりは悪くない。 「うーん、理由はないです。しいて言えば、勘ですかね?」 「勘?」 「そうです、勘です。うまく言えないですけど、なんかいつもと違うんですよ。もしかしたら、そう遠くないうちに病状悪化もありえるのかなって気がして。前に田中さんも家に帰りたいって言っていたし、自宅退院がぎりぎり可能なうちに叶えてあげられませんかね?どうしても、無理ですか?」 「朝比奈さん。つまり、君は何の根拠もなく勘で治療方針を変えろと」  話しているうちに最近怜一を悩ませている頭痛がひどくなってきて、こめかみを抑えながら二人まとめて睨みつける。 「治療方針を決めるのは主治医の私です」  さっきまであれほど色んな音と声でせわせわしなかったナースステーションに突然静寂が訪れ、怜一のとげのある声が響く。ナースステーションにいるすべての人間が、息を潜めて怜一の言葉を聞いている。 「家族には、今後の転院先をソーシャルワーカーと相談するように伝えて下さい」  嫌われようが疎まれようが、怜一は医師としての矜持を曲げるつもりは毛頭なかった。  医局に戻り手を洗いながら正面の鏡に目をやると、そこに映った顔は普段以上に顔色が蒼白で表情に剣がある。デスクの中のピルケースから錠剤を飲むと、薬が効くのを待たずにデスクに積み上げてため込んでいた書類に手をつけた。  怜一がこの病院に来てから二年。それなりに忙しい日々を送ってはいるが、大学病院で最新の医療に携わっていた頃と比べるとどうしても物足りなさを感じてしまう。  地方都市にあるこの病院は、地域に根差した医療を提供していると言えば聞こえは良いが、少子高齢化著しいこの地域の事情を反映し、患者の大半は老化に伴うありふれた慢性疾患で入退院を繰り返す高齢者だ。  都市部の大学病院に比べ設備や人的資源など様々な点において大きな差があり、提供出来る医療も大きく異なる。地方の中規模病院では高度な医療に携わる機会はほとんどなく、医師としてのやりがいと引き換えに職務の難易度や忙しさも半減した。  労働環境としてははるかにいいが、しかし、以前よりも余裕がある状況にも関わらず、怜一は慢性的な疲労感と様々な体の不具合に悩まされ続けている。 「佐々先生、もう定時ですよ。今日は早く帰ったらどうですか」
/33ページ

最初のコメントを投稿しよう!

51人が本棚に入れています
本棚に追加