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13話
「水原くん、ちょっといい?」
お昼休み。水原がお弁当を食べ終わった頃を見計らって、愛華は彼を屋上に呼び出した。
「何の用だ、こんなところまで連れて来て」
水原の態度は相変わらずである。怒っているわけではない。彼はもともとこういう話し方なのだ。
愛華は水原を正面から見据える。水原を前にすると、固めてきた決意が揺らぎそうになる。
愛華が今から口にすることは、水原にも愛華と同じ思いをさせることになってしまうことだった。
愛華はそれにどうしても胸が痛んで、今の今まで告げることができなかった。けれどいつまでもこのままという訳にもいかない。それは水原に失礼だ。
ようやく心の決まった愛華は、大きく息を吸って胸に手を当てる。
「水原くん、私のこと好きになってくれてありがとう。私、男の子に告白されるの、水原くんが初めてだった」
嬉しかった、とても。
でも、やっぱり。
「私、好きな人がいるの」
愛華はそう、きっぱりと口にする。
(椿くんへの好きの気持ちは、消せなかった…)
椿のことなんて忘れて、水原と付き合えたらどれほど幸せだったろうか。水原ならなんだかんだ愛華を大切にしてくれて愛してくれるだろう。ピアノだって、今よりも一緒に取り組んで更に切磋琢磨できたのかもしれない。
けれど。
愛華が恋をしたのは、椿だった。
音楽室から見た楽しそうに走る椿の姿が忘れられない。
自分も危ないと言うのに、駅で愛華を助けてくれた椿。
愛華が困っている時、悲しんでいる時、いつも彼は傍にいてくれて。
椿と話していると楽しくて、なんだかこちらまで明るくなれるような、そんな力が椿にはあると思う。
例え椿が美音を好きで、愛華のこの恋が叶わないとしても。
「私はやっぱり、椿くんが好きなんだ」
恋をするなら、椿がいい。これから先もずっと。
「だから、ごめん…。私、水原くんとは付き合えないの」
覚悟を決めてきたはずなのに、どうしても胸が痛む。失恋の痛みは、愛華が一番よく分かっていたから。
愛華の言葉に口を挟むことなく、水原は最後まで静かに聞いていた。
「愛華」
「うん」
「愛華のことだから、悩んでくれたのだろう。ありがとう」
「うん…」
「でも、その決断は愚かだと思う。どうせ叶いもしない恋にいつまでも執着しているなんて、馬鹿馬鹿しいと思う」
水原の言葉はもっともだ。愛華だって本当は分かっている。それなのに、結局未練がましく椿を追いかけてしまう。
水原は浅くため息をつく。
「ま、愛華は諦められないだろうと思っていたけどな」
「え…?」
「その椿とかいう男のことが相当に好きらしいことはよく分かっていた。だってある時から愛華の演奏は、見違える程に変わったのだから」
水原の言葉に、愛華は目を瞬かせる。
「恋をして変わったんだろう。きっと、その恋は愛華にとっていいものだったんだ」
「水原くん…」
「ま、今度また恋愛云々で泣き喚いても、もう胸は貸さないからな。俺を振ったんだ。自分でなんとかしてくれ」
「うん、分かってる」
水原はいつものように淡々としていたけれど、愛華には彼がどことなく悲しそうな笑みを浮かべているように感じた。
水原から貰った温かい気持ちを、愛華は心に大事にしまった。
「次のコンクールこそ、愛華と競い合えるのを楽しみにしている」
「うん!絶対に負けないから」
愛華と水原は笑い合った。
きっとこれからも愛華と水原は、ライバルとして切磋琢磨していく。
高校三年生に進級するまで、もうあと二か月を切っていた。
高校三年生になったらきっと忙しい。愛華もいよいよ進路をしっかり決めなくてはならない。
きっと恋に全力でぶつかれるのは、今だけだ。
愛華はまたコンクールに向けた練習を本格的に進めていった。
愛華はここ数か月で、少し強くなったのではないかと自負している。
椿に頼りきりだった昔の自分とは違う。
失恋の痛みも、友人を失った悲しみも。きっと愛華の演奏の引き出しになってくれるだろう。
無駄な経験なんて一つもない。
そう、愛華は思えるようになってきた。
時間が経っても、失恋の痛みはなかなか消えてくれない。それはまだ、愛華が椿のことを好きだから。
けれど愛華の心は、前を向いていた。
椿にこの気持ちを伝えることはないだろう。
椿は美音のことが好きなのだから、愛華が気持ちを伝えたところで、結局断られるのが関の山だ。結末は分かり切っている。
いっそ気持ちを伝えてしまって、踏ん切りをつけようかとも考えたが、椿にとっては迷惑になるだけだろう。
そう考えると、この気持ちは言葉にはせず、愛華の胸にしまっておくしかない。
愛華は椿への想いを無理に消そうとはせず、ただ時に身を委ねることにした。
好きの気持ちは消そうと思ってもそう簡単に消せるものではない。ならば思い続けてもいいのではないだろうか。彼の迷惑にならないよう、ひっそりと。
そうしているうちにもしかしたら、気持ちの整理もつくのかもしれない。
愛華はそう結論付けた。
(決して叶うことのない、片想いに戻るだけ…)
放課後はいつものように音楽室でピアノの練習をする。
高校に入学してからずっと変わらない放課後の使い方だ。愛華にとって一日の中で一番安らげる時間であり、心地良い時間だ。
愛華はいつもように音楽室のベランダに出て、グラウンドを見渡す。
そこには変わらず椿がいて、一生懸命に部活動に打ち込んでいる。何本も走ってタイムを測定している。彼はずっと前を向いて走り続けている。
そんな姿に愛華は心奪われたのだ。
自分も彼のように目標に真剣に向き合いたい。彼に負けないようにピアノを頑張りたい。
そしていつか、愛華と彼の世界が交わったら。
その時は、彼に胸を張れる自分でいたい。
そんな風に思っていた。
その想いは、彼に恋し、失恋してしまった今も変わらない。
愛華はピアノを弾き続ける。
彼に恥じない自分でいるために。
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