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プロローグ
四月七日。春休み最終日。桜の花びらがちらちらと降り積もる中、全力で自転車のペダルを漕ぐ。力を入れすぎてふくらはぎや太ももが痛くて歯を食いしばる。まだ涼しい季節なのに額に汗が伝う。
それを拭うことすら惜しくて、とにかく自転車を全力で漕いだ。一分、一秒でも早く目的の場所に辿りつくために。
目の前の信号が点滅し始めたところで、さらにペダルを踏み込む。こんなときに信号なんて待っていられるはずがない。
ギリギリのところで横断歩道を渡りきり、右に曲がって細い路地に入る。目的地まであと十メートルというところで、曲がり角から人が現れた。
「危ねえっ!」
スピードを出し過ぎていたせいでうまく避け切れず、自転車に乗ったまま横転し、体は地面に激突した。一瞬、何が起きたのか理解できなかったが、全身に痛みを感じながら目の前で希望が消えていったことだけはわかった。
「うわああ! すすすすすみません! 大丈夫ですか!?」
「ってえー! どこ見てんだよ!」
膝や腕の痛みに耐えながら立ち上がると、ぶつかりそうになった相手は目と鼻の先に立っていた。あまりの至近距離に驚いたが、何より驚いたのはその顔だった。
「怪我、してませんか!?」
慌てふためく相手は、俺の手や顔を無遠慮にぺたぺたと触ってくる。
「え……あ、ああ」
女? いや、男か? どちらともいえない顔立ちだった。やけに目が大きくてまつ毛が長い。童顔で女顔の男か、あるいは男に見えなくもない女か。どちらにせよ驚くほど整っていた。思わず見惚れてしまうほどに。
「あ! 血が出てる……! すみません! ぼうっとしてて。今絆創膏貼りますね!」
「あー、いいよ。俺も悪かったし」
相手はこちらの話を聞いていないのか、聞いた上でなのか、ポケットから取り出した絆創膏を俺の右頬に貼った。
「って、こんなことやってる場合じゃねえ!」
スマホで時間を確認すると、予定の時間を過ぎていた。
ああ……終わった……。
「えっと、あの大丈夫ですか? ほかに痛むところがあるなら一緒に病院に……」
その大きな目は、今にも涙が溢れるんじゃないかというほどきらきらとしていて、怒りも何も湧いてこなかった。
「大丈夫、大丈夫。悪かったな。そっちこそ怪我ねえか?」
「大丈夫です。本当にごめんなさい」
「いいよ。俺、体は丈夫だし。気いつけろよ。じゃあな」
倒れていた自分の自転車を起こすと、キュキュキュという不自然な音が聞こえてきたが、気にしている余裕はなかった。
何しろ予定の時間が過ぎてしまったのだ。大切な、大切な時間が。過ぎてしまっては意味がない。これまでの努力がすべて無駄になってしまった。
あと、一歩というところだったのに。目的地に背を向け、体の痛みに耐えながら自転車を引いてのろのろと歩く。後ろからぶつかった相手が何か言っているような気がしたが、車のエンジン音にかき消されてよく聞こえなかった。
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