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14話
ピアノ教室のレッスン帰り。その日もいつかのように遅くなって、駅に到着する頃にはもう辺りは真っ暗だった。ちょうど電車も遅延していて、椿が助けてくれたあの日みたいだ、と愛華は思った。
(椿くんは私のこと、どう思ってたかなぁ。友達だって、思ってくれてたのかなぁ)
愛華が思う椿としては、一度話したらもう友達だろ!、などと口にしそうである。
(もし私のこの気持ちを伝えていたら、何か変わったりしたのかなぁ…)
きっと変わりはしなかっただろうことは十分理解しているのだが、ついとりとめもないことを考えてしまう。
友達でいられなくなったとしても、愛華はきっとしばらく椿を思い続けるだろう。この気持ちを諦めることなんて、考えられない。結局行きつく先は同じなのだ。
愛華は駅のホームの先頭に立って、少し辺りを見回す。
(今日もしまたここで出会えたら、私の運命の人は椿くん)
遅延した電車のせいでいつもよりも長く立って待ちながら、愛華はそんな無意味な願掛けのようなことを考える。
自分が彼の運命の相手でないことは分かっているのに。
それでも愛華は、愛華の運命の人は椿だと思いたい。
(なんてね、今日はレッスンかなり遅くなっちゃったし、きっと会えるはずないよ)
それからまた十分ほど電車を待って、遅れた電車が駅に到着するアナウンスが流れ始めた。
混んでるだろうなぁ、乗れるかな…そんなことをぼうっと考えていると、大きな警笛を鳴らして電車が駅のホームへと滑り込んでくる。
その瞬間、愛華は誰かに思い切り突き飛ばされた。
それはもう完全に突き飛ばされたと、愛華にもはっきりと感じるものだった。
この前みたいに肩に誰かがぶつかったのかな、という程度のものでは決してなく、背中のど真ん中を思い切り、手のひらで押されたのが分かるほどの力強さだった。
完全なる悪意を感じた。愛華のことが嫌いでいなくなってほしいと、力強く願う手だった。
当然愛華は振り返ることなんてできずに、バランスを崩して線路に前のめりになる。右手から電車がぐんぐんと迫ってくる。
(なんだ、結局私は、こうやって死ぬ運命だったんだ)
あの時たまたま椿が助けてくれただけ。椿のおかげで楽しい日々が送れたけれど、それはちょっとの神様の気まぐれだったのかもしれない。愛華の死は決まっていたのかもしれない。
愛華は諦めに似た嘲笑を頬に浮かべて、静かに目を閉じた。
電車が愛華に接触する、その寸前、愛華はまたお腹に衝撃を感じて後ろに引っ張られた。
耳をつんざく様な警笛を鳴らしながら、目の前すれすれに電車が通過していく。
いつか見た光景と全く同じ。過去に戻ったみたいだった。
「平気か!?」
耳元に響く声に、愛華は泣きそうになった。
聞き間違えるはずなんてない。ずっと好きで、ずっと聞きたいと思っていた声なのだから。
「…椿くん……」
愛華の後ろには、愛華を支えたまま尻餅をついた椿がいて、その表情は心配というよりも、怒りの色に染まっているように見えた。
震える声で「…平気だよ」と返事をすると、椿はいつかのように辺りをきょろきょろと確認して立ち上がった。そして椿からは聞いたこともない怒号のような声が響き渡る。
「おい!お前、自分が何をしたのか分かってんのか!?」
椿は誰かに向かってそう怒鳴っていた。愛華もふらりと椿に駆け寄って、椿が腕を掴んでいる相手の顔を見た。
それは愛華の良く知る女の子だった。
「麗良…ちゃん…?」
そこにいたのは麗良だった。椿を睨みつけ、腕を振り解こうとしている。
「この子が愛華さんを突き飛ばしたんだ!この前も!」
「え…?」
「この前は俺の見間違いだと思って言わなかったけど、今回は絶対見間違いなんかじゃない。愛華さんを思いっきり突き飛ばしてたのを見たんだ」
確かに今回は背中の真ん中に掌のような感触があった。やはりそれは愛華の勘違いではなかったのだ。
「離してっ!!!大事な腕なの!!!」
麗良の声に、椿は思わず手を離してしまう。しかし麗良は逃げるようなことはせず、ただただ愛華を睨み付けていた。
「誰この人、超最悪。麗良の大切な腕なんだよ?ピアノ弾けなくなったらどうしてくれるわけ?」
麗良の言葉に、椿の怒りはまた募ったようだった。
「あのなぁ!こっちは下手したら死んでたかもしれないんだぞ!?何考えてんだ!?」
「知らないし。邪魔なんだもん、愛華ちゃん。水原くんは相変わらず愛華ちゃんのことばっかり気にしてるし、愛華ちゃんなんて、いなくなっちゃえばよかったのに」
「麗良ちゃん…」
麗良の気持ちは随分前に分かってはいたが、これほどまでに憎まれていたとは。
(麗良ちゃん…私が死んでもいいってくらい嫌いだったんだ……)
「愛華さん、警察に言った方がいいって」
椿の言葉に、愛華はゆるゆると頭を振った。愛華はキッと麗良を見据えるとこう告げる。
「麗良ちゃん、ピアノで決着つけよう。次のコンクールで私が勝ったら、こういうことはもう止めて」
愛華の提案に麗良はにっと笑った。
「いいよ?だって愛華ちゃん、絶対麗良には勝てないもん」
麗良は余裕たっぷりの笑みを浮かべて去って行く。
愛華はほっと息をつくと、緊張の糸が切れたように力が抜け、その場にぺたんと座り込んでしまう。
「愛華さん!?」
椿が慌てて愛華を支えると、近くのホームベンチまで連れて行ってくれた。
「ありがとう、椿くん」
隣に座った椿が不服そうに唇を尖らせる。
「いいのかよ、あの子放っておいて」
「うん…いいの。この決着は、自分でつけるから」
愛華の強い眼差しに、椿は「…分かった」と渋々頷いてくれた。
前回はボロボロで何もできなかったコンクール。今度は麗良に負けない演奏をしなくちゃいけない。
愛華はそう、心に強く決めた。
「椿くん、また助けてもらっちゃったね」
「愛華さんが無事ならなんだっていいって」
やっと張り詰めていた緊張が緩んだのか、椿もひと息をつきながら愛華の隣で伸びをした。
その椿に向かって、愛華は言葉を選びながら真っ直ぐに彼の瞳を見つめた。
「椿くん、来週、音楽室に来てほしいの」
瞬間きょとんとした椿は、「ああ!」と言って、ぽんと掌を打つ。
「俺がまた演奏聴かせて、って言ったやつ?」
「そう、来週来てもらえないかな?それまでに仕上げておくから」
「わかった、部活の後で少し遅くなっちゃうけど、寄れそうな日に連絡する」
「うん、待ってるね」
愛華は決意を胸に秘める。この演奏が最後だ。椿と関わる最後の日になるのだ。
愛華は失恋したその日から薄々考えていた。
椿を好きな気持ちは変えられないし、きっとずっと彼を思い続けるだろう。
けれど、椿と関わるのはもうやめよう、と。
(また遠くから眺めるだけの、憧れの人に戻るんだ)
このまま一緒にいても辛いし、苦しくなるのだ。だったらまた以前の様に、こっそり椿を眺めて元気をもらう。彼と出会う前の関係に戻そうと思った。
それが愛華の心にとっても、折り合いのつく丁度いい関係なのだ。
「…愛華さん、なんか変わった?」
「え?」
「なんつーか、雰囲気変わったような…?」
「そ、そうかな…」
自分では全く分からない。けれど、そうかもしれない。
椿を好きになって、この恋に未来はないと知って、友人関係も色々とあって。
愛華は、ここ数か月、考え悩み抜いてきた。そして今、また前を向いて歩き出そうとしている。
(全部きっと椿くんのおかげなんだ。私は、あなたに恋してよかった)
椿は不思議そうに首を傾げて、愛華の顔を見ていた。
愛華は椿がいつもそうしているように、にっと笑いかけてみた。すると椿も同じように笑い返してくれる。
(この人の笑顔が、私の原動力だ)
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