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おなかがすいた
「はい、ごはんよ」
妻が食事を持ってきてくれる。仕事からの帰宅後、しばらくたったころだった。
「いらない」
私は断る。手元の端末でゲームをする。
「どうして? あなたがさっき『おなかがすいた』って言ったのよ?」
「言ったけど、いらない」
妻のお手製ハンバーグ。調理用の手袋もせずに、直接手でこねたのだろう。
「はあ……」
妻は露骨にため息をついた。熱々の鉄板から立ちこめる湯気が揺れる。
「あなた、昨日もおとといも食べなかったでしょ? 私、知ってるんだから」
昨夜とおととい、夜中に帰宅した私はキッチンに用意された食事を食わずに、そのまま生ゴミのバケツのなかに捨てていた。妻が揚げたからあげとシチュー。妻はそのことに気づいていたのか。
「食べないと、身体に悪いわよ?」
心配したふうをよそおう。私は無視する。
「ちょっと! 聞いてるの? どうして食べてくれないのよ! 今まではちゃんと私の料理を『美味しい、美味しい』って言って食べてくれたじゃない!」
まえと今とでは私のなかの事情は変わっている。
「もしかして、あなた、外でほかの女と……」
妻の顔が真っ赤になる。こいつは感情がすぐに顔に出る。それがいちいち馬鹿らしい。
「うるさい! 黙っていてくれ!」
私は少しでもゲームに集中したい。こんなことで妻に集中を邪魔されたくなかった。
「どうして、あなたはそんなにわがままなのよ」
私のわがままは今に始まったことではない。この女はそれを知って結婚したはずだ。よもや私の社会的地位や私の持つ財産に目がくらんで結婚したわけではあるまい。
「うるさい。私にさからうな!」
私は妻の食事から目をそらす。面倒なので目をつぶった。
「ちょっと、いったいなにが不満なの?」
一番の不満は、妻のこのヒステリーだ。
「あのねえ、あなた……」
妻はとつぜん、穏やかな口調になる。
「もういい年齢なんだから、いつまでも子どもみたいなわがまま言わないでよ。それに私たち、もうすぐ親になるのよ」
そう言って、妻は大きくなった腹をなでる。
「いい? 世のなかにはね、食べたくても食べられない人だっていっぱいいるの。食べられることがありがたいことだって考えてよ。それでなくても、今は実質的な食糧難で昔みたいになんでも好きなものばかりを食べられる時代じゃなくなってるのよ」
妻はもう自分が母親にでもなったみたいな言い方だった。たしかに、昨今のスーパーでの食料品の異常な値あげにかんしては、私だって知っている。温暖化や寒冷化の影響で野菜の値段が高騰し、卵でさえも優等生ではなくなった。今まで普通に買えていたものが買えなくなっていることだって理解はできる。だが、これでは、まるで私が子どものようではないか。
「とにかく、私はきみの作る無神経な料理は食べたくないんだ」
「どうしてよ! 無神経ってなに? いったいなにが不満なのよ」
あまりのしつこさに、私も頭に血がのぼった。
「うるさい! きみの作る料理は気持ちが悪いんだよ。とても食べる気がしない。こんなものを食べさせようとするきみの神経を疑うよ!」
「はあ? なにそれ、最低。どうして、そんな酷いことが言えるの?」
今度は泣き落としか。くそっ。空腹でいらいらする。
「もう、本当に怒ったわよ。今日こそは、無理やりでもあなたに食べてもらうから」
「だから、食べたくないって言っているだろ!」
「うるさい! 私が一生懸命作ったのよ! ほら、食べなさいよ!」
妻は皿のうえの大きな肉を手でつかんで、私の口に持ってきた。
「ふざけるな!」
私はその手を振り払う。
「きゃっ」
肉が落ちる。勢いあまって、妻が倒れる。おなかをかばって倒れたせいで、変なところを打ったみたいだ。
「ううっ……痛い……なにするのよ……」
妻が泣き出す。
「どうして……私……一生懸命頑張ってるのに……あなたには……これからもずっと健康でいてもらいたいだけなのに……」
そんなことはわかっている。だが、許容できないことだってある。
「お願い。あなた、パパになるのよ。いつまでも意地張ってわがままなこと言ってないで、この子のためにも……食べてよ……あなた、もうずっと食べてないでしょ……このままじゃ本当に餓死しちゃうよ……」
「うるさい!」
私は叫んだ。
「私はもう食べないって決めたんだ」
「うるさくない!」
妻も声を荒げる。泣きながら、嗚咽をあげながら怒り散らす。
「食べるものが、ほかにないんだからしかたないじゃない。この飢餓状態を打破するためには、食べる人の数を減らさなきゃいけないってニュースでも言ってるでしょ? このままじゃ、人類は全滅しちゃうのよ? そのために新しい法律だってできたんじゃない。人類を滅亡させないために、私たち選ばれた人たちだけが生き残れる世界を作るって決まったの」
「そんなことはわかっている!」
だが、私はもう食べたくなんかないんだ。
人間の肉なんか。
『おなかがすいた』
END
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